終端剣の時計工と空白王 第24話「第22章」
倉庫の奥、古い柱時計がまだ規則正しく時を刻んでいた。木の鳴る音と重なって、カナメは自分の指先の鈍さを一つ一つ確かめるように息を吐いた。油の匂い、鉄の冷たさ、歯車が触れ合うときのほんの小さな振動──それらがいつもなら指先から伝わって胸まで届くのに、今は薄い綿越しに聞こえるように遠い。
倉庫の奥、古い柱時計がまだ規則正しく時を刻んでいた。木の鳴る音と重なって、カナメは自分の指先の鈍さを一つ一つ確かめるように息を吐いた。油の匂い、鉄の冷たさ、歯車が触れ合うときのほんの小さな振動──それらがいつもなら指先から伝わって胸まで届くのに、今は薄い綿越しに聞こえるように遠い。
「無理しなくていいよ、カナメさん」
ミナが差し出した湯気の立つ椀を受け取る。彼女の指先は温かく、湯気の匂いとともに安心が来るはずだった。だがカナメは湯気の輪郭をはっきり感じられず、掌に落ちる感触の重さだけをなんとか掴んだ。
ソウは倉庫の入り口近くに俯せになり、薄い毛布を体に巻きつけている。傷は乾いていたが、目の周りに眠気が残っている。住民たちが輪になって低い声で話し合う中、時折「ありがとう」という声が混じった。合意の証として交わされた手の跡──石版に押された掌の赤い染みが、テーブルの上に幾つか並んでいる。それらはまだ湿って、光を受けて細かく光った。
レイが地図を広げ、指でいくつかの箇所をなぞる。計画を共有した時、終端剣は静かに振動し、見えない糸が住民たちの手の間に結ばれた。合意が成立した瞬間、カナメの心臓はひどく速くなった。剣を媒介として、みんなで描いた作戦が現実となったとき、世界は一回だけ軋んでずれた。ソウは救われ、村はその場で拍手をした。だがその直後、カナメは確かな代償を知った。触覚の微細な一部が、戻らない形で薄れていった。
「カナメさん、手を見せて」ハジメが慎重に言った。粗い指でカナメの利き腕を取ると、彼の手をひっくり返して一つ一つの指の関節を触る。ハジメの掌は温かく、しかし彼の眉間には厳しさが滲んでいた。
カナメは自分の手の甲を見下ろす。掌の皮膚は変わらない色をしているのに、途端にそこに隙間があるように見えた。工具箱を膝の上に引き寄せ、ドライバーを取る。小さなネジを摘まもうとして、指が滑った。金属が指先を滑り落ち、コツンとテーブルに落ちる。音はする。だが本来あるはずの、ネジの頭に触れた瞬間のあの微かな引っかかりがない。
「──わかった」
ミナが言った。言葉は静かだが、決意が混じっている。住民たちが合意したこと、そこに躊躇や恐怖がなかったこと。そしてそれが、剣の効果を正しく発動させたこと。だが同時に、剣の代償を目の前にして、彼女の目には怒りも宿っている。
「もう二度と、勝手に振るわない。使うなら全員の了承を、書面と象徴を持って。合意のときは、皆で同じ場所に手を置く。そうしなければ──」ミナは言葉を切った。言葉は暗黙の了解を求めるように廻りの視線を集める。
「合意が必要だって、誰でもわかるさ。でもそれだけじゃ駄目だ。空白王側に、うちのやり方を知られたら、次は俺たちが利用されるだけだろ」ハジメが唇を噛み、低く言った。彼は以前、徴収班とコンクリートのあいだで過ごした夜を忘れられない。強制の体系は人の選択を奪う装置だ。終端剣が誰かの意志を媒介するなら、その意志を守る仕組みを作るべきだと彼は考えている。
レイが紙と炭を取り出し、手早く数本の線を引いた。「合意の儀式を形式化する。住民の代表と仲間、そして第三者の証人を立てる。署名だけじゃなく、物理的な接触で剣とリンクする方法。これなら勝手に使う余地は減る。だが──それでも完璧ではない」
「完璧でなくても、やらないよりはいい」ミナがすぐに返した。彼女の声に震えはない。ただ、どこかでため息の音が混じった。
カナメはその会話の輪に加わることができなかった。彼は工具箱をひっくり返し、中に残っていた小さな歯車を掌に置く。いつもならその歯車の縁に微かな冷たさと凹凸を感じ、位置を確かめることができる。だが今は、丸い金属の冷たさと重さだけがある。舌打ちのような小さな音を立てて、彼は歯車をテーブルに置いた。
「ごめん」カナメの声は、思ったより乾いていた。「後ろを任せるつもりだったのに、手が──」
「あなたは助けてくれた。代償があったのは事実だが、その価値を誰が決める?」ソウが薄い毛布越しに呟く。彼の目はまだ眠そうだが、意思ははっきりしている。「俺は生きたい。だから感謝してるよ、カナメ。」
住民の一人、年配の女──大畑おばさんがゆっくりと立ち上がった。彼女の顔には皺が深く刻まれている。手の甲には長年の働きでついた黒い染みが残り、今もなお力がある。
「カナメよ、あんたが手を失ったって言うならば――それでも私はあんたのことを尊敬する。あんたは我らのために剣を使った。だが、これからは我らにも決める権利がある。あんた一人の犠牲で済ませんのは、あんたが望むことじゃないだろう?」
その言葉はじんわりと場を温め、同時に重く胸に落ちた。カナメの眼の奥が熱くなる。彼は自分の仕事を思い出した。前世で危険な現場を支えた時計工の使命感が、ここでも疼いている。だが触覚が失われた今、彼は道具を完璧には扱えない。自分が救った人々を守るためには、どうするのが最善か。
会議が続いている最中、倉庫の扉が勢いよく開いた。砂埃を巻き上げ、駆け込んできたのはケンという名の若い伝令だった。膝に擦り傷を作り、息を上げながら地図を一枚差し出す。紙の上にはいくつもの赤い点が描かれ、一本の線が彼らの村へと伸びている。
「索波器だ」ケンは息を整え、目を見開いた。「近くの監視網が反応しました。終端剣を媒介にした時の特異波形……空白庁の索波がそれを拾った。三つの受信点が特異点を追跡して、今からおよそ三十六時間でこの辺りを通過する予測です」
言葉の最後に、倉庫の空気が凍った。合意を以て実行した救出は成功したが、同時に見えない痕跡を残したらしい。終端剣の作用は、ただ結果を作るだけではなく、波紋を広げる。空白王の管理する世界は、それを見逃さなかった。
「つまり、来るのか」ハジメが短く言った。彼の目は獲物を狙う犬のように鋭くなる。
「来る」とケンは頷く。「通報が行けば、追加の索波器とその保護隊、場合によっては再契約班が動く。彼らは選択権を回収する。住民の判断を無効にするためにやってくる」
レイが地図に指を突き立てる。「到着ルートは三通り。包囲するように来るか、急襲して索波器を配置し直すか。どちらにせよ、時間はない。こちらから先制的に索波器を潰すなら、作戦が必要だ。終端剣を使えば、一度きりで有利な状況を作れる可能性があるが……」
カナメの胸に冷たいものが落ちる。剣を振るえばまた感覚を失う。しかも前と同じくらいの犠牲で済む保証はない。手の先の温度が、いつの間にか遠ざかっていく感覚をカナメは嫌というほど知っている。仲間の誰もが、彼を頼りたいが、彼自身は自分が頼りにならないかもしれないという恐怖に囚われる。
「合意があれば、僕がやる」とカナメはぽつりと言った。言葉は小さく、それでも皆を見れば拒めないものだと自分でも感じた。
しかし、すぐにレイが首を振る。「ダメだ。もし合意しているのが村人だけなら行使は可能だが、索波器を潰すとなれば外部の影響が大きい。住民の合意だけで他所の機械を叩くのは、正当性が薄れる。空白庁はそれを口実にして、我々を『違法な行為者』として排除する」
ミナが手を差し出してテーブルを叩く。