古書市で舞台裏のふたりは小さな店を救う 第6話「第5章」
古書市の午前は、いつもより人の足音が浮かんでいた。評点システムの導入から三日目――来場者の列は目に見えて増え、スマートフォンのスクリーンが揺れるように店の前で光を差している。小暮堂の前には、いつもより背の高い棚が並べられ、今日の「特集」として評点上位の一冊を並べる札が差されていた。札には小さく「スタッフおすすめ」の文字があり、その横で真琴が手を震わせながら冊子を捲っている。
古書市の午前は、いつもより人の足音が浮かんでいた。評点システムの導入から三日目――来場者の列は目に見えて増え、スマートフォンのスクリーンが揺れるように店の前で光を差している。小暮堂の前には、いつもより背の高い棚が並べられ、今日の「特集」として評点上位の一冊を並べる札が差されていた。札には小さく「スタッフおすすめ」の文字があり、その横で真琴が手を震わせながら冊子を捲っている。
「回遊が増えたのは事実よ。売上も先週比で上がってる」真琴が言う。声は誇らしげで、だが目はどこか冷たい計算に沈んでいる。彼女は古書市のデータをプリントした紙を蓮に差し出した。紙には来場者の滞留時間や、評点ボタンの押された回数が細かく表になっている。
蓮は紙を受け取り、表を眺める。数字の列が羅列されるたびに、店の棚の奥にいる紙の匂い、ページの縁に残る指紋、訪れる人たちの静かな会話が頭の中で揺れた。「増えたな」と、短く言った。だが、その「増えた」の質を彼ははっきり感じていた。来る客の笑い声が軽く、目当ては評点と話題性で、棚をゆっくり覗きこむ者が減っていた。
「だけど、来てくれるのは悪いことじゃない。持続可能にするためには効率も必要でしょ」と真琴は続けた。「評点がつけば、情報が早く回る。賑わいは賑わいを呼ぶ──それで店も守れる」
蓮は棚の間に挟まれた低いところから、来店者の足元を見た。コートの裾、革靴のかかと、古布のバッグが行き来する。カメラが低く棚の列を滑るように移動しているような視角で、彼は自分たちだけ孤立している気がした。言葉にしない意思疎通が、真琴と自分との間で微妙にずれていくのを感じる。
奥から梓がゆっくり出てきた。白い布を手の甲で払うと、指先に薄い紙の感触が残った。彼女の顔には小さな蒼白があり、まぶたの下に隠れた疲労が見えた。梓はこのところ、共痕という──二人が共同で作った物にだけ残る「気持ちの痕跡」を扱う作業に多くの時間を割いていた。来訪者を惹きつけるために作った共痕のしおりや小箱は、評点目的の客にはうまく受けていた。
「今日、あの棚に並べたしおり、評点上がってる」梓は言った。声が細く震える。彼女は昨日夜遅くまでしおりを織っていた。蓮と二人で糸を合わせ、紙に押し葉をはさんだ小さなものだ。来た客はそのいくつかを手に取り、写真を撮り、評点をつけた。数字は増えた。
だが梓の手元を見ると、指の腹に薄い白い筋が走っているように見えた。彼女は慌てて手を隠すようにしてポケットに入れた。
「大丈夫か?」蓮が訊くと、梓は笑って首を振った。「ううん、大丈夫じゃない。ごめん、ちょっと倉庫に戻るね」
梓は棚の間をすり抜けていった。彼女の背中の肩甲骨が、薄いニットを通して震える。蓮は追おうとしたが、真琴が書棚の整理で手を止めるのを見た。「蓮、外で評点の説明をした方がいい。来てる人に直接話すチャンスだ」と真琴は言う。その声音は提案の形を取っていたが、中身は既に所属する側の選択を促している。
蓮は指先で一冊の角をなぞった。埃と紙の匂いが鼻腔に入る。正直に言えば、評点で興味を持ってくれる人がいることはありがたい。一方で、それに合わせる形で自分たちを変えることは、店の根っこを切ることにも感じられた。心臓の奥で、何かが引き裂かれる小さな音がする。
そのとき、扉が勢いよく開き、若い二人組が笑い声をあげながら店に入ってきた。片方の女が棚の特設札にスマホを向け、もう片方の男が「これ評点高いらしいよ!」と声高に言った。彼らの視線は撮影用に作られた絵面を追い、棚の奥の静かな頁や、昔話を探る時間には興味がなさそうだった。
梓は倉庫で、小さなノートを開いた。そこには蓮と二人で書き残した、昔の約束の断片が仕舞ってあった。ページは古本の紙と同じ匂いを放ち、鉛筆の跡がまだ薄く残っている。梓は指でその字を辿った。そこにあったはずの一行が、そこだけ白く抜け落ちているのを見つけた。
指先が震えた。白い空白は紙の端からじわりと広がるようで、まるでページそのものが透けていくようだった。梓は一瞬、目を閉じた。思い出そうとしても、その一行の言葉が指先の温度のように滑り落ちてしまう。彼女は蓮と交わした約束の細部を一つ、記憶から失っていた。確かにそこには何かが書かれていた──けれどその「何か」はもう掴めない。思い出そうとすればするほど、白い抜けは広がり、周囲の文字まで薄れていく。
「梓?」誰かが小声で呼んだ。梓は慌ててノートを閉じると、息を整え、倉庫の扉を開けて顔を出した。蓮が待っていた。彼は何か言おうとしたが、梓の手先に見えた白い筋に気づいて口を閉ざした。
「大丈夫?」蓮は簡単に、だが鋭く尋ねる。梓は首を振る。耳の奥で血が通う音が早くなる。彼女は説明しなければならない。説明しながら、言葉にするとその記憶がさらに薄れる気がして、怯えた。
「ごめん。しおり、よく売れてる。けど……自分で作った別の物を、作ってるうちに少し忘れちゃった。蓮との、昔の約束の細かいところを」梓は言った。言葉は軽かったが、その重さは店の空気を引き締めた。蓮の顔に、驚きと痛みが同時に走る。
「どんな約束だ?」蓮の声は低かった。倉庫の中の明かりが、二人の顔に影を落とす。梓はノートの端を指で押さえ、呼吸を整えると、小さな声で答えた。「それが……言葉にならない。細い言葉一つだけが消えてる。思い出せないの。ページが、透けるみたいに」
蓮はしばらく黙っていた。共痕を多用すると、印象が痕跡として残る代わりに、梓の脳の一部が白く抜けることを二人は知っていた。けれど、それはいつも小さなもの──忘れたって困らない程度の小さな細部だった。今回は違った。蓮は胸の中で何かが裂けるのを感じたのに、声に出しては言わなかった。「取り戻せる?」とだけ尋ねた。
梓は首を振った。彼女の目が濡れている。自分のせいで、蓮との共有されていた過去に穴が開いたと感じることが、彼女を責め立てる。共痕の代償は彼女自身の部位を蝕むように思えた。だが彼女は顔を上げ、必死に笑おうとした。「でも、店は今、助かってる。評点で来てくれてる人が増えた。小暮さん、きっと喜んでるよ」
「小暮さんを喜ばせるだけが救いか?」蓮の声が少し荒くなる。二人の間に、無言の論点が立ち上がる。真琴は店先で笑顔で客に説明し、評点を押してくれた客に手渡しの小さなカードを渡している。彼女たちの動きは機械的に効率を生んでいた。
その時、店の外で内海が小走りでやってきた。内海は古書市の運営担当者で、評点システムを導入した張本人だ。彼は汗ばむ額をぬぐいながら、明るく言った。「反応がすごい!このままいけば、来月の枠を増やす話も出そうです。小規模のブースはスポンサーが付きやすくなって、結果的に安定しますよ」
内海の言葉には善意があった。だが、その「安定」は同時に選択の自由を縛る力でもある。蓮は内海の説明を聞きながら、棚の最も奥で静かに揺れる埃の粒を見つめていた。増えた客の中に、店の居心地を求めている人がどれだけいるかを蓮は知りたかった。評点は、来場の回数と注目度を増す一方で、滞在の質を測ることを苦手としている。
梓は突然、倉庫から取り出した小さな紙箱を二人に差し出した