海辺の放送部で期限つきの恋人役は別々の未来を応援する 第24話「第22章」
潮の匂いが窓の隙間から放送室に流れ込む。ガラス越しに見える岸壁の鋼鉄の筋が、夕陽で赤く溶けている。湊は卓の上に置かれた古いカセットデッキのノブを指でなぞりながら、太い指先に残る塩の粒を払った。手のひらに、まだ昨夜録った磁気の冷たい感触が残っている。白雪が軽く息を吐いて、湊の横で椅子を回した。
潮の匂いが窓の隙間から放送室に流れ込む。ガラス越しに見える岸壁の鋼鉄の筋が、夕陽で赤く溶けている。湊は卓の上に置かれた古いカセットデッキのノブを指でなぞりながら、太い指先に残る塩の粒を払った。手のひらに、まだ昨夜録った磁気の冷たい感触が残っている。白雪が軽く息を吐いて、湊の横で椅子を回した。
「締め切りは今日、って言われたのよね。学校側から」
白雪の声は低い。海の音を抑えたようなトーンで、誰にも聞かれたくないことを囁くようだった。
「そうだ。片桐が直接来た。『明日の会議までに――外部の評価が納得する証拠を提出しろ』って」
湊は言葉を置き、カセットのケースを開ける。中で二本のテープが光を受けて黒く光った。二本は、放送部員全員で作った「港の手紙」——各々が互いへ向けて収めた声と言葉を重ねた共同制作物だ。湊の能力は、このような共同作品にだけ、人々の感情の痕跡を残す。だがそれは、あくまで断片であり解釈の余地を残す。決めつければ痕跡は消え、急げば作品そのものが壊れる。
「提出する時、片桐は『真実性を確認するには当人の内心を確かめるしかない』って言ったの」
白雪が爪先で床をかき、目を爪に落とす。湊は彼女の肩に触れた。触れられた白雪の肩は海のように冷たかった。
「彼は『演出』か『偶然』かをはっきりさせたいんだろう。評価という名の秤にかけて、扱いやすい方に落としたい」
八尋が手早くミキサーのスライダを直しながら言った。八尋は放送部の技術担当で、いつも何かを直している。彼の手は機械油と摩耗したコードの匂いがする。
「でも我々は演出じゃない。白雪だって、私だって、」夏帆が湊の反対側から前に出た。夏帆の表情は固い。彼女はここ数週間、最前線で彼らの放送を守ろうと動いていた。だが同時に彼女は、誰よりも「評価」という暴力の現実を知っている。
「評価って、数字があることだよね。視聴数、投票、アンケート。恋愛が点数になる仕組み。私たちの関係はその道具じゃない」
夏帆の言葉に、部屋の空気が一瞬凍った。外の波が廊下を震わせ、窓硝子に連なる小さな音を立てる。
廊下から重い音がして、片桐が放送室のドアに手をかけた。制服のえり元に、学校の紋章が光る。彼は書類を携えている。書類には、既に決定事項のような冷たい文字が並んでいた。湊は息を止めた。胸の奥に、押しつぶされそうな恐れが広がる。能力は万能ではない。恐れに負けて、痕跡を「答え」に変えようとすると、それは消える。
片桐が入ってきた。腕に抱えたファイルを卓につく音が、部屋全体に金属的に響いた。
「君たちの放送は——有益だった。だが外部から問題の指摘があった。未確認の『恋人役』を利用して注目を集めているのではないか、と」
彼の声は学校の規程集のページをめくる時の音のように無機質で、冷たい。それは個人の非難というより制度の歯車の言葉だった。
「私たちは——」
白雪が口ごもる。湊は彼女の手をぎゅっと握り、無言で首を振った。言葉にしてしまえば、証拠を作らねばならない。作るとなれば、共同制作に手を加えざるを得ず、能力の条件を壊す可能性がある。
片桐は書類を差し出した。そこには「確認手順」と銘打たれたフォームがあり、最後に署名欄がある。署名すれば、部の公式記録として提出。署名しなければ、部は「暫定停止」を検討する、という条項もついていた。
「方法は示した。録音物の内容を個別に確認し、恋愛の有無を明確にした上で判断する。君たちの名誉のためでもある。協力してもらえるか」
彼の目は柔らかく、しかし拒む余地を与えなかった。それは制度が笑顔で突きつける刃だ。
湊の頭の中に、昨夜の録音が浮かぶ。あのとき、白雪は波の音をバックに将来について語っていた。湊はそれを一緒に編集した——彼女と彼、八尋と夏帆の声が重なり、雑音や笑い声、沈黙までが「共同」で組まれていた。能力はその混ざり合いを痕跡として読み取れる。だが丸ごと引き出すことはできない。一人の心を取り出し、ラベルを貼れば、痕跡は薄れていく。湊はフォームを受け取ると、その重さが手にあることを感じた。指先が震える。
「湊。やめて。片桐さんの言葉に合わせるな。僕たちは他人に判定させるためにここにいるんじゃない」
白雪の声が、はっと現実へと引き戻す。彼女は淡々としているようで、目は真剣だ。白雪は既に、自分の道を見据えている。だがその決意は脆さも抱えていて、湊はそれを知っているから恐れる。
「じゃ、どうする」
八尋の問いに、夏帆が床に置かれたヘッドホンを拾い上げる。彼女の指が金属の網目に触れると、波の音が小さく震えた。
「提出はする。でも、彼らの『確認』には応じない。代わりに私たちが『共同で作ったもの』をそのまま公開する。一般の投票じゃなく、コミュニティの参加で評価を決める生放送をやるの」
夏帆の言葉は計算された勝負だった。放送部が持つ道具と繋がりを最大限に使う。放送という公共性を武器に変える。だがそれは同時に、彼らの関係や個人が露出されるリスクを伴う。
「生放送……? でも学校は承認しないだろうし、外部での注目は噂を増やすだけだ」
白雪は眉を寄せ、目の端で湊を見た。湊は彼女の反応を待つ。彼の中で決断が揺れている。自分の能力で白雪の本心を守りたいという欲と、痕跡を暴くことへの恐れがぶつかる。
湊は立ち上がり、窓の外に視線を移した。港の灯りが点々と瞬き、海面に細い線を描いている。自分たちの関係が誰かに評価され、消費される。恐れが冷たく胸を締めつける。もし今、自分が能力で白雪の気持ちを確かめてしまったら、彼女の選択は「証拠」として扱われるだろう。そしてその証拠が制度の秤になる。
「……俺は、確かめない」
湊は声を出して言った。自分でも驚くほど軽く、しかし確かな口調だった。白雪の肩の力が抜け、目に小さな光が戻る。湊は続けた。
「でも、形として残るものは必要だ。共同で作ったものなら、誰の物差しでも測れない。俺たちはそれを、そのまま見せる。生放送で、参加してくれた人たちに判断してもらう。けれど、その判断のために個人を解剖するようなことはしない。僕らのやり方で見てほしい」
八尋がうなずいて、ミキサーのスイッチを入れる。小さなランプが緑に光る。部屋の機材が生き物のように息を吹き返す。白雪は顔を上げ、湊と目が合う。二人の間に、静かな誓いの熱が走った。
片桐は冷ややかに視線を落とした。「無許可の生放送は規則違反だ。君たちが公共の場で問題を引き起こした場合、学校は断固たる措置を取る。放送部の存続は、君たちの選択次第だ」
彼は片付け始める。だが手を引く前に、ポケットから小さな紙を取り出した。それは学校のホームページのコピーで、そこには「コミュニティ参加型審議」の告知が付いていた。内容はこうだ——「外部有識者および地域住民による公開審査会を開催。放送部の在り方を協議する」。日時と場所、投票の方法が明記されていた。
「我々は、その会の場で君たちの放送の妥当性を判断する。君たちが自らの方法で公開することを禁じるものではない。むしろ、その場で公開してもらえば良い。地域が判断するのだからね」
片桐は言葉の最後に小さな笑みを浮かべた。それは譲歩にも見え、圧力