夜間図書室で言えないふたりは本音を言う練習をする 第17話「第15章」
電球の光がこもる夜間図書室。長いテーブルの上に積まれた本の背表紙は、まるで夕暮れの街路樹のように奥へと伸びている。風はないはずなのに、窓の結露がわずかに揺れて、冷えた空気が指先を刺す。
電球の光がこもる夜間図書室。長いテーブルの上に積まれた本の背表紙は、まるで夕暮れの街路樹のように奥へと伸びている。風はないはずなのに、窓の結露がわずかに揺れて、冷えた空気が指先を刺す。
「ここで、やるのね──」
燐は紙箱を抱えながら、肩越しに由梨を見た。由梨の手のひらには、折れたノートの端切れと、茶色く滲んだインクのしみがあった。中島は眼鏡の奥で手順を反芻するように唇を動かし、桧山は脇に置いたカメラを軽く撫でている。小谷は椅子の背にもたれて、両手を組んで膝の上に置いていた。彼女の目は、図書室の奥にうつる古い掲示板の影に吸い込まれるように細くなっている。
燐は箱を開いた。中には、紙の小箱、薄い和紙、鉛筆、藍色のインク瓶。それに、三枚の名刺大のカードが静かに並んでいた。これが、彼らが昨夜考えた「共同の器」だ。二人以上で作ったものにだけ、感情の痕跡が残る──燐が持つ、唐突にもらわれたような能力。それは誤読を許さないようでいて、とても脆かった。
「時間はある?」由梨が尋ねる。声は低く、しかし決意を含んでいた。
「深夜の見回りが入るまで、あと二十分。」中島が壁時計を見上げて答える。針が、ゆっくりと二度微かに震えた。
燐は息を吸った。箱の和紙を取り出し、小谷と由梨の間に広げる。「これを、三人で折る。急がないで、順番に。僕は余計なことを決めつけない。見たい形を先に定義しないで、互いの手の動きだけで作っていこう」
由梨はうなずく。小谷は小さく笑って、震える指で和紙の端をつまんだ。燐は両手を重ねて、三人の手を合わせるように紙の上に置いた。手の温度が伝わり、和紙の繊維が微かに波打つ。彼らは一つひとつの折り目に小さな言葉を添えた。短い誓いというより、確認の声。黙っていれば緊張が増すから、言葉で呼吸を合わせるためだ。
「今、ここで言えることを言う。嘘でも取り繕いでもなく、まずは小さいことから。痛い、寒い、眠い、──嫌だ、じゃない、危ない、とか」燐の声は途中でかすれる。彼は能力を使うと喉が損なわれることを知っていたが、それでも声を出す必要があると感じていた。
和紙は折られていき、糊は使わずに形が形を留める。角がきちんと揃うと、淡い光のように、紙の表面に小さな斑点が浮かび上がった。まるで、息の結晶のように。由梨が顔を近づけると、斑点は人の掌の静脈のように繋がり、細い線になった。
「見える?」小谷が囁く。
「見える──」由梨の声が震えた。「でも、なんか……言葉が先に出ちゃうと、消える気がする」
燐は腕をぎゅっと抱えた。彼は昨夜、同じようにして共同の短冊を作ったときの失敗を思い出す。あのとき、彼が「これはこういう意味だ」と先に決めてしまった瞬間、斑点は消え、和紙はただの紙になった。能力は共同の未定を必要とした。決めつけるほど、見えなくなる。
だが今夜は、見回りの時間が迫っている。小谷の言葉は切迫していた。「早く終わらせよう。先生に見つかったら、私、また処分されるかもしれない。私の評定が下がったら、家のことも学費も──」
由梨が手を止める。彼女の瞳は赤くなっていて、灯りの光がそれを朱に染めた。「ここで留めたい。私たちで、証拠を作る。被害にあった人たちを守るために」
「でも、暴露すれば報復が来る。評定盤はデータを回収して──」中島は言葉を飲み込んだ。燐はそれ以上を言わせないために、和紙に指を触れた。指先に、ビリリとした痛みが走る。能力が働くとき、燐はいつもこの痛みと一緒に小さな穴が胸に開くように感じる。代償だ。代償は肉体だけではないことを、彼は知っている。記憶の端が薄れていく。昨日読んだ本の一節、泣きそうになったときの母の声、そういう重なりが一枚ずつ消えていく。
「急いでるんなら、単純な形でいい」桧山が言った。普段は軽口ばかりの彼だが、今は真顔だ。「八つ折りで、名前を書いて、インクで押印。あとは僕が映像に残す」
燐は首を振った。「押印は危険だよ。痕跡が誰かに渡ったら、評定盤はそれを利用する。共同の器は、外部に渡ると解析される。僕たちで守らないと」
その瞬間、和紙の斑点が鋭く縦に裂けた。小さな裂け目から、黒い筋が一瞬走り、和紙全体が震えた。三人とも同時に息を呑む。燐は手を離し、和紙は自然と崩れていった。折り目が狂い、形が保てない。焦って力を入れたからだ。急ぎ、決めつけた瞬間に、共同の器は壊れる。
「ダメだ、ダメなんだよ!」小谷の声が高くなる。彼女は膝を抱え、上から落ちてくることがあるかのように震えた。「もう一回やって、今度は──!」
そのとき、図書室の入口の古時計が二度、低く鳴った。見回りか──だが、音は遠い。中島が窓を見た。「見回りじゃない。誰か来てる」
燐は立ち上がり、そっと灯りを手に取った。声の主は階段を静かに上がってくる。足音は図書室の木床を擦るように、淡いリズムで近づいた。燐は和紙を抱え込み、他の資料で隠すようにテーブルの中央に置いた。入り口のドアが開き、細身の影が一歩入る。慌てるほどの時間はない。影の人物は意外にも、評定盤の委員の一人ではなく、学内ボランティアの若い職員だった。彼の手には封筒があり、その表面には見なれた校章と、「内部連絡」とだけ書かれている。
「遅い時間に申し訳ありません。図書整理の件で──」彼は微笑んだが、その目はよそよそしい。由梨が立ち上がり、手で彼を制した。「どういう用件ですか。今、ここは──」
職員は肩をすくめ、封筒を開けるような仕草を見せた。中から一枚の紙が取り出され、それをテーブルに差し出す。「評定盤からの通達です。共同制作物の扱いに関するガイドライン。あなた方のように深夜に共同制作を行う学生が増えている。誤解やトラブルを避けるために、共有物は中央へ回収され、教員が査定することになりました」
空気が凍る。紙の一枚に書かれた文字が、図書室の灯りの下で冷たく輝いた。由梨はそれを取り上げ、指先が震えるのを止められない。評定盤は、共同の器そのものを統制しようとしている。作られた痕跡はデータとなり、読み取られ、公表される。彼らの「守る場」は制度に飲み込まれつつあった。
「これを利用して、被害者を守れるんじゃないの?」中島が静かに言った。だがその声には引っかかりがある。もし評定盤に渡れば、証拠として使えるかもしれない。しかし同時に、評定盤はそれを逆手に取り、さらに厳しい監視と評価の道具に変えるだろう。
燐は和紙を取り、もう一度小さく折り始めた。今度はゆっくりと、呼吸を合わせ、言葉を置かないようにする。由梨が紙の先端に触れ、小谷が折り目を確認する。桧山は暗がりで静かに見守り、中島は封筒をじっと見つめたまま掌で揉んでいる。三人の手の温度が和紙に移り、白い面に薄い色が滲む。今度は形が崩れない。裂けなかった。折りあげる最後の角を閉じると、和紙の表面に、ほんの一瞬、隠されていた文字が浮かび上がった。墨色ではない。まるで誰かの息が絵筆になったような淡い紋様だ。
由梨が息を呑む。「これ……」
燐は顔を上げる。紋様は読むことのできる言葉ではなかった。だがそこには、確かな痕跡があった。ある夜、小谷が図書室の奥で見た掲示板の影、そこに書かれていた匿名のメモの曲が