潮騒銃の牧童と鉄道皇国 第6話「第5章」
潮の匂いが、いつもより濃く部屋の隅に溜まっていた。風花は目を開けた瞬間、それがまずわかった。鼻孔にしみる塩と油の混ざった匂い、寝具に残る湿り気。だが、その直後に来るはずの波の呼吸が、身体の外側から遠ざかっていることに気づいた。
潮の匂いが、いつもより濃く部屋の隅に溜まっていた。風花は目を開けた瞬間、それがまずわかった。鼻孔にしみる塩と油の混ざった匂い、寝具に残る湿り気。だが、その直後に来るはずの波の呼吸が、身体の外側から遠ざかっていることに気づいた。
「……聞こえないか」
隣で寝ていた真砂が、小声で確かめるように囁いた。風花は口を開いて返す。言葉は出たが、真砂の声は遠く、すぐに厚い布越しに置かれたように感じた。耳に入る音は痺れるような低周波のうねりだけで、細い木のきしみや紙をめくる指先の音が消えている。
風花はゆっくりと起き上がり、潮騒銃を抱えた。短銃身の金属はまだ温かく、海の冷えた湿気で指先が滑る。保持帯の革に触れると、掌に微かな振動が残った。起き抜けのまぶたの裏に、前世の現場の記憶が割り込む。高熱、鋼のきしむ音、仲間の怒鳴り声――火と油と金属の匂い。夢のなかの手は機械の部品を繰り返し締め続けていた。目が覚めると、きしむ音は現実の列車の車輪音に置き換わるはずなのに、今日の世界は遠く、歪んだモノクロのフィルムのようだった。
「風花、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
レナが顔を覗き込む。彼女の唇の動きを何となく追いながら、風花は頷いた。聴覚が落ちていると自覚したのは、ただの疲労ではなかった。潮騒銃を使ったときの代償が、胸の中を重たく押さえている。あの夜の救出。避難路を一度に実現した共有作戦の余波が、確実に自分の内側を削っているのだ。
集落の広場に出ると、細い石畳の向こうに黒い煙をはいたような影が見えた。レールの光だ。近づくと遠雷のように振動が伝わってくる。列車の到来を告げる低い鼓動。だがその音も、輪郭がぼやけて波の反射のように跳ね返り、肝心の言葉が薄まっていた。
やがて制服の縫い目が見える。鉄道皇国の将校が、二人の従者を従えて集落の入口に立った。将校は背筋を伸ばし、胸に光る徽章が海面の陽を拾う。彼の口が動く。整った日本語だが、風花には一単語ごとがじわじわと溶けていって、正確な文節が掴めない。代わりに、将校の表情と手振りを読む。礼儀正しい顔。まっすぐな主張。だがその目に、秩序を手に入れようとする冷たさがあった。
「我々は秩序をもたらす。効率はあなたたちの未来を保証する――子供たちを守るために必要だ」将校の言葉を、真砂が雄弁に繋ぎ合わせて風花に伝える。真砂の声は鮮明に耳に届いた。風花はその言葉の一語一語を、唇と指の動きで追う。将校は秩序と効率という言葉を次々に並べて、救済と安定を約束する。だが同じ口調で、「不要なものは減らされる」と続けるとき、村人の顔に影が落ちた。
「一緒に来てくれれば、移送列車の優先枠を与えます。先端医療、就労計画、そして永続的な保護。ここでの無秩序なリスクはなくなる」将校はそう言って手を差し伸べる。手のひらは清潔で冷たく、何かを差し出すような形をしていた。
一方、集落の端ではアルが小さな子どもを抱きかかえ、唇を噛んでいた。アルは最近加入した若者で、家族を失っていた。将校の言葉に反射的に安心を求める目を向ける。真砂の顔がゆがむ。彼女は実用主義者だ。生き残るための決断を速やかに下すことを学んだ。将校の提案は、彼女にとって理にかなっているように見えた。
「もしここで暮らしたいなら、協力を申し出てくれ。安全は保証される」将校の言葉に、ある母親が唇を噛む。子供の髪を撫でる指が震えている。
そのとき、討論に割って入るように、一人の若者が叫んだ。「あの列車を止めればいい!」律が拳を突き上げる。律は声の大きい人間で、前線での行動的判断を好む。彼は潮騒銃を手に取り、そして何かを思いついたかのように顔を上げた。「風花、同意しろ。今ここで一発撃てば、あの制服連中の動きは止められる。話術や約束なんて、生身の武力には敵わないんだ!」
律の目は真っ直ぐで熱かった。だが風花は律の提案を聞きながら、潮騒銃の代償を思い出した。共有された合意のもとでのみ、潮騒銃は味方の作戦を一度だけ現実にするという約束を持っている。それは救いでもあり、倫理でもある。だが同時に、合意を無視して力を行使すれば、効果は「敵にも作用する」と専ら語られている――その言葉の意味を、風花はまだ完全には理解していなかった。
「一人で使うな」レナが低く言った。彼女は律の腕に触れ、拳を押さえた。「それで、どうなるか知ってるの?」
律は怒りで顔を歪めた。「だから皆が被害に遭う前にやるんだ。行動しないで待ってることが安全なのか?」
風花は潮騒銃を胸の前で握りしめた。金属の冷たさが掌に食い込み、針のような痛みが走る。頭の中で前世の機械音が鳴り響き、今の列車の車輪音と綯い交ぜになる。夢の声が、合図のように爪先で触れるように鮮明だ。もし、合意なしで作動させれば――他者の選択をもねじ伏せる形で効果が及ぶ。それは敵に対しても、強制的に「作戦」を押し付けることだ。言われていたのは、そういうことだったのか。風花は板のように固まる。
「許容できない」彼女は、律の眼を見て静かに言った。声は小さく、頼りなかったが、真砂とレナがそれを取り合った。律は拳を解き、潮騒銃を見下ろした。彼の胸には怒りと焦りが交互に浮かんだ。
律は足を止め、短く息を吐いた。「分かった。でも行動は必要だ。俺たちがこの場を守らなければ、多くの人が移送に応じて離れていく。統治される側にされてしまうんだ」
「それでも、自分勝手に他者の意思を奪っていい理由にはならない」風花は言葉を選んだ。彼女の唇は震えた。聴覚が削られたせいで、言葉の重みを確かめるのにいつもより時間がかかった。
将校は間近で微笑んだ。彼の顔には疲れもなく、まるで演説の練習を積んだかのような落ち着きがあった。「最後にもう一度だけ申し上げる。協力を約束する者には、時間を与える。我々は混乱に乗じた連中から村を守る用意がある」
その瞬間、広場の片隅で、風花の身体が反応した。潮騒銃が微かに唸り、保持帯の革がひとしきり暖かくなった。やはり、代償はまだ効いている。救出のときの残り香が、いまも体内で揺れていた。風花は無意識に銃身の端を覗き込む。金属の溝に沿って、小さな刻印が影を落としていた。普段なら気に留めないはずのその印が、今日の自分には鋭く見えた。
刻印は微細な歯車の断面のように見え、そのすぐ脇に薄く数字が打たれていた。R──と見える。次の文字は、塩の付着で半分消えている。七か八。風花はその刻印に指の腹を押し当てた。金属の温度が彼女の指先に伝わり、そこからわずかな振動が紡がれた。振動は海の反射と列車の鼓動と混ざり合い、彼女の中に別のイメージを生んだ。線路の銀色、ち密な歯車の噛み合い、整列した工房、印字される部品番号。
「これ……鉄路の規格番号みたいだ」真砂が指を伸ばして刻印を覗き込む。彼女はかつて機械工学を少しかじっていたことがあり、その目は敏い。真砂の声は早口で、興奮を含んでいたが、風花の耳には一節しか届かない。文字の一片が、ぽつりと確かな意味を持って落ちた。
将校はその動きを見て、笑みを深めた。「我々の援助は、こうした外部の機構とも連携している。あなたたちの道具も、より良い秩序の下で活かされるだろう」
言葉の優しさとは裏腹に