潮騒銃の牧童と鉄道皇国

潮騒銃の牧童と鉄道皇国 第4話「第3章」

潮の匂いが重くのしかかる朝だった。漁網を乾かす木の枠、風になびく破れた布、子供たちが石を蹴って遊ぶ音。潮に洗われた砕けたガラスのように、集落は光を散らしていた。島崎蓮は、濡れた砂にしみた靴の感触を確かめながら、いつもの見張り杭の脇に立っていた。潮騒銃は肩にぶら下がり、金属の冷たさが腕を伝って来る。銃身には貝殻を思わせる渦模様が彫られ、銃口の先は波頭の泡を切るかのように淡い青で縁取られている。手を触れるだけで、潮の記憶が胸に寄せては返すように響く──彼はそれを「聞く」のが癖になっていた。

潮の匂いが重くのしかかる朝だった。漁網を乾かす木の枠、風になびく破れた布、子供たちが石を蹴って遊ぶ音。潮に洗われた砕けたガラスのように、集落は光を散らしていた。島崎蓮は、濡れた砂にしみた靴の感触を確かめながら、いつもの見張り杭の脇に立っていた。潮騒銃は肩にぶら下がり、金属の冷たさが腕を伝って来る。銃身には貝殻を思わせる渦模様が彫られ、銃口の先は波頭の泡を切るかのように淡い青で縁取られている。手を触れるだけで、潮の記憶が胸に寄せては返すように響く──彼はそれを「聞く」のが癖になっていた。

「また始まったよ、あの声」背後から声がして、蘭が寄り添ってくる。腰に刃を差した女で、目が鋭い。別行動派の柊が声を荒げ、共同で守る派と揉めているのが見える。柊は自分の小さな集団とともに、列車の線路へ出て行くつもりだと言っているらしかった。線路を辿れば移動の手がかりが掴める、というのだ。

「線路に行けば、また奴らに見つかるだけだ」蘭は蓮のそばに来て低く呟いた。波の音と人の話し声が重なって、蓮の耳にはいつもより遠く感じられた。潮騒銃の金属がわずかに振動する。彼は銃の手入れをしようとしたが、蘭の手がそれを止めた。

「蓮、さっきのことは──」蘭が言いかけたところへ、集落の中央にある木のテーブルに一人の男が歩み寄った。男は黒い制服を着ており、肩章に小さな赤い印章が光る。鉄道皇国の監視官だ。

男は紙の束をテーブルに置き、赤い朱肉をつけた判子を取り出した。その小さな円い印面は厚く、押されるたびに「ポン」と乾いた音を放つ。蓮は無意識に身を引いた。朱のインクの匂いが鼻腔をくすぐる。監視官は穏やかな顔で言った。

「移動許可の配布に参りました。安全な鉄道網への登録を受ければ、移動の優先が与えられます。だが、登録には手続きが必要だ。武装の放棄、集合地の提示、身分確認――簡単なことですよ」

古い女、姫野三津子が前に出た。三津子の顔は皺だらけだが、その瞳はまだ頼もしい光を宿している。彼女はテーブルに手を置き、監視官の目をじっと見やった。

「条件を聞いてから渡すわ。ここにいる人間の半分を取り逃がす気かね?」三津子の声は柔らかいが、場内には不安の波が押し寄せた。別行動を望む者たちの声がまたも高まる。柊が指をさして喚く。蘭は三津子の腕にそっと触れて制そうとした。

蓮は潮騒銃を強く抱き締めた。監視官が朱の印を一枚、また一枚とパンフレットに押していく。赤が乾くたびに、紙の上に小さな回路のような図柄が浮かび上がる。蓮は気づかずにはいられなかった。判子の縁に、細い金属の繊維が埋め込まれている。光が当たれば列車の窓に反射する海の煌めきと同じ模様だ。

「登録すれば、移動は確実に」監視官は続けた。「登録しない者は鉄道網の保護区域に入れません。そこまでして守る気があるのですか」

一瞬、子供の叫びが響いた。光という名の五つになる男の子が、線路の方へ走り出したのだ。遊んでいたビー玉が線路の枕木に落ち、それを追ってしまったらしい。線路の先では、もう夜の巡回列車のライトが海面に沿って光り始めていた。列車の窓は海を映し、白い光の帯が揺れている。

柊がすぐに動いた。「光を止めろ!」と叫び、人々もそれに続いた。子供は線路の上に立って、くるぶしまで海水が浸かるような軌道の間を見下ろしている。巡回列車はまだ見えない。ただ、鉄の道を伝う振動が、地面を経て蓮の胸に届いた。彼の中で何かがきしむように鳴った。

「行くぞ」蓮は自分でも驚くほど冷静に動いた。潮騒銃を構え、肩に寄せる。銃は暖かかった。銃身の渦模様が、今まで以上にはっきりと潮の音を反射している気がした。使えるのは一度きり──蓮はそれを知っていた。使えば、共有した作戦を実現できる。しかし共有はなかった。三津子も、蘭も、別行動派も、まだ合意していない。

光の足が滑った。砂が音を立て、彼は一歩だけ線路の枕木に踏み込んだ。

「蓮!」蘭が叫んだ。三津子が両手で口を覆う。

蓮は銃の引き金に指を乗せた。計画は頭の中で組み立てられた。線路に沿って波の幻影を作り、巡回列車のセンサーを誤作動させて速度を落とす。その瞬間に光を抱き上げ、子を波間から救い取る──短い時間。仲間に知らせる余裕はない。彼は一度だけ、彼らと共有する前に自分で決断した。

引き金を引くと、潮の音が──耳ではなく、身体の奥で鳴った。世界が波頭の裏返しのように揺れる。周囲の空気がべったりと重くなり、白い霧が線路の上を這った。巡回列車のランプがぼんやりと蜂の光のように揺れ、遠くから聞こえる金属音が遅れて届いた。その瞬間に、光はまるで重力が抜けたかのように地面から浮いた。蓮は走り、子を抱き上げた。波の幻影が列車のセンサーを惑わせ、機械が自律的に急ブレーキを掛ける。列車の振動が止まり、人の足音が遠ざかる。

救えた。光は泣きながら蓮の首にしがみついた。周囲は一瞬の静寂に包まれ、次の瞬間には歓声と怒号が入り混じった。柊が駆け寄ってくる。蘭が顔を真っ赤にして蓮の肩を叩く。

だが、その代償は即座に現れた。蓮はふと、自分の左耳の中が空洞になったように感じた。潮の音が、いつものように奥から寄せてこない。海の鼓動を、彼の身体はもう半分しか受け取れなかった。砂の匂いが薄まり、食べ物の塩味が少しだけ遠のいた。世界の輪郭が、ぎくりとずれる。

「蓮、大丈夫か?」蘭の声が遠く、こもって聞こえる。まるで彼女が厚いガラスの向こうから呼んでいるようだ。蓮は手で左耳を押さえた。痛みはない。ただ、そこにあったものが無くなった。幼い頃、風を聞いて道を覚えた感覚が、抜かれたようだった。

「何をしたんだ」柊が目を剥く。三津子の顔に影が落ちる。彼女はふうと息を吐き、赤い紙の束を見た。監視官は表情を変えた。列車の機関士たちは線路脇に降り、乱暴に列車の装置を点検しながら互いに叫び合っている。だが、その顔にどこか遠い驚愕がある。蓮は気づいた。自分の使ったものが、敵にも作用を及ぼしていたのだ。彼の意思で起こした幻は、鉄の上を走る者たちの感性にも触れ、彼等の行動を変えさせた。

「お前は何を──」監視官の声は震えていた。だが震えは恐怖ではなく、被害を受けた者の驚愕だった。監視官は慌ててポケットから何かを取り出し、赤い印を押した紙を確認する。蓮の胸の中で冷たい不協和音が鳴る。彼が単独で使ったために、効果は仲間への救済だけでは済まず、敵側の行動をも左右してしまった。想定外の範囲で能力が働いたのだ。

人々の視線が蓮に集まった。蘭は怒りと安堵が入り混じった表情で、蓮の腕を掴んだ。「蓮、あんた……勝手に」言葉はそこで詰まった。「でも、子は助かった」

三津子は紙の上に置かれた朱の印をじっと見つめた。彼女の指先が、ほんのわずかにその縁を撫でる。そこに埋め込まれた細い金属繊維が光を反射して、列車の窓の反射と同じ模様を描く。彼女はゆっくりと顔を上げた。

「見せてごらん」監視官は訝しげに言い、押された印の一枚を差し出した。三津子はそれを手に取り、指で撫でると、思考の糸を引くように口を開く。「これ、ただの印じゃないね。列車の外殻に組み込まれた識別子の断片だ。登録した者の位置を同期させる……彼らは移動の予約を装っ