雨の日の自習室で嘘から始まる同居人は誰にも言えない失敗を分け合う
雨の日の自習室で嘘から始まる同居人は誰にも言えない失敗を分け合う 第20話「第18章」
窓の雨がゆっくりと縦線をなぞっていく。自習室の蛍光灯は湿った空気に弱く、いつもより薄い光を投げていた。紙の匂いとインクの匂いが混ざり合い、木の机は冷たく、指先にじんわりと吸いつくようだった。梓は机に伏せたまま、その冷たさを確かめるように掌を動かした。ノートは中央が裂け、ページの間にぼんやりと色の滲みが残っている。共同制作ノート。彼らが昨日、急いで作ったものである。
窓の雨がゆっくりと縦線をなぞっていく。自習室の蛍光灯は湿った空気に弱く、いつもより薄い光を投げていた。紙の匂いとインクの匂いが混ざり合い、木の机は冷たく、指先にじんわりと吸いつくようだった。梓は机に伏せたまま、その冷たさを確かめるように掌を動かした。ノートは中央が裂け、ページの間にぼんやりと色の滲みが残っている。共同制作ノート。彼らが昨日、急いで作ったものである。
「こんなふうになるなんて、思わなかった」
声が届いたのは三秒遅れで、梓は顔を上げる。村上が傘を片手に入ってきて、濡れた制服の端からまだ色が戻ってくるようだった。色、という言い方をするのはいつもの癖だ。孤立したときに世界の色が抜けていき、村上だけが先に色を取り戻す——あの日の効果を梓は忘れたことがない。
村上はノートに近づき、裂け目を指でなぞった。指先に残ったインクの輪郭が、わずかに震える。誰かと何かを一緒に作ると残る痕跡——梓の能力は、物に残る「痕跡」が当人たちの感情の痕を帯びることを教えてくれた。しかし、そこに何があるかを一方的に決めようとすれば、痕跡は音を立てて消え、共同作業が粗く壊れてしまう。
「今朝、進路課から電話が来た。『証拠としてそのノートを提出してほしい』って」梓が言う。声は紙の端を撫でるように細い。進路課はこの大学で評価と選抜の基準を管理する部署だ。ここ数年、学生の内面を「可視化」して評価する動きが強くなっている。手作りの作品や共作の記録が、そのままポートフォリオとして扱われるようになった。梓たちのノートは、一瞬にして「証拠」になった。
「それを出したら、評定の資料になる。君のことを判断材料として使われるだけだよ」村上が言って、言葉の後ろに小さな笑いを落とした。「しかも、無断で外に出されたら、痕跡の利用方法が委員会の手に渡る」
梓はノートの滲みを指で拭いた。紙は湿ってくしゃくしゃになり、指先に伝わるのは冷たさと、昨日の会話の残り香のようなものだった。共同で書いた詩、二人で貼った切れ端、互いの名前が鉛筆で交差した頁。そこには確かに彼らの失敗とそれに伴う後悔、ちいさな笑いが残っているはずだった。
「出さないと、噂は収まらない。『証拠を見せろ』って言うだろうし、見えないものを信じない人たちはもっと悪くなる」梓の言葉は堅かった。嘘から始まった同居——表面上は部屋を共有するだけの関係。しかし共同制作は彼女の唯一の手段だった。誰にも言えない失敗を分け合うための、ゆらゆらしたやり方。ノートはその証拠であると同時に弱点でもあった。
村上は顔を伏せ、しばらく黙った。遠くで自習室のドアが開き、足音が入ってきた。評価委員会の学生代表、白井だ。白井はいつも整った顔つきで、規則を鞭のように扱う。梓は胸の奥がぎゅっと絞られるのを感じた。
「白井が来たって言ってたのに、どうしてここに?」村上が訊くと、白井が前に出てきて無言でノートを覗き込む。彼女の瞳は冷たく、紙の痕跡を測るように目を走らせる。
「進路課からの依頼だ。これをデジタル化して学生ポートフォリオに登録する。それで、梓さんの出席状況や活動との整合を取る」白井は淡々と説明する。「あなたたちの共同制作は評価対象になります。個人の内面を率直に示す良い資料ですから」
その言葉に梓の手が震え、ノートの端がさらに裂けた。裂け目から白い紙の繊維が顔を出す。梓は一度深呼吸をして、村上の目を見る。村上の目は揺れていたが、諦めてはいなかった。
「これを出すのは、違う」村上が言った。「俺たちのやり方を、誰かの基準に委ねるわけにはいかない」
白井は眉を上げる。「あなたたちが拒否すれば、噂の根拠を隠したと取られますよ。透明性のない行動は逆に不信を招く。大学としては、隠蔽は許されない」
「でも、君らはそれを証拠として使いたいだけだ」村上は声を落とした。「痕跡を、定義して数値化する。『こういう感情はこういう評価だ』って分類してしまう。そうなったら、痕跡の意味は壊れる。梓はそれを一番よく知っている」
梓は思わずノートのページをめくった。指先に伝わる紋様は、確かに彼女にだけ温かい記憶を送ってくる。しかし白井が触れた瞬間、インクのラインが一瞬ぼんやりし、指先が冷たくなった。白井の眉がわずかに動く。
「触れた人が多ければ多いほど、情報は歪んでいく」梓は小さく言った。「しかも、こっちが勝手に『これはこうだ』って決めつけると、ほんとに見えなくなる。昨日、私が強引に読み取ろうとしたとき──」
その言葉で梓の記憶が波紋した。昨日、彼女は焦りで痕跡を解析しようとした。証明したかった。噓をついて始まった同居が、ちゃんとした理由のあるものだと示したかった。だがその瞬間、ノートの内部で何かが崩れ、梓の中のある些細な記憶がすり抜けていった。誰かの笑い声。雨粒を窓に落とす音に合わせた歌の一節。そういった小さなものが、一つだけ消えたように感じたのだ。胸の奥にぽっかりと穴が空き、そこに冷たい風が通った。
「代償って、こういうことなんだ」梓は言葉を続けた。「急いで真実にたどり着こうとすると、取り返しのつかない何かを失う。共同制作を壊すことになる」
白井は無表情のままデータ端末を取り出し、ノートを撮影し始めた。シャッター音が自習室に響く。梓はその音に合わせて喉を詰まらせた。紙の中の痕跡がゆっくりと薄れていくように見える。
「お願い、やめてください」梓が言った。それは懇願ではなく、祈りに近かった。村上がすっと彼女の手を取る。掌に触れるぬくもりが、梓の頬を少しだけ温める。
白井は一瞬停止したが、制服の胸の名札を指でなぞり、冷たく言った。「規則に従わない者は評価の対象外となります。君たちの選択が、君たち自身に不利益をもたらすだけですよ」
その言葉が、部屋の空気を一層重くした。梓は心の中で反吐のようなものを押し込め、息をついた。代償を知らぬふりをすることもできる。噂を沈めるためにノートを差し出し、必要な評価を得ることもできる。だがそれは、自分たちが分け合ってきた失敗が制度に飲み込まれることを意味する。共同制作が、彼らを守るはずの方法ではなく、誰かの道具になってしまう。
村上が顔を上げた。彼の目には決意が灯っている。
「白井、それはやめてくれ」彼は静かに言った。「ノートを持って行かないでほしい。代わりに、提案がある」
白井は少し驚き、眉をひそめた。「提案?」
「うん」村上はノートを梓の手から受け取り、丁寧にページを合わせる。「明日、学生ラウンジで小さなイベントをやる。みんなで一つの共同制作を作るんだ。ただし、条件がある。参加は完全に任意で、作る過程は一切の外部チェックを受けない。作品はそこで完成させる。もし規則がそのまま作品を持って行こうとするなら、俺たちは多数の意思として示す」
白井の表情が硬くなる。「多数であれば、制度の要求だって通るかもしれない。あなたは人数で押し切ろうというのか」
「違う」村上は首を横に振った。「これは誰かに『証拠』として見せるためのものじゃない。自分たちが選ぶためのものだ。共同制作は共有することもできるし、秘匿することもできる。問題は、誰がその決定権を持つか。今はそれを取り戻す