温室で写真嫌いのふたりは名前のない関係を選ぶ 第11話「第10章」
温室は夜の息を吐いていた。外気よりも湿った温度がガラスを曇らせ、白い蛍光灯が時折小さく瞬いては、熱帯の葉の影を上下に揺らす。土の匂い、腐葉土の湿った匂いが鼻の奥にまとわりつき、指先には薄い粘りが残る。柊はガラスの曇りに、指で細い一本の線を引いた。線の向こう、結(ゆい)は自分の指先で小さな鉢の土をならしている。二人の間にあるのは、まだ名前を持たない寄せ植えの箱と、役所からの通達の写し。蛍光灯の振動が紙の端を震わせた。
温室は夜の息を吐いていた。外気よりも湿った温度がガラスを曇らせ、白い蛍光灯が時折小さく瞬いては、熱帯の葉の影を上下に揺らす。土の匂い、腐葉土の湿った匂いが鼻の奥にまとわりつき、指先には薄い粘りが残る。柊はガラスの曇りに、指で細い一本の線を引いた。線の向こう、結(ゆい)は自分の指先で小さな鉢の土をならしている。二人の間にあるのは、まだ名前を持たない寄せ植えの箱と、役所からの通達の写し。蛍光灯の振動が紙の端を震わせた。
「朝の九時までに、公的説明を出してください。例外の認定を行うために、関係性の定義が必要です――」と、通達には書いてあった。署名は斎藤(さいとう)という名の検査官で、文面は平坦だが、要求の重みは夜の静けさを切り裂くほど大きかった。理由は書かれていなかった。柊は説明の言葉を持たないと、夜の空気が増幅するように思った。彼は写真が嫌いだ。撮られること、あるいは「写し出される」ことが、関係を消費の対象にしてしまうからだ。言葉で説明することと写真に写ることは、彼にとって同じ軋みを生んだ。結も同じだ。二人は言葉の輪郭を避けてここまで来た。
「ねえ、どうする?」結が、低く言った。声は植木に濡れていた。
柊は鉢の中に指を差し入れ、土を掬った。指先に伝わる温度、過去の指紋が残した湿り、結と触れ合った時にだけ発生する—二人だけの痕跡が、土の表面にかすかに光るように見えた。彼らが共同で作るものだけに残る、それが能力の核だった。だがそれは不完全で、扱いを誤れば消える。柊はそのことを知っていた。過去に急いだ夜、無理に寄せ植えを仕上げようとして土が割れ、痕跡が白く抜け落ちたことがある。代償は、単に証拠が消えるだけではなかった。証拠を急いで作ろうとすると、二人の間に無言の隙間が生じ、その隙間は思い出を貪るように広がる。
「公的説明、って……名前を出す以外に道はないのかよ」柊が言った。彼の声は乾いていた。蛍光灯が大きくチカチカと瞬いた。影が結の頬に落ち、手の骨ばったラインがいっそう鋭く見えた。
「出せば終わると思ってるの?」結が返す。怒りでもなく、どこかしら諦めの先にある問いだった。「私たちのことを分ける言葉に、私たちが従うっていうの? 制度が『例外』を作るっていうなら、最初に名前を要求する。名付けるという暴力だよ」
背後で温室の扉が軋んだ。陽菜(ひな)が大きなビニール袋を抱えて入ってきた。彼女は夜の管理人で、地域のボランティアでもある。手には、共同制作のために用意した別の鉢や古い絵筆、乾いた木箱が入っていた。陽菜は二人を見渡し、肩越しに蛍光灯を見上げた。蛍光灯は今、また薄く点滅している。
「斎藤さんから連絡が来たのよ。朝、役所の検査が来るって。例外のための説明を求めるって」陽菜は言ったが、顔には判断がついていなかった。彼女は選択の余地を残している人間だ。仲間たちがいたずらに決定を押し付けられる状況を許せなかった。
「じゃあ、証拠を出すにしても――」結が言いかけると、柊が手で合図して言葉を切った。彼は寄せ植えの箱に置かれた小さな石を指さした。石の表面には、二人が作業するときにだけ現れる淡い縞模様が浮かんでいた。二人が一緒に手で擦ると、その縞は暈(ぼか)した色彩を宿し、触れ合いの温度を伝えた。これが二人の「書き残す」方法だった。だが、それを第三者に判定させると、線は一瞬で溶ける。
「見せてみてよ」と、どこか冷たい口調が、温室の入口から届いた。斎藤が立っていた。背広は夜の湿気でぺたりと肌に張り付き、顔は役所の公文書の色で透き通っていた。彼は手に小さな機器――世間では証拠を記録すると称する小型の観測器を抱えている。柊はその器具に目を向けるだけで、むかつきと恐怖が混ざったような感覚を覚えた。写真と同類のものだ。写す、分類する、言葉で縛る。柊はその機械が自分たちを食い尽くすビジョンを見た。
「公的説明に添えるために、確認をさせていただきます」斎藤は平静を装っている。だが彼の指先は震えていた。制度としての彼の手荷物には、二人を名づけてデータベースに組み込むという任務が乗っている。
結は、ゆっくりと目を閉じた。彼女は言葉で説明することを嫌っているわけではない。説明が、彼女たちを分類し、消耗品にすることを嫌っているのだ。柊は結の手を取り、二人は寄せ植えに再び触れた。ゆっくりと、深呼吸をするように、土と石と指先を馴染ませる。小さな光が、二人が共同で行うときだけ見える範囲で、寄せ植えの縁に滲んだ。
斎藤は器具を近づけた。端末の小さなライトが寄せ植えの縞を照らす。柊の胸が締め付けられた。彼は一瞬、口を開きそうになったが、止めた。説明の言葉は見えない鎖だ。言葉を出せば、縞は生得の曖昧さを失ってしまう。だが斎藤は契約書の行間を読んでいた。彼にとって、二人の曖昧さは記録として価値があるわけではない。定義されることが彼の仕事なのだ。
斎藤が、「関係性は――」と言いかけると、その瞬間、寄せ植えの縞が揺らいだ。彼の言葉が、判定の前に置かれた。言葉は空気を振るわせ、縞の色が薄くなる。斎藤は言葉を続ける。「――恋人、又は同居者、それとも同伴者か?」
結の手がほんの少し強く鉢を押した。押された砂に白い線が走った。柊は体の奥で何かが裂けるのを感じた。言葉が決めつけるほどに、縞は見えなくなる。斎藤の機械は数値を読み上げたが、数値はぶれていて確証を与えない。彼は更に分類を重ねようとした。そのたびに縞は薄くなった。最後には、縞はほとんど見えなくなってしまった。
「やめろ!」陽菜が叫んだ。彼女は袋から出した古い木箱を柊の前に投げ出し、斎藤の前に立ちはだかった。木箱は傷だらけで、熱帯植物の葉が糸で縛られている。陽菜の顔には決意があった。「彼らが決められるために私たちが折れる必要はない。私たちが見せるのは、名前じゃない。ここで何が生まれるかだ」
斎藤は眉を顰めた。「しかし規定では――」
「規定は人を守るためにあるんじゃないの? 今は、人を切り捨てるために使われてるだけ」陽菜の声は震えなかった。彼女は自分の胸元に付いていたボランティアのバッジを外して柊に差し出した。「私の名前をここに書かせて。例外の証人にはなれないけど、ここにいるみんなの立ち会いで『何を守りたいか』を見せる。誰かが定義して決めるんじゃなくて、私たちが作る。知ってる? 共同で作れば残るんでしょ、痕跡が」
言葉は単純だが、奥に大きな賭けがある。能力の条件は「二人が共同で作った物にだけ気持ちの痕跡が残る」。陽菜の提案は、その条件を文字通り裏返すものだった。第三者が加わることで残る痕跡は変質するのか。柊はその可能性に恐れた。共同性を拡張することは、今持っている「二人だけの痕跡」を希釈するかもしれない。だが希釈は、時に保護にもなる。名づけられることの代償を避けるために、痕跡を共有することはあり得る選択だった。
「公に出すのは危険だ」柊が言った。「もし私たちの痕跡が薄まって、何も残らなかったら、結に迷惑をかける」
結は静かに笑った。笑みは悲しさを含んでいる。彼女は柊の手を握り返した。「迷惑なんて言わないよ。私たちがここで何かを選ぶって、誰かに『これだ』って決められるより