潮騒銃の牧童と鉄道皇国 第26話「第24章」
潮の匂いが混じった風が、波止場に並んだ人々の顔を撫でた。鉄の香り、油の匂い、そして誰かの焦りが潮の間に溶ける。列車の遠い振動が、歩道の木製板を微かに震わせた。線路は、潮騒と同じだけ確かなリズムで刻まれている。
潮の匂いが混じった風が、波止場に並んだ人々の顔を撫でた。鉄の香り、油の匂い、そして誰かの焦りが潮の間に溶ける。列車の遠い振動が、歩道の木製板を微かに震わせた。線路は、潮騒と同じだけ確かなリズムで刻まれている。
蓮は潮騒銃を抱えたまま、群れの縁に立っていた。金属の冷たさが掌を這う。銃身は波の反射を拾って、浅い紺色を帯びている。引き金の前で、掌が一度だけ触れられることを待っている。触れ合う掌が増えれば増えるほど、銃は仲間の意思を受け止め、計画を現実にする。けれどそれは一度きりの約束だ。一人で撃てば、代償は自分の感覚の一部を奪う。仲間の合意を無視すれば、その作用は敵にも及ぶ──味方のためのはずの「共有」が、強制となって双方を縛る。
「蓮、時間がない」茜が低く言った。肩には手製の信号抑制器の入った包帯がぶら下がっている。顔に煤がつき、歯を食いしばっているのが見える。報せを運んだのは朔だ。朔は線路の外側で血染めの手袋を握りしめ、鉄道労働者だった頃の癖で、線路に視線を落としていた。
「列車は三分だ。中央制御の遠隔同期を一度でも崩せば、檻に押し込む速度は落とせる。でも」茜の指が、集まった避難民の方へと向いた。「触れてくれる人が必要だ。銃はその意思を媒体にする。合意のない発動は──」
言葉が途切れた。波止場の向こうで、鉄帽を被った皇国の監察官が腕を振るっているのが見えた。監察官の背には赤い徽章が光り、隊列の先頭を急かしていた。
「皆が手を置けるわけじゃない」朔が静かに言った。「あの徽章がついてる連中は、同意なんかしない。銃だって、無差別に影響を及ぼせば、結果は保障できない」
蓮は潮騒銃の冷たい銃口を見つめた。羊飼いだった頃、自分は鳴き声や足跡を頼りに群れを導いた。風や雨の中で、その耳は群れの一つ一つを聞き分ける感覚を育てていた。それを失うこと──海の囁きを聞けなくなることは、彼にとって自分を形作る大事なものの欠片を失うようなものだ。
だが目の前にいるのは、羊ではない。小さな女の子が、濡れた髪を両手で押さえながら泣いている。彼女の名前はミナ。避難民の中で最も幼く、親は居なかった。彼女は列車に連れ去られれば、選ぶことすら許されない。
「ミナを守れるのか」と蓮は自分に問いかけた。仲間たちの合意を待っている暇はない。監察官の笛が鳴った。列車が近づいてくる。躊躇は死に直結する。
「蓮!」茜が叫んだ。「待って! みんなの意思を奪うのだけは──!」
茜の叫びでも、朔の静かな告白でも、蓮の手は止まらなかった。銃を抱き上げると、彼は銃身に片手を置いた。通常は、共に手を置く掌が増えることで計画の輪郭が固まる。だが今、茜の装置が線路で作業をしている。朔は監察官の目に入らぬように動いている。誰もが自分の仕事をしている。全員の掌が銃を覆うことは──望めなかった。
「すまない」蓮は呻くように言って、引き金に指をかけた。この一度で、ここにいる者たちのために作戦を現実にする。合意を得られなかった者たち──敵にも、その余波が及ぶかもしれない。だが、ミナの顔が頭をよぎった。
引き金が下がる。潮の音が、銃の中で膨れ上がった。文字通り、波が口笛を吹くような音色が空気を裂いた。空気が振動し、海面の光が鋭く揺れる。蓮の胸に、強烈な圧迫が走った。錆のような味が口に立ち、耳の奥がひりつく。
発動の瞬間、世界は二つの波形に分かれた。彼方の線路に沿って、列車の信号が干渉で揺れ、光の順序を失った。数個の車両の開閉システムが誤作動して、扉が開いた。監察官の笛と乗務員の叫びが合わさり、列車は徐行に入った。人々はその隙に逃げ始める。
だが同時に、蓮の思いが言葉にならぬ形で反転して戻ってきた。合意を得ていない発動は、銃の作用を「全体」へと波及させた。敵の制御装置もまた、蓮の描いた計画の一部を受け取った。列車の自動ブレーキは誤動作し、別の車両が加速度を増した。金属がきしみ、焼ける匂いが立ち上った。橋桁の脆い部分が悲鳴のように崩れ、数名の負傷者が出た。
「くそっ!」茜が地面に膝をつき、避難民を引き寄せる。朔は線路へ飛び下り、煙を浴びながら人影を掻き分けていった。蓮は立っていることさえ辛かった。右耳の世界が凍りついたように、海の音だけが消えた。代わりに、銃の残響が頭蓋の内側でぐるぐると回る。羊飼いだった頃に頼りにした微かな風の声、羊の足音、海の夜の囁き──そうしたものが、すっかり消えていた。
「蓮、返事をしろ!」ナツキが叫ぶ。だが蓮は答えられなかった。声は聞こえるが、距離感が狂っている。波の記憶が欠けたことに気づくと、それは鋭い喪失感として胸に刺さった。「何をしたんだ……」という言葉が、やっと口をついて出る。
周囲は混乱のまま、救助と治療が始まった。皇国の監察隊は、騒動を瞬時に報告している。茜が小型の電波探知器を操作すると、画面に赤い点が瞬いた。蓮が引き金を引いた波形は、鉄道の監視網に「残滓」として残る。監視網は、その波形を逆解析し、発射源の座標を割り出し始めた。
「痕跡が残ったんだ」茜が低くつぶやく。その声は震えていた。「単独で発動すると、痕跡が強く残る。やつらは今、正確に我々の位置を拾いに来る」
朔が空を見上げる。遠方で、監察機が上昇を始めていた。蓮の手が何かをつかむ。濡れた金属片が、小さな名札だった。誰かの制服から落ちたのだろう。その名札には、焼き付けられた文字があった──「門標・十一」。
蓮は指先で名札を撫でた。風が、塩と鉄の匂いを運んでくる。耳の中は鈍い。仲間の声は、遠い祝詞のように歪んでいる。だが名札が握る情報は、クリアだった。十一番がどの避難区画を指すのか、蓮にはわかった。それは、鉄道皇国が強制移送を予定している一つの「行き先」だ。名簿のように人の流れを印付ける札──制度の根幹を示す小さな証拠だ。
「これがあれば……」茜の声が震える。知らぬ顔をした避難民の一人が、慌てて袋から紙片を取り出し、そこに書かれた駅名と時刻を見せた。偶然なのか必然なのか、今日の急行が十一番を起点に動くということがはっきりと見える。押し込められる人々の行き先が、具体的に現れた瞬間だった。
朔は蓮の横に来て、肩を叩いた。彼の目は怒りと不安で赤い。「おまえは守ろうとしたんだろう。だが、これでやつらが追ってくる。選択を強制したな、自分の意志で。仲間はそれを許さないかもしれない」
茜は名札を受け取ると、目を閉じて小さく息を吐いた。「でも、これで分かることもある。どこへ連れて行かれるのか、いつ動くのか。制度の輪郭が一枚剥がれた。ただし──」
茜が言葉を切った。上空で監察機が旋回する音が大きくなり、あたりに監視の影が伸びてきた。避難民たちは震え、朔は既に次の行動計画を頭の中で組み立てている。蓮は失った海の音の代わりに、名札の冷たさを掌で感じた。それは小さいが確かな手掛かりだった。
「俺たちには選択がある」朔が低く言った。「ただ、今は二日しかない。十一番の搬送が強行されるのは、二夜後だ」
茜は頷いた。ナツキは背後の群れを見回し、小さな声で「準備だ」と言った。蓮は自分の耳を触ってみる。右の鼓膜は粉を噛んだように鈍く、海の夜は確かに遠い。しかし彼の目