港の喫茶店で元恋人の友人は過去の誤解を解く 第22話「第20章」
窓の外、港の波は灰色の布を引いたように同じ音を繰り返していた。喫茶店「潮待ち」の間接照明が、濡れたコンクリートの匂いと混ざってコーヒーの蒸気をゆっくりと立ち上らせる。葵は木箱の蓋を指先で撫でながら、細かく削ったかんな屑が指先にふわりとまとわりつく感触を確かめた。白木が晒され、匂いが際立つ。緊張はその匂いとともに胸の奥に広がった。
窓の外、港の波は灰色の布を引いたように同じ音を繰り返していた。喫茶店「潮待ち」の間接照明が、濡れたコンクリートの匂いと混ざってコーヒーの蒸気をゆっくりと立ち上らせる。葵は木箱の蓋を指先で撫でながら、細かく削ったかんな屑が指先にふわりとまとわりつく感触を確かめた。白木が晒され、匂いが際立つ。緊張はその匂いとともに胸の奥に広がった。
「遅れてすまない」扉の鈴が鳴り、怜奈が傘を畳んで入ってきた。肩に当たる水滴が薄い音を立てる。彼女の顔は昨日の夜から続く疲れで硬い。だが目は決して伏せられてはいなかった。葵は小さくうなずいて、怜奈の隣の席を指差した。
「ここで、やるんだね」怜奈の声は低いが揺れてはいない。カウンターの向こうでマスターが静かにカップを置き、気配を残して去った。外の通りを一台、また一台と車が通る音が、店のガラスに小さな波紋を投げかける。
葵は息を吸って、箱を開けた。中には薄い木片、細い糸、それから小さな手作りのノット用の道具が収まっている。以前、怜奈と悠斗が作ったという小さな帆船の部材を、再現するために用意したものだ。彼らが一緒に作った物にだけ、――葵の能力はそう告げた――気持ちの痕跡が残る。怜奈と悠斗が共同で作れば、悠斗の心も現れるはずだ。だがその条件は厳しかった。急げば壊れる。決めつければ見えなくなる。
「僕は触らない。葵は見ているだけで」怜奈はそう言って、手袋を脱いだ。指が震える。葵は手をひっこめて、テーブルの上で小さな白い布を握った。自分が一緒に触れば、痕跡が混ざるかもしれない。見ているだけでいるのは、いつだって難しかった。だが今日、どんなに難しくても、葵は境界線を守ると決めていた。
扉がもう一度開く音。悠斗は息を切らし、濡れた髪を指で払って入ってきた。彼はいつもより細く見え、肩にかけたコートの襟が折れていた。顔には眠りの薄い影、そして話すことを拒む疲れがにじんでいる。怜奈は立ち上がって少し前に出た。二人の間に、凍った時間のような沈黙が落ちる。
「来てくれてありがとう」怜奈の声が掠れる。悠斗は一瞬だけ怜奈の目を見て、そしてカウンターにかけられたランプの光に視線を戻した。「話すことは……一度で済ませたいんだ」
三人だけの空間。葵は爪先で床の傷を確かめ、ゆっくりと息を吐いた。手元の木片は冷たく、指先に小さな凹凸が残る。二人が共同で作る――それが条件だ。葵は二人に道具を渡した。遠慮して触れないよう、手を伝えて渡す。怜奈と悠斗は向かい合って座る。照明が二人の表情をやわらげ、波の音が遠くで白く砕ける。
作り始める。最初は普通の作業音が店内を満たす。のこぎりの小さな摩擦、木片同士が擦れる音、釘を打つときの小さな金属の震え。だが葵はすぐに感じた。木が暖かくなる感触が指先とは別の場所で伝わってくる。瞳の隅に淡い色彩がちらつく。触れ合う指先から、過去の会話の断片が泡のように浮かんでくる。怜奈の笑い声、悠斗の言葉の角。だがそれは断片で、確かではない。能力は全てを見せない。共同制作の最中にしか、最低限の痕跡しか現れないのだ。
「ここは、こうだっけ」悠斗が言って、怜奈の手をそっと取る。ふたりの指先が交差し、糸が結ばれる。木片の表面に、薄い映り込みのように光が走る。葵は息を殺した。見ているだけでいるのがこんなにも辛いとは。髪に触れる風が、いつの間にか冷たくなっていた。
しばらくは順調に進んだ。だが店の外からスマートフォンのカメラのシャッターのような音がたまに聞こえ、通りを歩く人の話し声が波間に混じってくる。時間が刻一刻と押し迫っていることを示す。怜奈の肩に、細い汗がにじむのが見えた。彼女の呼吸が浅くなる。
「急がないで」葵は声を出さずに念を送るように唇を震わせた。だが二人は焦りを共有している。悠斗は、告白めいたことを一刻でも早く終わらせたがっているように見えた。怜奈も、やはり決着を望んでいる。共同制作は感情の速度で壊れる。速さは精度を殺す。
急いで結んだ糸が滑って、木片の角が小さく欠けた。隙間に入れた接着剤がうまく馴染まない。悠斗の手が震えて釘を打ち損なう音がした。構造に小さな負荷がかかり、仕上がりが歪む。葵の視界に、痕跡がにじんでゆく。色はぼやけ、匂いは混ざり、思い出の輪郭が溶け出した。
焦りが怒りに変わる。悠斗が言った。「これじゃ……意味がないだろう!」彼の声が硬くなり、怜奈は咄嗟に糸を押さえた。二人の指先が強くぶつかり、糸が切れる。握っていた道具箱が地面に落ち、小さく金属音が反響する。
その瞬間、葵の胸の奥がざわついた。耳鳴りがして、世界の端が一段薄くなったように感じる。視界の隅に、いつか自分が怜奈と交わした言葉が混じりこんでくる。果たしてそれは葵自身が覚えていることなのか、それとも今見ている痕跡が映し出す誰かの記憶なのか、判別できなくなる。喉が渇き、わずかに血の味がした。これが代償だ。決めつけようとしたとき、葵は自分の記憶が曖昧に侵食されるのを感じた。
「葵、大丈夫?」怜奈が顔を上げる。声に混じる心配が葵を現実に引き戻した。彼女は肩をすくめて笑おうとしたが、笑いはひどくないつくり笑いになった。悠斗の目が葵に向いた。そこには責めるような疑いも、軽蔑もない。ただ疲れきった人間の問いかけがあった。
「ごめん、僕が……」悠斗が言葉を探す。「俺、あの時――会社の人に呼ばれて、そこで……」言葉が途切れる。怜奈は小さく首を振った。「悠斗、その話は……」
言葉はそこで途切れ、代わりに外から大きな車の音がした。窓に映った人影が一瞬ひるがえり、通りの群衆がザワつく。誰かがツイートしたか、週刊の見出しが更新されたのか。外の世界が、二人の小さな共同制作を急かすように押し寄せる。
葵は木片の割れ目を見つめた。痕跡は一部だけ残り、しかも異なる色彩が混ざっていた。悠斗の温度、怜奈のため息、二人の約束のかけら。だがそれは完全な解答をくれるものではない。葵は思い上がれば、そこから好きなように物語を編めるとわかっていた。決めつければ、痕跡は消える。代償はいつも傲慢の形で戻ってくる。
「急がないと仕事場にも波及する。今日中に正面から否定しないと、延々と問題にされる」怜奈の言葉は冷徹だった。彼女は自分で守ることを選ぶのではなく、助けを受け入れるという選択をした。葵はその言葉がまるで合図のように響くのを感じた。怜奈は小さく息を吸って、テーブルに置かれた古い携帯を取り上げた。指先が震える。画面に映る一つの名前に、葵の視線が吸いつけられた。
悠斗が立ち上がり、怜奈の前に来て手を差し出した。「俺は、真実を話す。だけど……」言葉がまた途切れた。彼の手は怜奈の手とは触れ合わずに、そのまま空中で止まる。共同制作はもはや証明のための手段にはなり得ない。外圧が二人のペースを狂わせ、葵の力の精度を削ぐ。
怜奈は深呼吸をした。指先でスクリーンを滑らせていく。目が真ん中で決まった。葵はその手元を長く見つめた。電話をかける手は震えているが、ためらいはない。店内の空気が、すうっと静かになる。海の音だけが二人を包んでいた。
「助けてください」怜奈の声は電話の向こうの誰かに向かっていた。葵は手を伸ばしそうになったが、ぐっと