海辺の放送部で期限つきの恋人役は別々の未来を応援する 第19話「第17章」
潮風が窓ガラスを叩く。細かい塩粒が音に混ざり、放送部室の中にいつもより重い湿り気を残した。机の上には未完成の冊子が開かれ、ページの隅には二色の水性マーカーがまだ乾ききっていない。蒼は指先でページの角を押さえ、海の匂いを深く吸った。外ではカモメが一羽だけ低く鳴いた。
潮風が窓ガラスを叩く。細かい塩粒が音に混ざり、放送部室の中にいつもより重い湿り気を残した。机の上には未完成の冊子が開かれ、ページの隅には二色の水性マーカーがまだ乾ききっていない。蒼は指先でページの角を押さえ、海の匂いを深く吸った。外ではカモメが一羽だけ低く鳴いた。
「あと、ここに全員の一言を入れよう。『これからの一歩』みたいな題で」北島海斗が訊くように言った。声にいつもの軽さはなく、喉の奥に締め付けが残っている。海斗は表紙のレイアウトを指示し、顔に影が差すたびに窪んだ目が目立った。外部の条件があらためて重くのしかかっているのだ。
「本当に、これで一つにまとめるの?」名取灯里がペン先を口に当てたまま問い返す。灯里はいつもより手が震えている。彼女が出したいのは個人の声で、目立ちたいという欲望と、それを壊されたくないという不安が同居している。
辻堂律は腕を組んで部室の隅に立ち、いつものように反射的に疑問符を投げつけた。「条件つきの承認で、個人の評価を持ち込む? それは参加型をやる意味を台無しにする。俺は反対だ」
蒼は録音機の前に身を寄せ、テープのスプールの光る金属面を見つめた。自分の役割をどう説明すればいいのか、言葉がいつも足りない。蒼は「期限つきの恋人役」として、誰かの時間に寄り添うことを仕事にしていた。けれど今、守るべきは部活のまとまりであり、個々の未来──それぞれが選び直す自由だった。
「うちが提出する『参加型ライブ』の申請書、あの条件は撤回されない。締め切りは明後日」安達風花がタブレット画面を部室の中央に向けて言った。風花はテクニカル担当だが、表情は固い。タブレットには文化委員会からのメールが表示され、赤いアイコンが小さく光っている。蒼はそれを見た瞬間、手に金属的な違和感を覚えた。能力がざわつく合図だ。
「条件の中身は『参加者個人の評価を特定の基準で行うこと』って書いてある」風花が読み上げる。声は客観的だが、行間には冷たさが滲む。「これ、つまりはライブに来た人たちが個人を点数化して、それが公式記録として残るってこと。承認はするけど、その代わりに私たちの関係を数字にする、と」
蒼はページに触れた。共同で作った物にだけ、彼女の能力は反応する。冊子はまさに「共同制作」そのものだった。全員の言葉と手形が集まれば、その物にだけ互いの痕跡が残る。蒼はそれを見て、誰がどんな未来を選ぼうとしているかを探るつもりだった。だが能力にはいつも制約がつきまとう──確信してはいけない。決めつけると見えなくなる。
「じゃあ、やってみよう」灯里が最初にページにペンを走らせる。短い言葉だ。蒼は灯里の言葉が残る部分の紙に視線を落とした。紙の繊維の上に、ほんのりと色の薄い線が浮かんだ。線は暖かくて、灯里の声の抑揚と同じ形で震えている。蒼の胸が少しだけ軽くなった。
次に律が鉛筆を取り、ぎこちなく数行を書いた。律の線は冷たく、硬い。自分の足元を固めることの優先を示しているようだった。海斗がさっと色を塗る。海斗の線は波のように揺れ、一箇所だけ鋭く尖っていた。誰かに守られたがっている。
蒼はそれぞれの線を追う。紙の上をたどると、色の糸のように感情が縫い合わされるのが見えた。能力が働くとき、蒼にはその「糸」が微かな色彩と温度で伝わってくる。共同制作は、誰かの本心を直接見せはしないが、誰かと繋がろうとした痕跡を残す。
だが、蒼の胸には同時に別の感情があった。恐れだ。もし自分がこの糸を「こうだ」と結論づければ、灯里を傷つけるかもしれない。律を屈折させるかもしれない。それなのに、灯里は明日の本番を望んでいるように見える。律は違う未来を考えている。蒼は――決められない。
「どう思う?」灯里の声が近づいた。蒼はふり向けないまま答えようとした。口を開けた瞬間、蒼の中で妙な収縮が起きた。能力がくぐもる音がした。紙の上で光っていた糸が、パチパチと細かい火花のように散り、すっと色を失う。蒼は驚いて手を離した。紙はただの紙になっただけでなく、どこに灯里の温度が残っていたかの記憶まで薄れていく気がした。
「な、なに?」風花が顔をしかめる。蒼は冷たい味が口蓋に広がるのを感じ、額に汗がにじんだ。能力の禁止事項が動作したのだ。「痕跡を決めつけるほど見えなくなる」──頭のどこかでその言葉が響いた。蒼は無意識に自分が誰かに答えを出そうとしていたことを思い出す。自分の中で灯里の選択を奪ってしまうかもしれないという恐れが、先んじて結論を導こうとしていた。
「蒼、大丈夫か?」海斗が心配そうに寄ってくる。蒼は首を振って、ゆっくりと息を吐いた。変な軽さがあって、何か重要な一節を忘れたような気がした。だがそれは言葉にはならなかった。
そのとき、久保真砂が机の隅で立ち上がり、未乾の画材を抱えて移動した。急ぐ動きが、まだ乾いていないページに肘を当てた。インクが滲む。ページの端から滲んだ青が広がり、灯里の一言を覆い尽くすように黒い染みになった。全員の動きが一瞬止まる。共同制作の「物」が物理的に壊れた瞬間だった。
風花の顔色が変わった。「時間を縮めて作業したからだ。急いだのがまずかった」
律は舌打ちした。「見ろよ。こうやって、急ぎの選択は関係を壊す。制度が私たちに急かせているんだ」
蒼は胸が締めつけられるのを感じた。共同制作が壊れると、能力は働かない。しかも今、痕跡を「見よう」としてしまったせいで、先ほどまで見えた糸は消えた。紙の染みを見つめると、蒼は急に頭が重くなった。耳鳴りがして、手の感覚が少し遠のいた。能力を無理に使おうとして、その代償を払ったのだ。
「……ごめん。私のせい」久保は泣きそうに笑った。灯里は紙をめくりながら、きゅっと唇を噛む。海斗は拳を握ったまま、窓の外の海を見つめる。
「締め切りは変わらない」風花が冷静に言った。だが声に熱が残る。「このままじゃ、文化委員会は『承認するが評価対象』って条件を強制する。私たちは答えを出さないといけない」
そのとき、部室の古びたスピーカーが風花のタブレットからの着信音を鳴らした。表示は文化委員会の事務局だ。海斗がため息をつきながらタブレットを受け取り、読む。目を閉じて、言葉を選んでから皆に伝えた。
「委員会からの提案だ。『代表者一名を指定して、その者を公的参加者として登録する』と。代表者は個人評価を受ける。もし代表者が受けるなら、その他のメンバーはグループとして参加できる枠を優先的に確保する、とのことだ。つまり、誰か一人が背負えばいい──ってことだ」
部室はしんと静まり返った。海の音が窓を叩き、ガラスに小さく反射する。誰かが息を吐き、誰かが膝の上で手を握りしめる。選択が一人に集中することは、蒼の胸に暗い影を落とした。期限つきの恋人役としての仕事は、相手の時間を尊重することだった。ここで誰かを「代表」に仕立て上げるのは、相手の未来を代わりに決めるようなものだ。
「誰かが代表者になるってことは、誰かが審査台に立つってことだよね?」灯里の声が震えた。「そんなこと、私にはできない」
律は顎を引き、静かに言った。「だったら誰かが犠牲にならないといけないのか?」
その瞬間、風花の目が静かに鋭く