学生食堂で転校生と委員長は観客のいない舞台に立つ 第4話「第3章」
昼休みの学生食堂は、いつもよりざわついていた。トレーがぶつかる金属音、スプーンのかすかな擦れる音、遠くで笑い声が輪になって跳ねる。窓際の長テーブルに座る白井結奈は、爪先でランチトレーの縁をつつきながら、同じテーブルの風間想太の手元をちらりと見た。想太の指先には、ほんの少しだけ紙の破片と赤いインクの染みが残っている。
昼休みの学生食堂は、いつもよりざわついていた。トレーがぶつかる金属音、スプーンのかすかな擦れる音、遠くで笑い声が輪になって跳ねる。窓際の長テーブルに座る白井結奈は、爪先でランチトレーの縁をつつきながら、同じテーブルの風間想太の手元をちらりと見た。想太の指先には、ほんの少しだけ紙の破片と赤いインクの染みが残っている。
「もう、何してたの?」白井の声は低いが、食堂の喧騒に埋もれない硬さを帯びていた。
想太は目を逸らして、破れた告知用の小さな紙切れをテーブルの上に滑らせた。紙には簡潔に「食堂ミニイベント」とだけ書かれていて、角には薄く光るような指紋模様が重なっていた。二人だけには、その模様が淡い淡い蒼白い光で浮かんで見える。だが周囲の顔は、その光を認めない。ただ、誰かが撮った写真がさっきからクラスのチャットで拡散されているという噂が、テーブルの向こう側から静かに波打って伝わってきた。
「桜が勝手に貼ったんだろう?」想太は言った。彼の喉の奥がざわつくのを抑えきれず、声が少し震えた。
白井は紙切れを指で撫でる。指先に伝わる感覚は実際の紙の手触りよりもずっと複雑で、結奈と想太がそこに放った時間と緩やかな呼吸の重なりが、膜のように残っていた。彼女はその痕跡を、言葉にしないで受け止める。しかし想太は、どうしても確かめたくて仕方がない目をしていた。
「見えるだろ?」想太の言葉は、問いかけというより、命令に近かった。
「見える。でも、決めつけないで。」白井は即座に返した。彼女の手が想太の指に触れ、紙の模様に重ねる。二人だけが認め合える静かな手の重なりが、紙の上で揺れる。だが、それは同時にきまり悪くもあった。結奈は学校委員長として、人気と噂の渦の中で自分と他人を秤にかける重責を背負っている。彼女には、想太と自分の間に「観客のいない場」を守りたいという強い意志があった。
「桜が告知を貼ったのは、悪気はないんだ。芸術部らしい、ってだけで。」南条咲良はいつの間にか横に立っていて、紙切れを指で押さえながら説明した。花のような顔立ちだが、目は真剣だ。彼女は芸術部作成のポスターを貼るのが趣味で、今回も自分たちの小さな上映会のために勝手にスペースを使ったらしい。
「で、誰が写真撮ったの?」高村優里が帽子をかぶったまま訊ねる。図書委員の優里はどこか冷静で、人の感情をすぐに数値で測りたがる癖がある。彼女のスマートフォンの画面がちらりと光り、クラスチャットのスクリーンショットが列を作っているのが見えた。
「生徒課の前を通ったやつだって。あっという間に拡散して──」竹村桜が肩をすくめる。食堂のバイト先輩である桜は、いつも大きなバッグからフライ返しを覗かせている。彼女は悪戯っぽく笑っていたが、その瞳にはどこか後悔めいたものが滲んでいる。
チャット画面を見てみると、複数の写真が並んでいた。貼り出されたポスターの一枚を拡大すると、角にある紙片の指紋模様が写り込んでいる。だがスクリーン上で見えるのは、ただの光の反射か、にじんだインクに過ぎない。誰も光を「見て」いない。けれどスクリーンショットはすでに評判という観客を作り出していた。いいねが増え、コメントが付けられ、次の投稿者が増えていく。想太の胸の中に、知らない人たちに自分たちのやりとりが消費される恐怖が広がった。
「やっぱり、うちらのは表に出すべきじゃなかったかな」白井は小さく息をつく。彼女の指が紙の模様をなぞるたび、想太の心はくすぐられ、同時に痛んだ。
「僕たちが作ったことが、誰かに共有されるのは──嫌だ」想太の声は、はじめて素直に恐怖を含んでいた。「観客がいない舞台を作りたかったんだ。観る人が居ないから、そこにしかない。そこにだけ、残る何かを。」
「でも、もう広がってる」桜が肩を落とす。「咲良、勝手にやったのは良くなかった。私も止められなかったし。ごめん。」
咲良は黙って首を振る。「悪気はなかったけど、私の好奇心が先に出た。どうなるかなって、見たくなったんだよね。ごめんね。」彼女の手が紙を少し持ち上げる。指紋模様の光が二人の指先に反応して、淡く震えた。
「黙っていないで、対処しよう。」優里がスマートフォンを操作しながら言った。彼女はデジタル上の拡散を消す方法を試みる。だが拡散は水のように速やかで、消しにかかるほどに別のルートから再送されていく。
想太は紙をぐっと把持して、短い衝動に背を委ねた。彼は結奈と一緒に、もう一度「共同で」何かを作ってみようと提案した。共同制作でしか痕跡は生まれないということを確かめるために。だが、白井は首を横に振った。
「今、急いで何かをすればもっと壊れるかもしれない。痕跡は、急ぐほどに壊れるって、あなたも知ってるでしょ?」彼女の声には、委員長らしい慎重さと、自分たちの関係を守りたいという切実さが混じっている。
「でも、確かめないと——」想太はつぶやいた。確かめなければ、自分がただの臆病者で終わってしまう気がした。白井はその言葉の中に、己の弱さが見えるのを恐れた。
「分かってるわ。けど今は、周りが見てる。私たちの作る物が他人に消費されるかもしれない状況で、同じテンションで一緒に入れないなら、それは共同にならない。共同は、同じ速度で呼吸を合わせることよ」白井は静かに言った。彼女の手が想太の手の甲に触れ、その温度が確かな安心を与えた。
彼らは小さなテストに切り替えた。紙を折ること。ゆっくり、一折ずつ。咲良が不思議そうに覗き込み、桜がトレーの端に肘をついて見守る。優里はデータを追いながらも、目だけは紙に向けている。
二人は同時に紙を折り、同時に息を吐き、同時に指先を重ねた。共鳴するようにして、折り目に微かに光が宿る。白井の胸の中にあった時間、想太の謝るほどの不器用さ、その場で交わされた言葉にならない「待って」という合図が、折り紙の角に刻まれていく。手触りは冷たく、指先には温度差が残った。二人にしか分からない、柔らかい映像が胸に浮かぶような気配がした。
「見える?」想太は囁いた。
白井は頷く。だが、彼女は目を細めて続ける。「でも、言葉にしないこと。決めつけないこと。指先の模様が何を意味しているかを断言したら、消える。」
想太は胸の奥でひゅっと空気が抜けるのを感じた。じれったさが波のように襲ってくる。彼は白井の手を強く握ったまま、紙の模様に集中する。「結奈は僕が必要だって思ってるよな?」と、つい言いそうになる。だが白井はその言葉の先を遮った。
「しないで。お願い。」彼女は少し声を詰まらせた。「見るのと、決めるのは違う。あなたが『これだ』と指さしたら、私たちの見ているものは滑り落ちるの。」
想太はぎゅっと目を閉じた。自分の中で何かが渇望しているのに、押しとどめないと全てが変わってしまう。彼はゆっくりと、言葉を飲み込んだ。代わりに、折り紙をもう一度折り重ね、呼吸のペースを白井に合わせる。周りの喧騒が遠のき、二人だけの呼吸のリズムが生まれた。
だが、そのとき、テーブルの向こうでスマートフォンのシャッター音がピントずれのように響いた。誰かが、二人の手元を撮ったのだ。咲良が顔を青くして首を振る。
「ごめん! 無意識で……」咲