学生食堂で転校生と委員長は観客のいない舞台に立つ 第15話「第13章」
食堂の蛍光灯が、朝の空気を薄く引き伸ばしていた。忙しないトレイのぶつかる音と、電子レンジの短いビープ音が、いつもの雑多なBGMのように流れる。だがテーブルの上に置かれた一枚の白い掲示板が、そこだけ静けさを引き寄せる。校務委員会の角ばった文字で「痕跡提出に関する試験運用――全手作り物件は提出せよ」とだけ書かれていた。
食堂の蛍光灯が、朝の空気を薄く引き伸ばしていた。忙しないトレイのぶつかる音と、電子レンジの短いビープ音が、いつもの雑多なBGMのように流れる。だがテーブルの上に置かれた一枚の白い掲示板が、そこだけ静けさを引き寄せる。校務委員会の角ばった文字で「痕跡提出に関する試験運用――全手作り物件は提出せよ」とだけ書かれていた。
鏑木空也(かぶらぎ くうや)は掲示板に背を向け、古いトレイの端に肘をついて顔を上げた。隣には桃井茜(ももい あかね)、生徒会長の自覚で背筋が硬い彼女の目は、いつもより針先のように鋭かった。向こう側には佐伯蓮(さえき れん)が頬杖をつき、吉田菜々(よしだ なな)と高野誠(たかの まこと)が声を潜めている。昼の喧騒が一度薄れて、ここだけ別の時間にいるようだった。
「向こう、強硬に来たね」と蓮が言う。指先で掲示板の端の紙をつまんではなす。紙の繊維からはまだ朝の匂い、誰かが残したコーヒーの冷めた匂いがする。
茜は両手を膝の上で組み替えた。「評価で換算するって、点数化する気よね。『痕跡=評価値』。そんなこと、私たちが望んだわけじゃない」
「それでも、出さないと没収か、検査だってさ」と菜々。紅茶のカップの縁に指をこすり、落ちた茶渋を見つめる。彼女の声はやわらかいが、その瞳には揺らぎがあった。「提出すれば、一時的にでも保護されるかもしれない。保全って言葉で騙されること、今までもあったけど」
「保護の名の下で、評価されて終わりだ」と誠が短く吐き捨てるように言った。彼は机の角に拳を置き、爪の跡が木目に赤い筋を刻む。周囲からの圧力が、じわじわと仲間を浸食している感覚があった。
空也はふと、自分のポケットに入れた小さな折り紙を取り出した。二人で初めて共同で作ったもの——食堂の隅に残した折り鶴。そこには、見返りを期待しない会話の残党のような、温度がほんのり残っていた。能力はそれだけに反応する。共同で作ったものにしか、二人の気持ちの痕跡は残らない。だが、その痕跡は誰かに「これはこういう意味だ」と断定されるほど見えにくくなり、急いで結果を求めれば求めるほど、共同制作そのものが壊れてしまう。
「今度のは『証拠提出』だってさ。提出は封印されるってけど、封印っていう名の評価換算が待ってるだろう」蓮が眉を寄せた。「実験器具みたいなのが来るそうだ。痕跡を数値化する。――試験機、って呼んでた」
その瞬間、茜の頬が微かに強ばった。空也は彼女の手に触れたくなったが、まず言葉を選んだ。「提出するかどうか、で割れるのは分かってる。だけど、分裂は避けたい。俺たちが作ったものを守るための新しいルールを提案する。痕跡を消さずに、でも共有させない方法――カプセルみたいなものを作って、第三者に封印してもらう。評価に回さないという形で保管する」
茜は静かに頷いた。「それなら、痕跡は残る。誰のものでもない、学内の記録になる。展示でも、採点でもない。人の選択が簡単に奪われないようにするための、保護領域」
菜々の目に一瞬光が差した。「でも評価を求める連中は納得しないよ。『保護』は曖昧で、抗弁にはならない。提出します、って封を切られたら終わりだって」
「そこを突破するために、カプセルは本人たちの同意のない限り開封できないルールにする。学内投票で成立させれば――」空也の言葉はそこで途切れた。テーブルの向こう、窓際で立っていた人物が手を上げたのだ。校務委員会の副会長を務める廣瀬(ひろせ)だった。彼は小さなデバイスを手にしていて、その金属の表面に朝の光が吸い込まれていく。
「机上での話はいい。だが校則は校則だ。明日、試験器のデモンストレーションを行う。痕跡の量的換算をやる。データは必ず提出——できれば協力を望む」と廣瀬の声は穏やかだが、そこに引っかかる寒さがあった。
その言葉が落ちた瞬間、食堂の空気が張り詰めた。誰かがコップを倒し、その音が耳の奥で長く共鳴する。
「じゃあ、今日中に何か作って提出するってことか」誠が吐き捨てるように言った。「それが『協力的な態度』ってやつだろ。圧力でしかない」
空也は口を結んだまま、折り鶴を両手でにぎりしめる。茜がそっと手を伸ばして、その鶴を受け取った。二人の指先が触れ合う。温度があって、かすかな震えが伝わる。だがその瞬間、食堂の片隅で何かがざわめいた。カメラを持った生徒委員会のメンバーが近づいてきて、スマートフォンで手早く周囲を撮影している。映像は瞬時に校内の連絡網へ流れる。空也たちのテーブルも、静かな衝突の候補としてフレームに収まった。
「ここで作るってのはどうか」蓮が言った。「共同制作物は『台本』でも『プレート』でもいい。食堂の舞台で使う幕、って名目で作れば、提出物としても通るかもしれない。だけど、急がされると壊れる。茜、空也、お前らなら――」
茜が息を吸った。周囲の視線が増える。彼女の胸の奥で、小さな鼓動が早くなるのがわかった。二人の「共同」で何かを作るとき、時間と余裕がすべてだった。急いで作れば、共同の手触りが失われ、痕跡は散ってしまう。過去にそれを経験した二人は、その怖さを知っている。
「やるなら、静かな場所が必要だ」空也が言った。「人目にさらされず、話が急かされない場所で。だけど、時間はない。二十四時間以内に提出を求められてる」
「それで壊れるかもしれないってことね」茜の声は低い。茜は厨房の隅に積まれた段ボールの上に示した。そこには、以前彼らが作りかけて放置した紙の舞台装置の残骸がある。裂けた紙と糊の匂い。共同制作が半端なまま壊れていくのを二人で見て、押し殺した痛みが走る。
「分裂は避けたいって言ったよね。だから、提案を一度持ち帰って議題にする。今日中にカプセル案の草案をまとめる。明日の試験の前に学生投票にかけるんだ」蓮が机をたたく。音が木の天板を震わせる。数人が息をのんだ。
だが、その瞬間、菜々が立ち上がった。彼女の顔が硬い。手に握ったスマートフォンの画面が反射する。誰もがその動作を疑問に思う前に、彼女は冷たく言った。「私は提出するわ。カプセルなんて悠長なこと言ってる暇はない。保全されるなら、評価されても——少なくとも手元に残るならそれでいい」
その言葉は小さな爆弾となり、会話を二つに割った。不意に、誠の拳がテーブルに落ち、紙の端が震えた。蓮は顔をしかめ、茜は靴先で床の目地を蹴った。空也は菜々の目を見た。そこには、選択の理由がある。彼女の父親が最近、外部評価によって部活の存続が決まったことを話していたのを空也は思い出す。安定を選ぶという苦渋の決断だ。だがその選択は、共同体としての自由を多少なりとも犠牲にする。
「分裂しないための提案だったのに」と蓮が低く言った。「だが分裂は起こる。人の事情は、それぞれだ」
そのとき、食堂の入口が開き、校務委員会の代表が大きな箱を抱えて入ってきた。箱の蓋には銀色の機器が見えて、ランプが淡く点滅している。廣瀬が一歩前に出て、箱を置いた。金属がぶつかる音が、まるで判決を伝える鐘のように聞こえた。
「これが試験機です。明日、校庭で実演します。痕跡を数値化するアルゴリズムを通して、可視化を試みる――まずは校内での精度を検証する。