潮騒銃の牧童と鉄道皇国 第10話「第9章」
潮音は線路のすぐ脇の砂浜に腹ばいになり、潮の匂いを吸い込んだ。夜風が磯の匂いを運び、濡れた海藻が黒光りしている。目の前に伸びるレールは月光を受けて銀の帯となり、遠くで海面が小さく光っていた。潮騒銃は彼女の右腕に抱かれ、銃身の一部に古い貝殻がはりついていた。持ち手の木は海水に触れて少し柔らかくなっている。指先で滑らかな刻印を撫でると、かすかに潮の鳴るような音がした。誰かに見せれば「変な楽器」と笑われるだろうが、彼女の身体にはそれが武器であり、約束であり、負債でもあった。
潮音は線路のすぐ脇の砂浜に腹ばいになり、潮の匂いを吸い込んだ。夜風が磯の匂いを運び、濡れた海藻が黒光りしている。目の前に伸びるレールは月光を受けて銀の帯となり、遠くで海面が小さく光っていた。潮騒銃は彼女の右腕に抱かれ、銃身の一部に古い貝殻がはりついていた。持ち手の木は海水に触れて少し柔らかくなっている。指先で滑らかな刻印を撫でると、かすかに潮の鳴るような音がした。誰かに見せれば「変な楽器」と笑われるだろうが、彼女の身体にはそれが武器であり、約束であり、負債でもあった。
「潮音、そっちの枕木は腐ってる。無理に踏むと崩れるぞ」時雨が低くささやく。彼は元線路職員の細腕で、手先は器用だ。薄手の手袋の上からでも馴染むように、彼は鉄の匂いを嗅ぐと安心するタイプだ。
「了解。玉置、信号塔の下の巻線はどう?」潮音は耳を澄ます。遠く、南方から列車のモーター音が微かに伝わってきた。夜の静寂が逆に音を鋭くする。
玉置はフードを深く被り、懐中電灯の光を線路に垂らす。彼の手は油まみれで、工具箱からロープと磁石を取り出した。「こっちの枕木の間に磁石を滑らせて、ブレーキケーブルに引っかける。うまくいけば短時間で車輌ごと止められる。だが、雑だ。人員の判断が必要だ」
莉花が潮音の側に身を寄せる。彼女は避難民代表のひとりで、肩には小さなリュック。避難民たちの顔を思い出すと、彼女の表情が固くなる。「ケンとミコは見張り、時雨はあの信号塔に上がって。玉置は私と一緒に磁石作戦。潮音は…あなたはどうするの?」
潮音の手が潮騒銃に触れて止まる。言葉にしなくても、全員がその意味を知っている――銃を介してのみ、彼女は一度だけ仲間と「共有」した作戦を確実に実現できる。だが、その代償も、条件も骨まで知っている。単独で発動すれば感覚の一部を失い、仲間の合意を踏みにじれば能力は敵にも反転する。彼女は指の陰で銃身を押し、海苔のような甘い匂いを嗅ぎながら記憶の痛みを呼び起こした。
あの日のことが、耳鳴りとともに鮮明に戻る。潮騒銃を単独で引き金にした瞬間、世界が白く弾け、右耳から音が遠ざかった。帰還して数日は風の音がまるで遠雷のようで、味覚もぼやけた。医師が言った。「感覚は戻るかもしれないが、完全ではない。代償は累積する」それでも彼女は、あの日の選択で何人かの命を救った。だから今、もう一度「確実」を買うことはできた。それでも、今ここでどうするか――それは仲間の意思にかかっている。
ケンがそっと頭を出して、遠くの鉄橋を確認する。「列車、もう少しでこっち通る。貨車が先頭のはずだ。長くはない」
時雨が低く唇を震わせる。「ここは停めた方がいい。補給の遅滞だけでなく、皇国の哨戒も惑わせられる。だが、皇国は列車のカバーを厚くしてる。強行は…」
「強行で一番困るのは、誰かが指示に従えないことです」莉花が言う。彼女の声には疲労が混じるが、きっぱりしていた。「ここにいる人間は、命令で動くわけじゃない。自分で選ばなきゃならない」
潮音は銃の捻りを確かめる。引き金は軽い。発動の呪文めいた感覚は、銃が潮の音を真似て呼吸を始める時に訪れる。だが潮音は、引き金に触れない。仲間の顔を見渡すと、誰もが既に小さな決断を始めているのがわかった。
「私、行く」時雨が突然言った。彼は小柄だが、意思は太い。信号塔へ登る決意を口にした。潮音はその小さな声に頷き、時雨の手を握った。冷たい鉄の感触が彼女の掌に伝わる。手のひらに刻まれた古い火傷跡が、今は誇りのように見えた。
「ミコとケンは見張り、合図は私が出す」莉花が続ける。彼女は避難民の顔を思い返し、内心の揺れを飲み込む。「もし捕まったら、皆を助けるために私が囮になる」
玉置がわずかに口角を上げる。「俺は磁石とワイヤーで車輪の軸に引っ掛ける。手先は任せろ。ただし、手が足りない。潮音、銃があるなら合図だけでも。精密なタイミングがいる」
その時、ケンが振り向いた。暗がりでも彼の顔は若く、瞳は好奇心で輝いている。「でも、もし俺たちが間違えたら? 俺たちだけで止められなかったら?」
潮音は銃の側で息を吐いた。耳鳴りがまるで潮の逆流のように、胸に響いた。彼女が言葉を選ぶ。「間違えることもある。私が全部『確実』にしても、代償は増える。誰か一人の犠牲で未来を固めるつもりはない」
「じゃあ、どうするんだ」玉置が苛立ちを滲ませる。「時間がない。列車は来る。選択の余地は…」
莉花が懐から小さな木片を取り出した。そこには避難民たちが書いた簡単な合言葉が刻まれていた。彼女はそれを時雨に渡し、囁く。「合図はこれで。誰かが投げる。見張りが三つに分かれて確認したら、玉置が動く。私と潮音は車輪に近づく。判断は現場で。強制はしない」
潮音はその提案に静かにうなずいた。合図は物理的で、共有されたもので、誰もが拒否権を行使できる。潮騒銃はその「合意」があって初めて最大の力を引き出すが、今回はその必要がないかもしれない。誰かの独断で銃を使えば、たとえ成功しても後味は変わる。敵にさえその力が向けられる危険──その恐れは、彼女の胸にずっとくすぶっていた。
列車のライトが水平線に現れ、海面の光が遮られて銀の帯が強く輝いた。時雨は静かに信号塔に登り、懐中電灯を隠れた位置から懐かしむように操作する。ミコとケンは高台で眼を凝らし、夜の冷気が体に張り付く。玉置と莉花は歩幅を合わせて線路へ近づく。潮音は銃を抱え、影のように二人の後ろをついていった。
作戦は緊張と失敗の連続だった。玉置が磁石を滑らせる際、枕木の腐食が思ったより深く、工具が一つ滑り落ちてしまう。音を立てないために玉置は一瞬叫ぶのを堪え、指先で工具を拾い上げる。彼の手の平が血で湿る。莉花がとっさにハンカチを押し当て、気づけば潮音の指がその手に触れていた。
時雨は信号塔の天辺で古いレバーをゆっくりと引き、外部の電気を切断した。信号が点滅を始めると、列車の速度計器に微妙な狂いが生まれる。だが皇国の列車は頑丈だ。音は大きく、近づく一方で、車輪の影が黒い波として砂浜に落ちる。
最も危険な瞬間は、列車の直前で起こった。貨車の一台が予想よりも速度を落とさずに進んできたのだ。玉置が咄嗟にワイヤーを引こうとした瞬間、枕木が音を立てて崩れ、ワイヤーは車軸に届かなかった。貨車の底からは機械音が唸り、砂が四方に舞う。彼らの胸は凍りついた。
だがそこから、個々の判断が連鎖する。莉花は目の前の小さな砂丘に飛び込んで、列車の前方を人がいると暗示するように大きな袖を振った。その場面を想像して潮音は息を呑んだ。莉花の行動は囮として危険だが、周囲の哨戒が瞬時に注意を裂かれた。その隙にケンが列車の側面に落ちていた古い海藻の束を掴み、車輪近くに投げつける。濡れた海藻は車輪に絡みつき、微妙に摩擦を増やす。
そして、時雨が最後の判断を下した。彼は塔から下りると、老朽化した信号盤の扉を開け、そこに残された古い手動のブレーキハンドルを回し始めた。機構は錆びていたが、彼の力と、玉置が遅れて絡めたワイヤーとが合わさり、車輪の回転はごくわずかに鈍った。列車は完全に止まるには至らなかったが、速度は限界を超えられないほど落ちた。貨車は重く音を立てて砂