山間の美術室で交換日記の相手は秘密の料理を完成させる 第14話「第一部幕間」
木の床が湿気に沈む午後の光。美術室の窓ガラスには外の山並みがぼんやり映り、窓辺のラジオが低く古いポップスをかけている。長谷川真琴は、机の上に置かれた陶の小鉢を睨みつけるようにして座っていた。指先で触れると、釉薬のざらつきが冷たく指に吸い付く。だが、その表面に昨日まで見えていた、薄い油彩のような「痕跡」は、確かに消えていた。
木の床が湿気に沈む午後の光。美術室の窓ガラスには外の山並みがぼんやり映り、窓辺のラジオが低く古いポップスをかけている。長谷川真琴は、机の上に置かれた陶の小鉢を睨みつけるようにして座っていた。指先で触れると、釉薬のざらつきが冷たく指に吸い付く。だが、その表面に昨日まで見えていた、薄い油彩のような「痕跡」は、確かに消えていた。
「やっぱり……」と真琴は漏らした。言葉は自分の胸の内で乾いて崩れ、喉の奥に小さな空洞を残す。あの確信めいた一行を書き込んだ夜、指先から温度が抜けていったのを覚えている。思い込みの言葉を日記に刻んだ瞬間、鉢の側面の光がすうっと引いていった。頭が熱く、視界の端が霞むような感覚――痕跡が淡くなるだけでなく、真琴自身の感覚も刈り取られるような代償がある。眉の奥で違和感が疼く。
「入っていい?」ドアが軽く押され、絵の具で指を染めた中野絵里がひょいと顔を覗かせる。絵里の髪は緩い三つ編みで、袖口に青い点がいくつも付いていた。すぐ後ろに、小泉陽介が紙袋を抱えて入ってくる。料理部の後輩らしく、袋の端からは湯気と醤油の匂いがふわりと漂う。最後に、黒川先輩が入ってきた。いつも通りの無表情だが、今日は手に一冊の古い帳面を押し付けるように抱えている。
絵里が小鉢を覗き込み、口を開く。「これ、どうしたの? 昨日のあの――ほら、光ってたやつ」
真琴は首を振り、言葉を選ぶ。「私が書いた。決めつける言葉を。消えた」
陽介が袋から小さな皿を取り出し、箸で一口分の煮物を摘まむ。湯気は甘く、鰹出汁の線がはっきりしている。「まあ、料理はちゃんとしてたよ」と陽介は言うが、目は鉢に留まっている。黒川先輩が帳面をひらき、そこに挟まれた紙片を指で揉むようにしてから、ゆっくりと話し始めた。
「決めつけることは、痕跡を締め出す。急ぐことは、共同の線を切る。前にも同じような事例があった」と黒川は言った。彼が語る声は平坦で、しかし言葉の重さは確かだ。彼は先日、学内で起こった「急造プロジェクト」が崩壊した瞬間の写真を見せる。湯気が一瞬で消え、盛り付けが崩れ、手が離れた皿の上で生地がしぼんでいる。そこにあったはずの「共鳴」がなくなった跡が、写真の中に冷たい輪郭を作っていた。
絵里が写真に息を詰める。「あの時、みんなで焦って作ったのよね。時間がないって叫びながら、混ぜ方も分担もめちゃくちゃで。出来上がった瞬間、何も残らなかった」
「残らないんだよ」真琴は言った。指先に力を入れると、釉の欠けた縁が小さく痛む。「でも、共同でゆっくり作れば、返ってくるものもある。触れ合ったところにだけ、相手の匂いや感情のかけらが残る。だけど俺が一文で断定した時、そのかけらは逃げた。まるで、僕自身がその匂いを吸い取られたみたいだった」
陽介が唇を噛んで、「それって、使えるのかよ。味のヒントを抜き取るってこと?」と言う。言葉の端にあるのは、実務的な好奇心と、同時に忌避の色だ。真琴は首を振る。
「万能じゃない。決めつければ消える。急げば壊れる。――代償がある。頭痛、感覚の抜け、時に記憶の一片が抜けることもある。昨日は、母さんの匂いだって思ったのに、それが何だったかが少しずつ遠くなる感じがした」
黒川先輩が帳面を閉じる。机の上に落ちる音が、室内の空気を研ぎ澄ます。「それを使って、学校の『関係点評制度』に抗うことが出来るかもしれない。だが、手順を間違えれば、隠していたものまで消える」
「『関係点評制度』って、またあのランキングのやつ?」絵里が眉を下げる。「明日、また掲示板に新しい順位が出るって噂よ。あれさえなければ、もっと自由に出来るのに」
陽介が袋の中から小さなノートを取り出して歩み寄る。「時間がないって言ってたよな。学園祭までに、ここが調査対象になるらしい。美術室の使用申請がチェックされるってさ。もしここを使えなくなったら、共同で作る場所がなくなる」
西日に照らされた窓の外、山の稜線が切り立つように黒くなっていく。真琴の胸が収縮する。共同制作の温度を保つには、場所も時間も必要だ。急ぎだけは避けたい。だが制度は、無情に時間を奪う。
「なら、今からやるか?」陽介が言う。袋の中には簡単な材料が入っている。共同で一品を作り、確かめる――それが真琴たちの答えのように見えた。だが、絵里は首をかしげた。「でも、急がないって言ってたわよね。これから作って、急いだらまた壊れるんじゃないの?」
真琴は膝の上の小さな交換日記を開く。表紙の角は擦り切れ、ページの間には何枚かの押し葉と、誰かの髪が一房はさまれている。彼らはこれを媒介にして少しずつ気持ちの痕跡をやり取りしてきたのだ。真琴はペンを指に挟み、ページに触れた。空気がほんの一瞬静止する。痕跡が言葉を欲しているように見える。
「選択が必要だ」黒川が言う。「暴露して学内の目で評価を動かすか、ここで密かに作り上げていくか。前者は制度への直接的な抵抗、後者は関係を守る方法だ。どっちも代償がある」
絵里がすばやく手を打つ。「私、勝負に出たい。あのランキングをいっそ壊してやる方法を考えるわ。みんなで展示を出すの。『評価されない関係』ってタイトルで。点数じゃないってことを見せつけるのよ」
陽介は笑ったように短く息を吐いた。「それって、校長室の好奇心を買いそうだ。で、真琴の能力は?」
真琴は短く答える。迷いはない。「私は、共同で作ることならできる。ただし、書く言葉には注意が必要だ。決めつけるような言葉を綴ると、向こうの痕跡がすべて逃げる。今回は——」彼女は日記を開いて指先で一行をなぞる。「今回は書き方を変える。命令でも断定でもない、可能性を開く言葉だけを残す。それで、みんなで同時に作る。急がず、段取りを分かち合って」
絵里は頷き、既に脳内で展示の構成を組み立て始めている様子だ。陽介は材料を並べ始め、ナプキンを広げ、火加減の確認をしている。黒川はふと顔を向け、真琴を見た。
「一つ、条件をつける。もし君がまた、確信めいた言葉で痕跡を押しつぶすようなことをしたら、僕らはその代償を共有する。君の代償は単独じゃない。ここにいる俺ら全員の時間と、場合によっては記憶の一部を失わせるかもしれない。覚悟はあるか」
真琴はペンを握り締める。頭の奥の痛みがまた、針のように光る。だが目の前の皿の上で、陽介が小さな匙を差し出し「一緒に混ぜよう」と言った瞬間、彼女の胸の中で何かが固まる。
「ある」と真琴は答えた。声は震えていたが、確かだ。
彼らはテーブルを囲み、材料を分け合い、手を重ねるようにして最初の一歩を踏み出す。澄んだ空気の中、湯気と油彩と味噌の香りが混ざり合い、しばらくして鉢の縁に薄い光の線が戻ってきた。目には見えないほど微かながら、確かに戻ってくるものがある――相手の笑い声のかすかな記憶、温められた手の跡、誰かがふと漏らした言葉の温度。
だがその瞬間、廊下から乾いた音が聞こえた。錆びたドアノブを回すような小さな振動。全員が同時にそちらに顔を向ける。来客の足音ではない。学校の掲示板に張り出すときの、公式の用紙を持った係の足音だ。真琴の心臓がひとつ早鐘を打つ。
黒川が低く囁く。「明日、学園側がここをチェックする