潮騒銃の牧童と鉄道皇国 第25話「第23章」
塩の匂いが夜を裂いていた。線路脇の砂利は冷たく、足の裏に細かい石が食い込む。波のように鳴る潮騒は、遠くの海と鉄の振動のあいだで混ざり合い、いつのまにか一つの歌になっていた。カナタはそこにひざまずき、潮騒銃の胴を両腕で抱え込むようにしていた。金属は思ったより暖かく、指の腹に小さな振動が伝わる。銃口に刻まれた古い羊飼いの紋は、彼の前世の仕事を思い出させるようで、胸の奥に刺さった痛みがじんと疼いた。
塩の匂いが夜を裂いていた。線路脇の砂利は冷たく、足の裏に細かい石が食い込む。波のように鳴る潮騒は、遠くの海と鉄の振動のあいだで混ざり合い、いつのまにか一つの歌になっていた。カナタはそこにひざまずき、潮騒銃の胴を両腕で抱え込むようにしていた。金属は思ったより暖かく、指の腹に小さな振動が伝わる。銃口に刻まれた古い羊飼いの紋は、彼の前世の仕事を思い出させるようで、胸の奥に刺さった痛みがじんと疼いた。
「時間がない」エナの声が砂利を踏む音と一緒に聞こえた。彼女は片手で通信用の小型端末を握り、もう片方の手で避難民の最後尾を指示している。月が薄く、顔は青白く見えた。「敵の先遣がもうすぐそこ。封鎖線を押し切られる可能性が高い」
「こっちの経路が使える時間は、三分が限度だ」ヒロが言い、鉄パイプを抱えて立っている。トオルは投票箱のふたを開け、布で被せた札をちらりと見せた。列に並ぶ人々の表情は、眠りから引き剥がされたばかりのようにまだぼんやりしている。子どもが毛布を握りしめ、痩せた手が震えていた。
潮騒銃は、ただそこにあるだけで周囲の空気の運び方を変える。カナタが手を置くと、金属の冷たさが指先の血管を寝かせ、そこから波のような感覚が全身へ広がる。思考が一本の線に繋がる――彼はこの道具の使い方を知っている。だがその代償も、体で覚えていた。
「全員の合意が必要だ」サユリが言った。彼女は傍らで負傷者の包帯を整えている。声は低く、震えを含んでいる。「この場にいる全員の意思が、ひとつの“作戦”になる。そうでなければ……」
「そうでなければ?」カナタは問い返した。彼は瞳で周囲を探る。線路の向こうに、鉄帽の影が幾筋か見える。皇国の白い反射が潮の匂いに混じって揺れている。
「合意を無視して発動すれば、計画は『共有』から外れて敵にも作用する」エナが短く言う。「それは――演算の拡張だ。敵味方の境界を無視して、場の因果を捻じ曲げる。人を守るはずが、人を傷つけるかもしれない」
カナタの手が潮騒銃の銃把に強く食い込む。記憶がひとつ閃いた。前に一度、彼は追い詰められて一瞬、独りで発砲した。効果は限定的だったが、代わりに彼の聴覚の一部が消えた。高音が消え、世界は遠くなった。それは刃のように仕事をさせるための代価であり、以後彼の耳は潮が鳴る帯域を正確に拾えなくなった。羊を導いていたときに聞こえた風の声が、薄くなってしまったあの感覚。
「一人でやれば、あの痛みが戻る」カナタの声は低い砂利のようだった。「だが皆を置けない。間に合わない」
「投票だ」トオルが言った。「誰も君一人の判断に従うべきじゃない。みんなで決める。それがこの銃の条件でもある」
立ち上がる時間はない。だが選択する時間はある。彼らは簡素な投票箱を回し、札を折りたたんで渡し始めた。カナタは一瞬、かすかな希望を抱いた。だがその希望は、すぐに空気を裂く鋭い音に切り裂かれた。塀の向こうで小銃の撃鉄が落ちる音、鉄の破片が砂利を跳ねる。敵の先遣が思ったよりも速く接近してきたのだ。
その瞬間、思いがけない接触があった。影の中から一人の若い兵士が飛び出し、カナタたちのラインに飛び込む。彼の手は銃を掴むのではなく、潮騒銃の腹に触れた。指先が銀面をなぞる。目が合った。彼の視線には恐怖と迷いと、――怒りも混じっていた。
「止めろ!」エナが叫ぶ。だが彼女の言葉は銃声よりも遅かった。若い兵士の指先が触れた瞬間、潮騒銃は小さく震え、そこから波紋のような光が指の間を走った。場の時間が透けるように、障子の向こうの景色が歪む。
カナタの脳が警報を鳴らす。合意のない接触――それは禁忌だ。彼は腕を振り上げて若い兵士から銃を離そうとした。だがそのとき、若い兵士の顔が急にひきつった。何かが彼の内部で崩れ落ちるように、声が出なくなった。兵士は喉を押さえ、砂に倒れる。そばにいた数人の皇国兵も同様に膝を折った。計画が“共有”の外側へ拡張したのだ。
「やってしまった」サユリが息を殺す。目の下に青い影が生まれる。被害は局所的だったが、衝撃は大きい――合意なしの作用が敵にも及んだという事実が、カナタの胸を締め付ける。守るための武器が、無差別の刃にもなり得る。
「これは……」トオルの顔が引きつる。「どれだけ――」
カナタは咄嗟に引き金に手をかけた。自分がやれば、この混乱を利用して脱出路を作れる。仲間と避難民を一気に送り出せるかもしれない。だが思い出す。独りで撃ったときの代償。耳鳴り、世界の輪郭の剥がれ落ちる感触。羊の鳴き声が消えた感覚。彼はその記憶を身体で噛み締めた。
「ここで決めるんだ」カナタは低く言う。投票箱の周りに群れた顔が、一つずつ反応する。多くは疲れと恐怖で歪んでいる。お蓮(おれん)と呼ばれる年老いた女性が、杖をついてゆっくりと一歩前に出た。彼女の手には、折りたたんだ札がある。しわの深い掌が震えている。
「アタシは……賛成」お蓮の声はかすれていた。だが彼女の眼だけは驚くほど澄んでいた。「皆が生きるなら、それでいい。だが子どもを巻き込みたくはない。計画が誰かの命を踏みにじるなら、アタシは反対する」
投票は進む。賛成、反対、保留。ひとり、またひとりが札を折る。カナタの心ははやる。時間は刻一刻と過ぎる。遠くで、皇国の増援が近づく。砂利の上に小さな爆発の残滓が落ち、鉄片が木製の箱に当たってカチリと音を立てる。音が、カナタの耳に歪んで届く。高域が相変わらず欠けているために、遠近感が狂う。心地よいはずの潮騒が、今日はどこか遠い。
「もし私が一人で撃てば――」カナタは指先を引き金にそっとかける。指先が冷たい。思い出す、前の代価。胸が締め付けられる。だがその前に、エナがカナタの腕を掴んだ。指先の力は硬い。「やめて。みんなの意思を無視するな。あんたが失うのは聴覚だけじゃない。信頼を失う」
その言葉が、カナタの中の何かを止めた。信頼。それは武器の代償とは別の重みを持っていた。彼は振り返り、投票箱に目を落とす。最後の札が、そっと落ちる。トオルが箱を閉じ、手早く数える。声は震えていた。
「賛成多数だ」トオルは言った。「だが三名が保留。お蓮さんの意見を無視できない。投票は合意の過半数を取ったが、この銃の要求は――完全な共有、あるいは直接影響を受ける人の合意のように思える」
そのとき、泥まみれの皇国兵のポケットから、小さな紙片が落ちてきた。砂に埋もれ、血が少しにじんでいる。エナが拾って開くと、そこには印刷された列車のスケジュールと、赤字で「同時収容――拒否権無効化」と書かれていた。手書きの署名と公式印に似たものが押されている。
「拒否権無効化?」サユリが囁いた。その言葉の意味が全員の胸に重く落ちる。皇国は選択を奪う仕組みを用意している――避難民の意思を上書きする計画を、列車運行のカバーストーリーに隠していたのだ。もしそれが起動されれば、彼らの投票など形骸にすぎない。
カナタの指先が、潮騒銃の銃把に強く食い込む。掌の肉が白くなる。耳鳴りが小さく鳴る。すぐそこに、選択がある。全員で決めて銃を使うか、それともカナタが独りで決断し、代償を引き受けて数を守るか。どちらも正しい。どちらも間違いを孕んでいる。
彼