駅前の花屋で不器用な先輩後輩は卒業までに仲直りする 第9話「第8章」
朝の駅前は、まだ半分眠っている。薄い霧が舗道のタイルを湿らせ、通勤の列は蛇行しながら花屋「花縁(はなえん)」の前を通り過ぎる。店先の小さな看板に置かれたビオラが、朝の冷気に震えるように花弁を寄せていた。
朝の駅前は、まだ半分眠っている。薄い霧が舗道のタイルを湿らせ、通勤の列は蛇行しながら花屋「花縁(はなえん)」の前を通り過ぎる。店先の小さな看板に置かれたビオラが、朝の冷気に震えるように花弁を寄せていた。
店の中は土の匂いと湿った紙の匂いが混じる。佐伯紬(さえき・つむぎ)はカウンターの端で、針金を巻いたラフな輪に小さな花を挿していた。指先は泥で黒く、髪は後ろで乱れている。作業台に置かれた古いラジオが低くNHKを流しているが、彼女にはただの雑音だ。
「おはよう、先輩」
引き戸を押して入ってきた宮田悠人(みやた・ゆうと)は、コートの襟を触りながら店内を見渡した。彼の動きは──いつものようにぎこちない。目を合わす前に咳をして、唇の端でぎゅっと笑いを作る。
「おはよう。来るの、早かったね」
紬は手を止めずに言う。彼女の声には、怒りでも後悔でもない、ただ決められたことをやるだけの静けさがあった。悠人はその静けさに戸惑う。前に二人で作業を急いで壊したときの感触が胸の奥に残っている。あのときの紬の顔、花びらが変色していく光景。言葉にならないものが、何かを縛っている。
引き戸が再び開き、坂井遥(さかい・はるか)が息を切らして入ってきた。背中には小さなリュック、手にはスマートフォンを握りしめている。
「ごめんごめん! もう告知してしまった。駅前の広場、正午からワークショップって形で――」遥は早口で続けた。「参加自由にして、みんなで花を作ろうって。ハッシュタグも付けた。紬が言ってたから、もう待てなかったんだよ!」
悠人の眉がぴくりと動く。告知された瞬間、店の空気が変わったように感じた。静かな二人だけの場に、外からの目が集まる。紬は針金に手を戻しながら、穏やかに首を回した。
「ありがとう、遥。でも、やるなら……今日がいいの。私、もう決めたから」
「決めたって……公然ってこと?」悠人の声がひとつ、大きくなる。周囲の苗木がかすかに揺れた。
「うん。共同制作の場は、公然の方がいい。隠れてやると――変に解釈されることが多いから。みんなの前で、みんなの手で作る。そうすれば、私たちだけのことじゃなくなる」
悠人は口元を濡らすように舌を出した。彼の内側で何かがぐらついている。紬の言葉は正しい。だが正しさがそのまま正解になるとは限らない。校内には既に、評判を操作する小さなグループがいて、噂は刃のように切り裂く。悠人は、その刃に自分たちを差し出すことを恐れていた。
そこへ中原徹(なかはら・てつ)が、制服のまま乱暴にドアを開けて入ってきた。彼の顔は真剣で、手には茶封筒を握っている。
「お前ら、気をつけろ。笠松とその連中が、学内で『公の場での示談』って話にして仕切りに出してる。校内評価ポイントだとか、規範だとか言って、外野が投票する形にしようとしてる。つまり、俺らでやるって言っても、どこかで点数や評判に組み込まれる」
笠松玲奈(かさまつ・れいな)は噂を流し、説明を差し挟むことで物事を「評価」に変えるのが得意な女だ。見た目は物静かだが、噂を広めるときは鋭い。中原は続ける。
「でも、俺は少し時間を稼げた。学内の何人かは味方してくれるって。だけど、もう駅前は人が来る。テレビのスタッフまで聞きつけたらしい。悠人、どうするんだ?」
悠人は俯いた。カウンターに置かれた針金の輪が、朝の光に銀を光らせる。紬はその輪をじっと見つめ、やがて言った。
「悠人、私は『痕跡を決めつけない』ことにする。共同で作ったものに残るものが何なのか、私たちで決めない。みんなの手が触れた痕跡を、私たちがどう読むかも、社会がどう読むかも、まずは見てから考える。急がないでほしい。急げば壊れるから」
その言葉を聞いた瞬間、悠人の胸から固いものがほどけるような気がした。だがすぐに別の感覚が襲う。店の外から、カメラのシャッター音とは違う、低いざわめき。駅前に集まり始めた人々の期待。笠松の仲間がSNSで吹き上げた「ショー」になれば、それはもう二人の意志の外だ。
「じゃあ、やるのか?」悠人は声を掠らせて聞いた。
紬は頷き、二人はカウンターの向こう側に立った。作業台には先に揃えてあったピオニー、スイートピー、そして細い麻紐が置かれている。花の茎を切る音、ハサミが金属に当たるチーンという音。紬が茎を撫でる手つきは優しい。悠人はぎこちなく、でも確かに紬の手のそばに自分の手を寄せた。
「手を合わせるときは、声は出さないで」紬が低く言う。「決めつけないで。形も意味も、まだ言わないで」
悠人は口を閉ざし、紬の指先と自分の指先を合わせる。熱さと冷たさが混ざった。麻紐を二人で同時に握る。紬の掌は少し汗ばんでいて、その湿りが紐に移る。彼らの手が同じ動線で糸を巻き、花を差し込む。注目はあるが、二人の世界は小さな輪に集中した。
共同制作の瞬間、いつもとは違う感覚が襲ってくる。花弁の薄い血管みたいなところに、自分たちだけのリズムが浮かぶ。紬は目を閉じた。悠人も目を閉じる。二人の手の動きがぴたりと噛み合ったとき、花弁の一枚に、淡い模様が浮かび上がった。うっすらと、薄墨で描いたような線が、二つの手の軌跡をなぞる。
その模様に、坂井が目を見開いた。「見える? ねえ、見えるよ!」
だが中原が、かがんでその模様を指さすとき、口を滑らせた。「ここにこういう線が出てるから、これって──仲直りの印なんだろ?」
その「断定」の瞬間、模様はぱっと消えた。花弁は元の色に戻り、指先に残ったのは湿った花粉だけだった。紬の息が一瞬止まる。悠人も驚いて手を引いた。共同制作の場が、外野の解釈で壊れる音がした。
「決めつけたら、見えなくなるんだ」紬は低くつぶやく。言葉は怯えとは逆の強さを持っていた。だがその直後、駅前のざわめきがさらに高まった。笠松たちの一人が、スマートフォンを震わせながら叫んだ。
「これって演出でしょ! そんなの自演に決まってるじゃない!」
その声に反応した群衆の一人が押し寄せ、テントの角が風に煽られた。悠人は慌てて紬の手を守ろうとする。彼は早く終わらせたい衝動に駆られ、麻紐をぎゅっと締め上げた。二人の動きは速くなる。手の動きがずれたとき──共同制作は綻び、作りかけの花輪がひしゃげる音がした。花弁が床に散り、甘い香りが一瞬で薄れていく。
そのとき、紬の顔が青ざめた。額に冷たい汗が滲み、小さな震えが走る。彼女は作業台にもたれ、深く呼吸をした。目を開けると、舌がしびれるように感じるという。中原が慌てて水を差し出す。紬はそれを一口飲み、なんとか落ち着いたように見せる。
「ごめん、私……急いだら駄目だった。ごめん、悠人」紬が掠れた声で言う。彼女の手はまだ震えている。
そのとき、花田京子(はなだ・きょうこ)が店の奥から足を踏み鳴らして出てきた。店主の小柄な体が人々の前に立つと、不思議と声が届く。
「私はこの店の人間だ。ここで何が起きようと、外野が決めることじゃない。誰か一人の評価で、一人の手が止められるなら、私は許さないよ」
京子さんの言葉に、数人の顔が変わった。坂井は走り出して、散った花を拾い上げ、通行人一人ひとりに手渡した。「参加してくれる人がいるなら、それでい