古書市で舞台裏のふたりは小さな店を救う 第17話「第15章」
電球の温度が、古い紙の色をさらに黄ばんで見せた。堀口書店の裏手にある作業スペースは、いつもより狭く、空気が厚かった。窓の外では小雨が途切れ途切れに地面を叩き、薄暗い路地の向こうに停められた自転車の金属が緩やかに光った。カウンター越しに掲示された「出展許可 一時停止」の紙は、朱の印と冷たいフォントで店を定めたように見えた。
電球の温度が、古い紙の色をさらに黄ばんで見せた。堀口書店の裏手にある作業スペースは、いつもより狭く、空気が厚かった。窓の外では小雨が途切れ途切れに地面を叩き、薄暗い路地の向こうに停められた自転車の金属が緩やかに光った。カウンター越しに掲示された「出展許可 一時停止」の紙は、朱の印と冷たいフォントで店を定めたように見えた。
「許可停止……午後の説明会で正式に言うんだって。補助金も凍結されるらしい」
堀口瑛子は、手の甲をテーブルに押し付けて息を吐いた。五十代になってもその背筋は真っ直ぐで、指先にある古いやけどの痕跡が、夜の灯りにぼんやりと白く浮かぶ。常連客が戻ってきた短い瞬間があった。中には「情報が開示されたから安心した」と言ってくれた人もいた。しかし運営側の反撃は確実で、書店の前に投げ出された通知文がそれを証明する。
浅井理は隣の椅子に腰かけ、指先で古い函の角をなぞった。紙の繊維がざらりと手に触れる。彼の掌には、いつもより疲れが出ている。岸本由梨がカップに残った珈琲を持ってきて、机の上にコトンと置いた。
「今夜、みんなでやることは二つだよ」と由梨が低く言う。声に震えはないが、その眼は危うく光っていた。「掲示板に抗議のプリントを貼る。あとは……朝倉が言ってた法的手続きを始める手伝い。」
ドアが静かに開いて朝倉颯が入ってくる。白いノートパソコンを抱え、濡れた帽子を手にしていた。二十三、四くらいに見える。法学部の学生で、彼はこの街の古書市に足繁く通う一人だ。昨夜、彼は深夜まで資料を読み漁り、今朝にかけて役所の窓口にも足を運んでいたらしい。
「まず、手続きの全体像をまとめた。仮処分の申立て、差押えの一時停止を求めるには、急迫性と回復不能な損害を示す必要がある。で、ここで重要なのは"共同体としての被害"だ。個人が一度おとしめられただけじゃない。運営が補助金を基に出展許可を恣意的に扱ってると立証できれば、一時停止は現実的に狙える」
彼の声には自信があった。それは準備の結果だと分かる。しかしテーブルの上には、それとは別の戦術の痕跡が散らばっていた。浅井と由梨が昨日遅くまで折りたたんだ手作りのブックマーク、常連の藤木が貸してくれた古い鉛筆、そして店の入口に置かれた小さな布張りの箱――そこには、浅井の能力で「痕跡」を確かめるために二人が共同で作った名刺大の紙片が並んでいる。
朝倉はそれらをじっと見て、短く言った。「裁判じゃ認められないかもしれない。でも、行政手続きに必要な、"地域の声"としては使える。写真なり、署名なり、共同制作物があれば説得力が増す。提出する資料の信頼性を高めるために、署名入りの手作り物が有効だ。」
由梨が顔を上げると、浅井はぽつりと付け足した。「――それと、俺たちには、"少しだけ"別の方法もある。共同で作ったものにだけ残る、記憶みたいな痕跡を確かめられる。だけど、急いで作ると壊れるし、あらかじめ意味を決めつけると見えなくなる。注意が必要だ。」
二人の眼差しが浅井に向く。言葉の外にあるものを読むように、彼らは浅井の手の動きを追う。浅井は両手を組み、息を整えた。能力――彼らが半ば冗談交じりに「カケラ」と呼ぶものは、本音そのものを明かすのではなく、二人が一緒に編んだ物にだけ「残る」痕跡を指す。だがその性質は脆く、扱い方次第で毒にも飲める薬にもなる。
「今夜、共同で作れるのは、掲示板に貼る抗議用のしおりだ」と由梨が言う。「あんまり大きいものは作れない。半頁サイズで一言と、署名欄。貼るのは、目立つ掲示板の一面。写真を撮って朝倉に渡す。あとは……人手よ。」
準備は速い。紙を切る鋏の音、テープの端が指に引っかかる時の小さな痛み、インクが指先に転写される匂い。常連の藤木、書店の配達員の浜田、古書市で知り合った高校生の千景が次々に集まってきた。誰も指示を待たない。自分の出来ることを見つけては黙々と手を動かす。仲間たちの自主的な行動が、堀口書店を守る基盤になっているのが、浅井には痛いほど分かった。
浅井は、ふと思い付きで藤木の手元にあった一枚のしおりを拾い上げた。藤木とは、数年前に浅井が古書市で偶然会った人で、静かな人だ。藤木の指先と浅井の指先を重ね、二人で角を折る。接触の時間は短かったが、浅井はいつものように目を閉じて、微かな痕跡に集中する。紙の繊維が彼の指の間でざらつき、冷たい空気が鼻腔を撫でた。
見えたものは、藤木の戸惑いと、同時にそれを乗り越えようとする気配だった。だが浅井は、瞬間的にそれを「全面的な支持」と決めつけてしまった。理由は単純だ。時間がない。申立書の写真には多数の支持者が必要だ。目の前にある痕跡を手に取り、浅井は即断を選んだ。
「藤木さん、署名お願い。これ、あなたがここにいるってだけでも効くんだ」浅井は笑いかけた。笑顔は不自然に明るく、藤木の顔に小さな影を落とした。藤木は微かに眉を寄せ、それでもペンを取った。しかしその指先は固く、署名の線は震えている。
翌朝、藤木は姿を見せなかった。問い合わせると、彼は「自分の名前を出すのが怖くなった」と言ったらしい。誰からの脅しかは明言せず、ただ「家族に迷惑はかけたくない」とだけ言ったと聞く。浅井は胸が締め付けられるように熱くなった。自分が見た「支持」の痕跡は、藤木の内心を全て表してはいなかったのだ。彼の戸惑いは、他者に知られたくない恐れと共にあった。その微妙な差異を浅井は決定的にすり替えてしまった。
由梨が沈黙を破る。「浅井、急ぐと壊れるって言ったでしょ。決めつけたら駄目」
浅井は頭を下げ、謝ることしかできなかった。自分の不安が、誰かの安全を奪ったと感じる瞬間は、言葉にならない。だが同時に時間は厳しく残酷だ。行政の書類は月末の審査日までに揃えなければ、補助金は戻らない可能性が高い。堀口書店を守るためには、何かを差し出すしかないのかもしれない。
その夜、由梨と朝倉は別々の道筋を取って動いた。由梨は掲示板へ向かい、手作りの抗議しおりをぎっしりと貼り付けた。壁に貼られた紙々は、色と文字と折り目で夜の静寂をかき乱す。浅井はそれを見上げ、手の震えが少し収まった。カメラを持って写真を撮ると、掲示板の一角で千景がポケットから何枚かの紙を取り出し、独り言のように呟いた。
「これで誰かが動かなきゃ、もっとひどくなるよね」
千景の声は若く、けれども確信に満ちていた。彼女は自主的に、運営に不利になる情報を集めるために匿名の掲示板を巡っていた。浅井は千景の行動を、以前の自分のような無鉄砲さを孕んだ勇気だと思った。
朝倉は深々と息を吐き、ノートパソコンを閉じる。「仮処分の申立てはやる。だが、裁判所が判断するのは法律であって、"痕跡"じゃない。だから僕は行政上の瑕疵とプロセスの不備を突く。出展許可の停止には根拠が必要で、一次的な苦情では正当化できない。それに——」
彼は言葉をここで切った。目が真剣だ。「……君たちのやっていることは、別の意味で重要だ。共同体の自発的な行動があれば、行政に対する社会的な圧力を示せる。僕は法的に戦う。君たちは地域の声を集めて、それを補完してほしい。だが、個人の安全は守らないといけない。匿名でも証拠は作れる