温室で写真嫌いのふたりは名前のない関係を選ぶ

温室で写真嫌いのふたりは名前のない関係を選ぶ 第4話「第3章」

温室の空気は、昼下がりの温度計が示すよりも重かった。硝子越しに差し込む光は葉の裏を透かし、緑色の粒子となって柊の肩に落ちる。蒸気と土の匂いが混ざった密室に、ふたりだけの時間を飾るように置かれた小さな木箱があった。中には彼らが昨日から少しずつ作っている「共同のもの」が、乾いた蜜のような匂いを放っている。押し花、細い糸で綴じた紙片、撮られないための設えだった。

温室の空気は、昼下がりの温度計が示すよりも重かった。硝子越しに差し込む光は葉の裏を透かし、緑色の粒子となって柊の肩に落ちる。蒸気と土の匂いが混ざった密室に、ふたりだけの時間を飾るように置かれた小さな木箱があった。中には彼らが昨日から少しずつ作っている「共同のもの」が、乾いた蜜のような匂いを放っている。押し花、細い糸で綴じた紙片、撮られないための設えだった。

「もう綴じる?」遥が言って、薄い紙片を指先で確かめる。彼女の手は植物の繊維を扱うように慎重で、その所作が目に潤いを与える。柊は頷きながら、蓋の端に触れた。木の節のざらつきが、どこか落ち着く手触りだった。

ふたりで作ったものには、彼らの「痕跡」が残る。言葉にできない感触や、互いに向けた微かな拒否や、密やかな合意が、紙や花びらに滲み出す。だが、その痕跡は「決めつけられる」ことを極端に嫌った。先に結論を急いだり、相手の心を確言するように扱えば、痕跡は消える。そういうルールを、ふたりはまだ実験している途中だった。

しかしそのとき、温室の扉が乱暴に開いた。冷たい空気と共に、三人の足音が侵入する。咄嗟に柊は立ち上がり、木箱を引き寄せた。背中に小さな針のような緊張が走る。遥も同じ動きを見せ、ふたりの動きは無言で噛み合う。

「きゃあ、見て見て、温室デートってやつ?」美里がカメラを構えながら言った。笑い声を絞るようにして、隣にいる楓がスマートフォンを構える。どちらも、その日噂に敏感な顔つきをしていた。噂というナイフを手にした人間は、決して手加減をしない。

「写真はやめてください」遥の声がすっと冷えた。頼みではない。断ることの裏にある緊張が、柊にも伝わる。柊は手を伸ばして、木箱を身体の前に抱え込んだ。箱は軽いが、なぜか心臓が一つ増えたように重かった。

美里は眉を上げ、口の端で薄く笑った。「いいじゃん、ただのスナップよ? 私、いいカット撮れるからさ。ほら、二人ともいい感じじゃん。」

楓がシャッターの位置に合わせた瞬間、柊は本能的に何かをした。言葉が出る前に、彼は木箱の蓋を強く押し付け、手のひらで包んだ。掌の内側に、覚えのある生温かさが寄せる。それはふたりの時間を守るための、ささやかな儀式だった。

光が楕円形に収束した。楓のカメラのレンズは、いつでも世界を切り取る準備ができているように澄んでいた。だがレンズの表面に、微かな亀裂が一瞬走った——朝露の蜘蛛の巣のように、白い線が網目を成して広がる。柊はそれを見た瞬間、手が堅くなるのを感じた。次の瞬間、金属と樹脂が混じったような乾いた音がして、シャッターは鳴らなかった。レンズは指先で押したように、粉を吹くように砕け散った。

「えっ?」楓の声は驚きと怒りが混じっていた。美里はスマホの画面を確認する素振りを見せるが、表示は一瞬のうちに黒くなり、次いで「カメラエラー」の文字が浮かぶ。周囲にいた生徒の気配がどっと押し寄せる。だれかが「意図的だ」と言い、別の誰かが「壊したの?」と柊に指をさす。

柊は動くべきかどうかを一瞬迷った。掌の下で、木の箱がほんの少し割れ目のように響いた。遥の指先が彼の手に触れ、短く拳を作る。温度が伝わる。だがその温度は、確かにそこにあったはずなのに、柊の記憶の外側にある。彼は何かを思い出そうとして、指の節に触れた指紋の細部だけが頼りだった。

「写真は取らないでって言っただろう?」遥は声を荒げず、しかし刃のように鋭かった。美里は小首を傾げ、からかうように言う。「そんなに嫌がるんだ。なんで? 付き合ってるとか?」

その言い方に、周りの生徒たちが期待という赤い花を咲かせる。柊の胸が熱くなり、逃げ場のない視線が集まるのを感じた。風が硝子の隙間から差し込み、葉が擦れる音が、遠い拍手のように響く。柊は一歩前に出て、はっきりと言った。

「名前はいらない。撮らないでくれ。」

言葉が出たとき、木箱の中で何かが小さく響いた。遥の目が一瞬潤んで、彼女は頭を振った。「あんた、それ言うなら…」と、言いかけて黙る。怒りと希望が交差する顔だった。

その瞬間、楓がスマホの背面を見て小さく叫んだ。「ねえ、さっきのが…保存されてる?」だが画面に映るのは昨日の風景の一部だけで、今この瞬間は映っていない。誰かが言った。「レンズ、割れてる。さっきまで動いてたのにね。」

群衆の一部は興奮を隠せず、もう一度記念写真の声が上がる。柊は木箱を抱えたまま、その場で膝を落とす。遥は彼の腕に頭をのせるようにして、自分の胸で呼吸を整えた。人の眼差しは鋭さを増し、彼らを追い詰める。柊はふと、掌の中にある温もりの輪郭をなぞるが、そこにあるはずの数分の会話や、遥の笑い声の細部が、塗りつぶされたように消えていることに気づいた。

——空白。

それは細い空白だった。だが空白の端は痛かった。ふたりで過ごした直前の、遥が笑って手を差し伸べた瞬間。柊にはその笑顔の輪郭しか残らない。言葉の断片、花の匂い、手と手が触れたときの短い抵抗感が欠落している。胸の奥の色が一色だけ抜け落ちたような感覚がして、彼は驚いて息を吸った。

「……大丈夫?」遥が声を潜める。柊は首を振って、「うん」とだけ言った。だがその「うん」には揺らぎがあった。

騒ぎは校内に伝わっていく。誰かが監視カメラに映っているかを気にする声がして、別の生徒が「温室、撮影禁止って張り紙ある?」と尋ねる。だが多くは、ただ噂の餌を求めているだけだった。

「私、撮ってないよ!」美里はスマホを示してみせる。だが背後でさっき割れたカメラの持ち主が叫んだ。「あいつらが壊したんだ!」と、指は柊と遥を指す。その叫びは急速に大きくなり、理不尽さと正当性が混ざった混声合唱となる。

柊はその中で、ふたりだけの匂いを探した。木箱の中の押し花は、まだ淡い色を保っていた。彼は恐る恐る蓋を開け、指を入れる。花びらは紙に押され、見た通りだが、いつもの少し異なる輝きを帯びているように見えた。彼はこれが「痕跡だ」と無意識に呟きかけた。だが言葉は飲み込まれた。言葉にしてしまうと何かが消えるという恐怖が、彼を押し留める。

遥が紙片をそっとめくり、唇を寄せて目を凝らす。紙の繊維の中に、確かにふたりの昨日の会話のリズムがまだ残っているように見えた。紙は呼吸するように、薄い陰影で息づいている。柊は心の中で恐る恐る思った——「彼女はこう考えたはずだ」と。だがその思考が口に触れた瞬間、紙の繊維に拡がっていた陰影が一瞬でぼやけ、輪郭が溶けた。午後の光が跳ね返るように、何もなかったかのように平らになった。

「見えない?」遥が顔を上げる。目の下に小さな皺が寄っている。柊は首を振る。言葉にしようとした「彼女はこう思った」という決めつけが、痕跡そのものを消し去ったのだ。ふたりは息を呑む。柊の胸の中で、空白がまた広がる——さっきのような忘却ではなく、何かを触れてはいけないという自己制御が働いた。

「決めつけちゃ駄目だ。急ぐと壊れるんだ」遥が低く言う。彼女の声には、訓練された断言ではなく、震える実験者のような慎重さがあった。柊は掌の中の木箱を見つめ、指の先で端を撫でた。指の腹に伝わる凹みは確かなものだ。だがその凹みに、ふたりの関係を示す名前