灯火斧の観測員と夢見兵団 第26話「第24章」
潮風に混じった煤けた匂いが、観測塔の鉄梯子を伝って胸に刺さった。足場の合板がきしみ、下方では避難列のざわめきが波のように寄せる。向こう側の空気は薄絵のように揺れ、半透明の幕が人々の顔を淡くぼかしていた。夢見兵団の「薄絵機」が働き始めたのだ。
潮風に混じった煤けた匂いが、観測塔の鉄梯子を伝って胸に刺さった。足場の合板がきしみ、下方では避難列のざわめきが波のように寄せる。向こう側の空気は薄絵のように揺れ、半透明の幕が人々の顔を淡くぼかしていた。夢見兵団の「薄絵機」が働き始めたのだ。
「時間がない」サイが低く言った。瞳の周りに疲労の色が濃い。風切り音の中、彼の銃先が塔の外縁を捉えている。塔の灯りは、灯火斧の柄から立つ弱い残光だけだった。あの残光は、この場所では魔を呼ぶ灯りでもある。
ミカは灯火斧を抱え直した。木の柄は冷たく、皮の紐が指先に食い込む。赫い斧身の先端が薄く発光している。斧は重い。重さが静脈の震えまで伝わる。
「リナ、ここからどうする?」ミカは問いかけた。リナは毛布にくるまったまま、避難民の一人一人の顔を確かめるように目を走らせた。彼女の手は震え、薬瓶が軋む音が聴こえた。
「投票が得られなきゃ、私は――」リナは言葉を切った。避難民代表の小さな集まりが、塔下に置かれた粗末なテーブルで苦渋の選択をしている。彼らの合意がなければ、リナはミカに灯火斧の作戦同意書に署名できない。合意は、リナにとってただの儀礼ではない。彼女は守るべき自律を背負っている。
「待てる時間は?」ミカの声がしわがれた。遠く、薄絵の縁がぴりりと裂けるように動いた。幼い声が引き寄せられるような音を立て、人がひとりふたりと列から離れていく。
「三分。長くて三分」サイが手元の時計を見せる。秒針が冷たく瞳に跳ね返った。
「三分で合意は取れない」ミカは答えた。三分で、あの膜に囚われた人たちを引きはがすことはできない。灯火斧の力はもとより万能ではない。仲間と共有した作戦だけを一度だけ、斧は現実に落とす。合意がなければ――
「一度だけ、だ」ハルトが割り込んだ。彼は汗濡れの額を払うようにして、ミカとリナの間に立った。ハルトの目には何か決意と焦りが同居していた。「合意を待っている間に、子どもが消える。俺はもう、待てないんだ」
ハルトの手が斧に伸びる。皮の紐に指が触れた。ミカはその手を押し止めようとしたが、ハルトは力任せに柄を引っ張った。鉄が軋む。二人の間に短い争いが起きる。サイが割って入り、肘でハルトを押した。小さな叫びが塔内に反響した。
――その瞬間、意味を持たない雑な接触が起きた。柄に触れることだけでは、斧は動かないはずだった。作戦の共有が必要だと、ミカは知っていた。だがハルトの手が斧を握ろうとした瞬間、周囲の空気が詰まり、灯火斧の光が不意に膨張した。
光は音を飲み込む。皮膚の下で鼓動が逆立ち、金属の味が舌を打った。ミカは身体の縦糸がさざ波のように引き裂かれるのを感じた。頭の中に、これまで見聞きした観測図面と、作戦の断片が同時に滑り込む。斧は「一度だけ」の原則に反応し、だが共有は成立していない――その矛盾が生んだ震えが、ミカの中に舞い降りた。
「やめろ!」リナの声が遠くなった。ハルトの手が斧の柄を押し込むように掴んだ瞬間、ミカの左耳が途切れた。世界の音が右半分だけ薄く残り、左側はただの空洞になった。瓦礫が落ちるような低い音が耳の奥に残るだけで、リナの泣き声はそこへ落ち込み、そこで砕け散った。
握力が抜け、灯火斧はハルトの手から滑り落ちかけた。しかし、斧の光は収まらない。薄絵の幕の縁から、光の路が生まれていた。淡いオレンジの道が避難列に向けて伸び、そこを辿るように人々が立ち上がっていく。子どもたちも、まるで何かに導かれるように歩き始めた。膜の引力が弱まり、薄絵越しの人々の表情が戻る。
だが同時に、その光の路は塔の外縁をなぞって、夢見兵団の配置にも伸び、兵団の列の中へと食い込んでいった。そこに立っていた一人の兵士が、手を止めた。銃を構えたまま、まるで思い出すように、自分の指先を見つめる。目の奥に戸惑いが差した。ある者は突如として俯き、命令を確認するための笛を掴み損ねた。
「敵にも――作用してる」サイが呟いた。ハルトの手から漏れた斧は、光を吐きながら地面に刺さった。ミカはその光に吸い寄せられるようにして四つん這いになった。左耳の空洞は、ただ冷たい穴であった。
「違う、違うんだ!」ハルトが叫んだ。彼の顔色は血の色が抜け、震えている。「俺は――子どもを!」
その瞬間、塔下の小さな広場で、避難民の一人が声を上げた。老女の声が驚くほど澄んでいた。「やめて。これじゃあ入れ替わるだけじゃないの。あなたたちの夢が、私たちに押し付けられるのは嫌だ」
ミカは辛うじてその言葉を右耳で拾った。左側は静寂。静寂の中に、灯火斧の残光が鉛色の手で何かを撫でている感触だけが残った。彼女は一度、観測員としての癖で周囲をチェックする。避難列の目は動き、兵士の目が動いた。だがその動きは、以前と違う。選択が、突如として人々の内側に返っている。
「斧が――誰かの意思を無視したから、敵にも働いた」リナは震える声で言った。合意のない発動は、斧の作用圏を曖昧にする。敵味方の区別を溶かし、影響を両側に吐き出してしまう。ミカは、その結果を責めるように自分の胸を叩いた。左耳の穴からは、遠方の波の音だけが薄く流れてきた。
避難民の代表の一人、老人が立ち上がった。指先に泥が張り付き、瞳が鋭い。彼はハルトの方を見て、こう言った。「お前たちは我々の代理で決める――そう言ってきた。自分で決めるのを奪うのと、勝手に決めてやるのと、どっちが悪いか。お前はどっちをした?」
ハルトは言葉を失い、膝をついた。汗が頬を伝い、床板に滴った。彼の瞳がミカに向く。そこには後悔と苛立ちが混ざっていた。「俺は――守りたかったんだ」
守るということの重さが、この瞬間の全てだった。ミカは左耳の欠落に気づかないふりをして頷いた。彼女はかつて、危険な現場で観測の裏方を務め、数字と時間で人々の命を割り出してきた。だが現実は、数式ではなかった。今、彼女は生の声の一方を失った。失ったものは戻らない。
薄絵の膜は、じわりと収束を始めた。灯火斧の光が消え、まだ残る蒼白の路が消えていく。その収束の間に、二つの変化が起きた。ひとつは、避難民の中の選択が、かすかにだけど自律を取り戻しつつあること。もうひとつは、夢見兵団の兵士が、自らの胸の内をちらりと覗き見し、戸惑いを抱えていることだった。
「これで終わりか?」サイが訊いた。声は暗く、だが確かに届いた。ミカは右耳で彼の声を受け止め、答えた。「違う。始まりだ」
ハルトは座り込み、頭を両手で抱えた。リナは布を取り出して、ミカの左耳の穴へと優しく手を伸ばす。触れられると、ミカは胸のどこかが冷たくなるのを感じた。視界の端で、避難民の老人が周囲に向かって小さな紙切れを差し出している。そこに走る文字は簡素だがはっきりしていた。「自分で決める」と。
「あなた、聴こえにくい?」リナが尋ねる。ミカは右耳だけでゆっくり頷いた。「大丈夫。あなたはまだ、聞ける。違う聞こえ方で」
その言葉は、救いとも呪いとも取れる曖昧さを持っていた。ミカは灯火斧を抱える腕を締め直した。斧は静かに地面に刺さり、冷えた金属の感触が掌に伝わる。彼女の中には、冒された空洞が存在する。それでも、周囲の心拍は聞こえる。サイの荒い息、ハ