灯火斧の観測員と夢見兵団 第8話「第7章」
大きな梁が斜めに突き出した広間を、ミカは手探りで這っていた。床には焦げた紙片と砂の混じった泥がこびりついて、指先にざらついた冷たさが伝わる。鼻を突くのは真新しい燻りの匂いと、誰かが泣きじゃくる声の塊。遠くで、夢見兵団の光柱が微かに唸るように振動しているのがわかった。耳鳴り。心臓の鼓動がそれに合わせて飛び跳ねる。
大きな梁が斜めに突き出した広間を、ミカは手探りで這っていた。床には焦げた紙片と砂の混じった泥がこびりついて、指先にざらついた冷たさが伝わる。鼻を突くのは真新しい燻りの匂いと、誰かが泣きじゃくる声の塊。遠くで、夢見兵団の光柱が微かに唸るように振動しているのがわかった。耳鳴り。心臓の鼓動がそれに合わせて飛び跳ねる。
だが両目が見えている――はずだったのに、視界の左上だけが白く抜けていた。白い円が、そこにあるはずのものを丸ごと消している。腕を伸ばしても、その白の中を手が横切る感覚はあるのに、目には映らない。まるでフレームの一部がカメラに貼られた黒い紙のように塞がれている。ミカはぎょっとして、舌先で乾いた唇を湿らせた。
「ミカ、無理するな!」
ハルの声が近づいた。黒目の大きなハルは立ってミカを見下ろす。彼の目の前で、ミカの白抜けは相変わらず不規則に揺れていた。ハルの眉がピクリと動く。彼の口元には怒りとも不安ともつかない色があった。
「レンは――どこだ?」とミカは問い返す。声がかすれている。
ハルは俯いてから、「北の塔へ向かった。合流地点を無視して単独行動だ。俺たちが止めたのだが、聞かなくてな……」と、言葉を切った。言い訳にも怒りにも聞こえる説明。ミカの胸がざわつく。レン。レンはいつも先に走る。だが今はそれが危うく見える。
背後でカナが慌てて荷物の包みを探っている音がした。包みの布を引き裂く擦れる音、金具の匂い。カナは避難民の一人で、助けを求める時にいつも声を大きくあげるタイプだ。彼女もまたレンの不在を憂いていた。
ミカは灯火斧を抱き直した。柄はまだほのかに温かく、斧の刃先に小さな青い欠片が光っている。先ほど、避難民を現実に引き戻すために灯火斧の力を振るったとき、その温度が手に伝わったのを覚えている。成功の瞬間、群れていた光がしぼみ、ひとり、またひとりと人々が目を真っ直ぐに開いた。けれど直後、見えなくなった。世界はそこだけ穴を空けられたように欠けていた。
「もう一度使うか?」ハルが訊く。声に慎重さが混ざる。
ミカは首を振る。斧が齎した白抜けは、ただの疲労とは違っていた。心の奥で、何かがすり減っていく音がする。触れると、刃の縁からかすかな振動が指先を伝ってきた。使いすぎでもしたら、もっと大切なものを失う――感覚、記憶、誰かの顔。思い出すだけで喉が詰まった。
だがレンが北へ向かったままなら、誰かがそこで食い止めなければならない。塔は、まだ光柱の中でも特に大きく、夢見兵団の「選定」を行う部署があるという噂がある。レンは自分の手で止めるつもりなのだろう。仲間の合意を無視して動く彼のやり方は、何度も組織の足を引っ張ってきたが、今回はその独断が直接的な危険を連れている。
「私が行くべきだ」と、ミカはぽつりと言った。
ハルの顔が真っ青になった。「ダメだ。ミカ、あんたは――」
「見えない範囲があるの、知ってる。だから行くんだ」ミカは言い切った。自分がどうしてそんな決意を持っているのか、自分でもはっきりとはわからない。ただ、レンの足が速すぎるせいで誰かが置いて行かれるのが怖かった。誰かが勝手に英雄を演じて、自分たちの背後に落とし穴を残すのを、もう見たくなかった。
ハルは怒りと恐れが混じった目で斧を見た。「一度しか――」
「わかってる」ミカは息を詰めた。灯火斧は、計画を仲間と共有したときだけ、その筋道を現実にする代わりに働く――という性質がある。だがそれは一度きりの約束でもあり、代償が必ずついてくる。今できることをやるしかない。
ミカは立ち上がった。白抜けの境界が歩くたびに揺れる。足の裏にガラスの破片が刺さり、鋭い痛みが走っても構わなかった。彼女は斧を前に突き出すように持ち、軽く柄を叩いてみる。刃先が微かに振動し、周囲の空気の匂いが変わる。夢の膜に触れるような、羽を擦るような感覚。
やってはいけないことだと、心が叫ぶ。仲間の同意がないまま灯火斧を媒介とすれば、効果は予測できない。仲間の合意を無視した場合、対象は味方だけではなく敵にも作用する、という怖さがある。だが今、レンの位置だけを探せれば、それでいいと自分に言い聞かせた。
ミカは斧を振るような小さな動きで、意識を斧先に乗せた。光がサワッと、片側だけに広がった。だがその瞬間、空気がねじれるような音を立て、近くにいた一人の夢見兵団員の動きが急に変わった。彼は光の中で笑っていたはずなのに、急に表情を硬くし、周囲の蒼い光をこすり落とすように手を振った。目が、急に覚醒したように鋭く光った。
「うわっ!」ハルが後退する。兵団員は、夢の中から引き剥がされたように茫然とし、それから素早く武器を拾い上げて襲いかかってきた。彼の動きは混乱を含んでいて、暴走する機械のようだった。仲間の合意を得ずに斧を使った結果、敵側にも変化を与えてしまったのだ。敵が「目覚めた」――その意味をミカは即座に理解した。効果は味方を救う可能性のある一方で、敵をも別の形で変える。
「撃て!」ハルが叫ぶ。銃声が鳴り、煙の匂いが立ち上る。ミカは咄嗟に斧を胸元に引き寄せ、目の白抜けが広がるのを感じた。今度は左上だけでなく、視界の端がにじむように消え、色の輪郭がぼやける。音の輪郭も揺れ、遠くの声が遅れて聞こえる。斧の代償がまたひとつ、彼女の体を削り取っている。
銃弾が床に打ち込まれ、砂とガラスが飛ぶ。カナの手がミカの腕を掴んで引きずる。「ミカ、ダメ! 今使っちゃ!」と叫ぶ。だがミカはもう振り返る余裕がなく、白く抜けた領域を避けるように、ゆっくりと前へと進んだ。手探りで、避難民の一つの塊――小さな寝袋に窮屈に詰まる子供の足を探す。冷たい小さなつま先を指先で探り当てたとき、ふと、見えないはずの誰かの顔が頭に浮かんだ。見えない部分は、記憶のように補われてゆくのかと錯覚する瞬間があった。だが補完は正確ではなく、誤った輪郭がそこに付け加えられる。ミカは思わず顔をしかめた。
一度、誰かが手を引っ張り、背中を叩いた。ハルの力強い掌の重さが伝わる。「ここは任せて、ミカ。俺たちはレンを追う」。ハルの目が真剣だった。彼は自分で決めたのだ。レンの行動を取り戻すため、自ら塔へ向かうと宣言したのだろう。
ミカはそれを聞いて、自分の胸がぎゅっと締め付けられるのを感じた。信頼と管理の境界線が波打つ。レンの独断は許しがたいが、ハルの選択もまた彼自身のものだ。仲間がそれぞれの意思で動くとき、連帯は壊れもするが生まれもする。自分だけで決めるのではなく、彼らが決める――それがこの場でできる唯一の正解なのかもしれない。
「分かるか?」ミカは、手近に座る年老いた女性の手を握った。女性はゆっくりと首を振り、日に焼けた指先でミカの手を返した。女性は小さな紙切れを差し出す。それは子どもの落書きのような、光柱を笑顔の塔に見立てた絵だった。色鉛筆の粗い輪郭で、人々が塔の周りで手をつないでいる。塔は高くて、そこから光が降り注いでいる。
「これ、子供が描いたんだよ。あの光、守ってくれるって昔は、みんなそう思ってたの」女性がつぶやく。声には哀しみと郷愁が混じっている。ミカはその絵をしげしげと見つめた。光柱は守護者でもあり、誰か