駅前の花屋で不器用な先輩後輩は卒業までに仲直りする 第20話「第18章」
朝の光が、駅前の花屋「白露」に差し込んだ。まだ人通りはまばらで、ガラス越しに見えるのは冷たい空気に白く息を吐く自転車だけだ。花の匂いは朝露に濡れて深くなり、濡れた土の香りが鼻腔を満たす。花屋の木製の作業台に並んだのは色とりどりのガーベラ、桜色のスイートピー、薄紫のライラック。今日は卒業式前の「卒業のアーチ」を作る日だった。人の通り道に据えられる大きなアーチに、卒業生が一人一つずつ花飾りを付ける。それは噂を晴らすための装置でもあり、二人のための賭けでもあった。
朝の光が、駅前の花屋「白露」に差し込んだ。まだ人通りはまばらで、ガラス越しに見えるのは冷たい空気に白く息を吐く自転車だけだ。花の匂いは朝露に濡れて深くなり、濡れた土の香りが鼻腔を満たす。花屋の木製の作業台に並んだのは色とりどりのガーベラ、桜色のスイートピー、薄紫のライラック。今日は卒業式前の「卒業のアーチ」を作る日だった。人の通り道に据えられる大きなアーチに、卒業生が一人一つずつ花飾りを付ける。それは噂を晴らすための装置でもあり、二人のための賭けでもあった。
橘理人は、作業台の角に座りながらワイヤーの束を調整していた。指先の皮はかさつき、春先の冷えで少し赤い。隣で新見真央が花びらを選び、唇を噛みながら花の向きを確かめている。二人の距離は物理的には数十センチだが、言葉は互いに届きにくかった。店の主、岡本陽子は窓から二人を見下ろし、コーヒーを片手に静かに背中を押すように笑った。
「できるだけ多くの痕跡を残すんだ。それで噂の芯を露にする。そうすれば、みんなが消費してた『評価』なんてくすぐったい紙切れだって分かるはずだよ」と理人は言った。声は低く、しかし震えている。それは決して演説ではなく、誰かに確認してもらいたい小さな願いだった。
真央は一瞬彼を見てから、黙って花を束ねた。二人がこの数週間で学んだことを、陽子は口に出して確かめた。
「共痕(ともこん)はね、二人が同時に手を触れて形作った物だけに残る。触れた瞬間、そのものの内部に痕跡が刺繍のように入り込む。触るだけで相手の一部が魚釣りの餌みたいに出てくるんじゃない。残るのは痕跡。読み取るんじゃなくて、感じるもの。で、いくつか注意があるんだよね」
陽子はテーブルの上にある小さなラベンダーの束を二人の間に置いた。香りがふわりと立ち、真央の鼻の奥をくすぐる。
「一つ目は、痕跡を『これだ』と決めつけたとたんに、その痕跡は見えなくなる。二つ目は、共同制作を急ぐと作業そのものが壊れる。三つ目は──大量の痕跡を一度に受け取ると、受け取った側の記憶に欠落が生じる。短期的なものから、もっと大事なものまで。だから大きな仕事ほど、誰がどの量を受け止めるか考えなくちゃいけない。」
理人は短く笑って息を吐いた。「それ、どうして今まで言わなかったんだよ」
陽子は肩をすくめ、指先で紙片にメモをするでもなく空中に一線を引いた。「言った。けど、君たちは聴かなかった。感じたがるから。今日はもう、感じる側の覚悟を決めなさい。私は手伝う。けれど、覚悟は君たちのものだよ」
作業が進むにつれて、周囲の音が遠くなるようだった。ラジオの音、通りの自転車のキィという音、駅から聞こえる始発の電車の低い振動。それらが花の葉の間をすり抜け、二人の視界は作業台の上の小さな世界に集中していく。共同でつむぐ手の動きが重なるたびに、微かな光が指先の間を走る。二人の手が同じワイヤーを掴んだ瞬間、ワイヤーの表面に、目には見えない刺繍のような模様が走る感覚があった。それは暖かくもあり、針で軽く刺されるような、胸の奥がひりつく不思議な感覚だった。
「来るよ」真央が小さく囁いた。ワイヤーを曲げ、二人で一つの蔓状の骨組みを作る。そこに花を差し込んでいく。各々が一輪ずつ、心の中の重みを込めるように。
最初の痕跡は穏やかだった。真央が差し込んだピンクのガーベラに触れた瞬間、理人の頭の中に短い映像が流れた。二人で駅前のベンチに座って、理人がパン屋で買ったクリームパンを半分に割る。それを真央に差し出すと、彼女は少し頬を赤らめて笑った。映像は瞬間で消え、理人は胸の奥に残った暖かさを確かめた。彼は目を細め、真央を見た。真央も似たように目を細めていた。お互いの手の先には、花とワイヤーと呼吸だけがある。
しかし、積み重ねは次第に重くなっていった。三人、五人と、アーチに付けられる花飾りに込められる痕跡の量が増えるたびに、感覚はざわついた。次に差し込んだのは、小山田翼が作ってきた小さなブローチだった。翼は途中参加で、いつの間にか背後からやってきて、彼らに気配りしながら自分の作ったものを差し出した。翼の勇気ある差し入れに、理人と真央は互いに顔を向けた。
その瞬間、理人の頭の中で何かがひび割れた。あるはずの言葉が、ふっと抜け落ちるように消える。幼いころ、理人が呼ばれていたあだ名──それがぼやけ、つかめない。心のどこかで焦燥が渦巻く。理人は手を離しかけたが、真央がワイヤーを押さえた。二人の指先は短い間だけ接触し、その接触が再び刺繍を動かした。
「……?」真央が眉を寄せる。彼女は何かを見て取ったらしい。
「大丈夫か?」翼が顔を覗き込む。笑顔だが、目は真剣だ。
理人は喉の奥で言葉を探した。いつもなら自然に出るはずの軽口が出ない。代わりに、胸の中にぽっかりと空いた穴のような感覚がある。何かを失う痛みは、むしろ静かで重い。彼は一度深呼吸をした。
「たぶん……ちょっと、多すぎた」理人は低く言った。「俺、今、昔のあだ名が思い出せない。けど、すぐ戻ると思う」
真央は手の中の花をぎゅっと握った。顔をしかめながらも、唇の端が震えた。彼女の額にも薄い汗が浮かぶ。陽子がそっとコーヒーのカップを置いて、静かに言った。
「大量の痕跡の副作用よ。覚悟したはずだけど、実際に来ると違うでしょ?」
真央は首を振った。「副作用って、具体的にどうなるんですか。本当に、また戻るんですか」
「戻るとは限らないわ。時間と量による。短い欠落なら一晩か、数日で戻ることもある。でも、重要な記憶ほど戻りにくい。しかも、同じ人が全部受けると、穴が大きくなる。だから分散させるの」
翼が黙って前に出た。彼女の目はいつになく固かった。背筋の張りが違う。
「分散って、どうするの?」理人が訊いた。
翼は自分の作ったブローチを理人に差し出し、低く言った。「私は取れる。いっぱい取るよ。理人先輩と真央ちゃんには、なるべく少なくしてほしい。私、こういうの──人のために体張る癖あるでしょ。今回は私が引き受ける」
その言葉は軽い盾のように聞こえたが、陽子の顔がさっと曇った。店の空気が一瞬、一枚の薄い氷の上のように冷たくなる。
「翼、君は自分がどうなるか分かってるの?」陽子の声は静かだが厳しい。「それは君の選択として尊重する。でも、覚悟があるならちゃんと分け方を考えなきゃ。分散させるって言っても、痕跡は均等に分割できるわけじゃない。人に残るものの質はバラバラよ」
翼は顔を上げ、真っ直ぐに理人を見る。「先輩があの時、真央ちゃんの言葉を誤解して関係が壊れたのを見てました。私、あの時の先輩の後悔とか、真央ちゃんの怒りとか、全部見てきた。……それを、誰かが全部受け止めるべきじゃない。分け合うべきだと思う」
理人は息を詰めた。胸の奥の不安が少し和らぐ。真央の目にも光が戻る。
「でも、もし翼ちゃんが──」理人は言葉を切った。想像の先にあるのは最悪のものだった。友人が自らの一部を削ってまで自分たちを助ける図。
翼は笑った。とても小さな笑いだった。「大丈夫。私は自分の喪失も、誰かと共有したいんだ。忘れたくないものがあるなら、その分は私が守る。私は一人で抱えられる」
陽子は頭を垂