星見寮で幼なじみの編集者は一通の手紙を追いかける 第4話「第3章」
掲示板の前で、漣は短い息を吐いた。朝の光が廊下の窓を透かして、紙片の文字に斜めの影を作っている。指先はまだ指示されたピンの跡に触れていた。紙の角はわずかに擦り切れて、誰かが何度もめくったことを告げている。そこに貼られた匿名の短文は、どこか昔、結里がノートの端に書いていた言葉と同じ節回しをしていた──それが漣をここまで駆り立てた理由だ。
掲示板の前で、漣は短い息を吐いた。朝の光が廊下の窓を透かして、紙片の文字に斜めの影を作っている。指先はまだ指示されたピンの跡に触れていた。紙の角はわずかに擦り切れて、誰かが何度もめくったことを告げている。そこに貼られた匿名の短文は、どこか昔、結里がノートの端に書いていた言葉と同じ節回しをしていた──それが漣をここまで駆り立てた理由だ。
「見つけたか、また取り憑かれてるのか」
瑠衣が靴音を立てずに背後に来て、片手に持ったマグカップを軽く傾けた。木の香りが混じったコーヒーの蒸気が、掲示板の紙片を撫でる。漣は振り向かずに答えた。
「うん。読めば、誰が“ペア”なのか分かる。共同痕跡だけが教えてくれる。」
瑠衣の顔が少し硬くなる。「使うんだね。あんまり無理しないでよ、レン。前と同じように消えるんじゃ困るから」
漣は小さな笑いを返したが、その中に確かな緊張がある。能力のことを、彼らはまだ公然と呼びはしない。『共同痕跡』──二人が共同で作ったものにだけ、二人の痕跡が残る。それを読み取れば、誰と誰が関わったか、どの瞬間に息を合わせたかが分かる──だが、その対価はいつも確実だった。直近の記憶が薄れる。決めつければ視界が曇る。関係を急ごうとすれば、その「共同」は壊れる。
漣は飾り気のないスイッチを切るように、紙に触れた。指先に冷たい感覚が走り、文字が光る。部屋の音が遠のき、掲示板の釘が金属的に震えるような錯覚が広がる。目の前に断片的な映像が滲んで現れた。
小さな机。二人の影が紙を折り、互いの呼吸が近い。片方の指が鉛筆を持ち、もう片方がその指に添うように定規を置く。笑い声が風鈴のように重なり、誰かが舌を噛んで「こう書けばいいんじゃない?」と囁く。匂いは油性ペンの匂いと、白磁のカップ。漣はその断片を撫でるように掴んだ。
「……高槻と、瑠衣?」
映像が瞬時に散開した。言葉を乗せたとたん、光が途切れて、彼の脳裡から薄い膜が剥がれるように、直前の二十分の記憶が微かに痺れた。昨夜、結里と交わした冗談の一節──どんな映画の話をして笑ったか──が、指先に触れたはずなのに、遠い海の泡のように崩れかける。漣は牙を噛む。代償だ。いつもそうだった。
「その二人がペアだって示してる。だけど、確定はしないでくれ。決めつけると、見え方が変わる」
瑠衣はゆっくり首を横に振る。掲示板の文字がもう一度弱く光り、辺縁のインクが滲み出す。はっきりしない痕跡ほど、触れれば消える。漣はそれでも足を前に出した――確かめたかったからだ。もしこれが結里の文体なら、相手が誰なのか、それだけで結里の背負っているものを推し量れるかもしれない。
廊下を出て、四階のアトリエへ向かう。高槻は角部屋に絵の具缶と折り畳みの机を積み上げ、窓際で作品を乾かしていた。光の当たり方で彼の表情が変わる。漣の声で高槻は振り向き、眉を僅かに寄せる。
「なんだ、早朝から。掲示版のアレか?」
「うん。お前が関わってるかもしれないって出た」
高槻の手が止まった。床に落ちていた布切れの匂いが、部屋中にふわりと立ち上がる。彼はゆっくりと椅子から立ち上がり、目の前の小さな木製テーブルへ向かった。漣は胸の中の音が早鐘のように鳴るのを感じた。もし彼が関係者なら、問い方を誤れば共同の痕跡は消える。急くな、という戒めが頭を巡る。
「正直に言う」高槻は言葉を選んでから出した。「あの文、気に入ってた。描きかけの冊子に入れようって話はしてた。けど、それをこうやって──匿名で掲示板に出すとは思わなかった。誰かが勝手に抜き取って貼ったんだ」
漣は息を止めた。高槻の手は無造作にテーブルの端を擦る。彼の指先に残る塗料の痕跡まで見える。漣は紙を開くように、また能力を働かせることを欲した。だが、先ほどの代償はまだ影を引いていた。自分が決めつけた言葉で相手を押し潰す可能性もある。高槻が「勝手に」と言った瞬間、漣の脳裏には「誰かが第三者として介入した」という絵が広がる。だがそれは確証ではなく、乱暴に掴めば失われる泡だ。
「仲間と相談しよう。急かしたくない」
瑠衣が背後から声をかけた。彼女の意思は明確だった。漣はそれを受けて首を振る。自分で動かなければいけない。他人の行動に任せることで、結里の気持ちを守ることができるのかもしれない──だが、漣は編集者として、真相を手繰り寄せる癖が抜けない。
「一度だけ、もっと深く読ませてくれ。けど、そのかわりに──」漣は言葉を切って、胸に手を当てた。「代償を受け入れる。どんな記憶でも、消えていい。だけど、一緒に来てくれ。二人で読む」
瑠衣と高槻は互いに視線を交わす。二人の間に短い沈黙が落ちた。そこには、共同制作の匂いがまだ濃く残っている。高槻が頷き、瑠衣の手がマグカップを握る。三人で掲示板へ戻る行為は、小さな共同の形だった。漣はその手応えを感じたとき、微かに安心する一方で、心底冷えるものを感じた。共同に身を置くということは、自分の一部を差し出すことでもある。
掲示板の前に立つと、文字は先ほどよりも濃く、しかしその輪郭が曖昧になっている気がした。三人が同時に集中すると、文字がふうっと膨らみ、文字列の間に微細な振動が走る。漣は息を吐き、目を閉じて指先を紙に置いた。
映像が来る。二人の手がページをめくり、誰かが声を上げる。「これ、匿名で出したらどうなるかな」。ふざけ半分の提案に、もう一人が頷く。夜の中で折り畳まれた紙が、掲示板に貼られるために抜き取られた。だが次の瞬間、第三者の手が割り込む。影は低く、言葉は無い。誰かがその短文をコピーし、別の裸の紙に移し替えた。そこに、小さな鋭い印が押される。誰が押したかは見えないが、印は「—委員」の文字を抱えた楕円だった。漣はその断片を掴むと、冷たい空洞に手を入れたような感覚に襲われる。
「企画委員会の印だ」瑠衣が息を呑む。高槻の手が硬く震えた。漣はそれを見て、いま自分たちが触れた痕跡が、単なる二人の遊びではないことを悟る。誰かが、もしくはどこかの組織が、二人の共同を外側から利用したのだ。
だが、漣がその確信を口にした瞬間、視界が一瞬真っ白になり、遠くの音が途切れた。戻ってみれば、掲示板の紙片の一角が薄く剥がれて、そこにあったはずの鉛筆の小さな圧痕が消えている。高槻が驚いて紙を指で撫でる。痕跡が消えた。共同が壊れたのだ。
「やっちゃったのか……?」高槻の声に、漣の心臓が凍る。自分の問い方の重さが、誰かの共同作業を壊した。共同の痕跡は脆い器のように扱うべきものだった。漣は手のひらを額に当てる。暖かさの代わりに、昨夜の結里の笑いがどこかへ行ってしまったような虚しさを感じた。彼はその喪失を数えようとするが、指の間から砂がこぼれるようにもう一度記憶の表面が削られていく。
瑠衣が小さく叫んだ。「レン、もうやめて。これ以上触ると、本当に全部なくなる!」
見れば、掲示板の紙は元の文言を保っているように見えるが、共同としての温度は下がっている。高槻と瑠衣の視線も、どこか距離ができていた。二人の共同行為が、外からの問いで分断されたことが、はっきりと分かる。
「俺が……ごめん」漣は言葉を続けられなかった。言葉を失っている自分に気