空洞拳の渡し守と赤道公国 第15話「第13章」
マフラー越しに吐く息が白く、塗装の剥げた金属フェンスは冷たく歯を立てるように光った。レンはフェンスに肘を預け、暗がりの向こう側で回る赤い監視灯の断続的な光を数えた。壁の向こうは第七収容倉。セルタの管理下にある倉庫群のうち、最も警備が手薄と噂される場所だ。だが手薄であることと安全であることは違う。レンはそれを知っていた。
マフラー越しに吐く息が白く、塗装の剥げた金属フェンスは冷たく歯を立てるように光った。レンはフェンスに肘を預け、暗がりの向こう側で回る赤い監視灯の断続的な光を数えた。壁の向こうは第七収容倉。セルタの管理下にある倉庫群のうち、最も警備が手薄と噂される場所だ。だが手薄であることと安全であることは違う。レンはそれを知っていた。
「レン、行けるぞ。行き先の誘導はこっちで取る」——無線越しにハヤトの低い声が届く。ハヤトの望遠鏡アイピースに反射する赤い点の位置が、彼らの行動予定を示している。ミオが脇で、針を刺したように細く息を吐いた。
「でもカメラ二台はまだ回ってる。カズマはどうする?」ミオの囁きに、金属と油の匂いが混ざる。レンは右手で空気の振動を指先で確かめるように触れ、策を練った。
「カズマの遮蔽弾でひとつ潰す。俺が空洞を落として、三組に分かれろ。ミオは最初の扉、ハヤトは屋上の通路、カズマは機械室。合図は――」レンは言葉を切った。合図の代わりに、手のひらを自分の胸に当てた。それが彼らの“同意”だった。触れることでしか共有できないものが、今は命綱だ。
だが合図は全員から帰ってきているわけではなかった。セラの単独行動チームは別ルートを取ると報告していた。セラはいつもそうだ。最も合理的な選択をして、最も孤立する。だが彼女の決断はレンたちにとって既知の不確定因子であり、今回はそれが響くかもしれないとレンは思った。
倉庫への潜入は、夜の音を全て吸い込むようだった。足裏に伝わる鉄板のざらつき、パイプの継ぎ目を這う冷たい湿気。監視カメラの赤い瞳が遠ざかり、途中で消えると、息をつく間もなく扉の前に着いた。ミオが扉のコード錠を撫で、金属音を器用に外していく。中からは、低いすすり泣きと、子どもらしい小さな鼻の鳴る音が漏れた。
「居る。三十名近いかもしれない」ミオの指先が震えた。レンは目を細めてその影を数えた。重苦しい雑然とした影。彼らは人間であり、番号札ではない。レンの胸の中で何かが針を刺されたように疼いた。
「行動開始」レンが言うと、チームはばらけて動いた。ミオは中へ、カズマは裏口へ。レンは空洞拳の発動準備を整える。空洞拳は拳を空ける術だ。拳の中心を“空洞”として息を吸い込み、媒介にする。そこに仲間の合意を載せると――一度だけ、共有した作戦を現実へと押し出すことができる。だがその力は厳しく制約されていた。共有がなければ使用はできない。共有の合意を無視すれば、効果は敵にも作用する。単独で使えば、返しとして感覚の一部を喪う。
レンは拳を握り、掌の軸の一点を冷たく感じながら、合図を待った。
だが、無線がバチッと割れた。ハヤトの声が寸断され、代わりに断続的なノイズが流れる。外部の妨害だ。レンの目の端に、赤外線ランプがちらつき、屋上で新しい影が動いた。セラのチームが、予定にない機動で監視塔へ向かったのだ。
「くそ……!」ミオが耳元で叫んだ。言葉は音にならない。そこに残るのは顔の表情だけ。レンは手の甲で無線機を擦り、セラへの問い合わせを試みたが応答はない。
時間は薄く切れていく。中の人々の心臓の鼓動が、レンの喉を跳ねさせる。彼らを出すためには、今すぐの道を作らなければならない。空洞拳は一度きりの賭けだ。レンは拳を内側へしぼった。空洞を作るために、肺の奥が冷たくへこんだ感覚を追った。合意の数が自分の胸の中で鳴るはずだった。だがその確認の音は、夜の妨害に掠れていた。
「――ええい!」レンは拳を押し出した。合意の輪が完全ではないことを知りながらも、彼の背中にいたものは叫びだった。空洞拳が解放されると、空気そのものが引き裂かれたような音が倉庫内を走った。真空の風が短く咽喉を掻く。レンの右耳の奥で高い鐘の音が鳴り、その後に金属的な音が抜け落ちた。
「――!」ミオが顔をあげ、救いを求める目をレンに向けた。だがレンには彼女の声が届かない。耳の高音部分が切れて世界が遠くなった。音の輪郭がなくなり、存在は視界の揺れにのみ残る。レンは初めて、自分が術の反動を受けていることを知った。単独で放った反動は、彼の聴覚の一部を奪ったのだ。
だが空洞の効果が現れた。壁の一部が、まるで水に溶けるかのように歪んで消え、そこに幅のある抜け道が生まれた。狭い通路を介さず、倉庫の中心まで一気に届く道。レンはその光景を目で追い、ミオは先頭に立って子どもたちの方へ駆け出した。歓喜の叫びが視覚で踊る。レンは口元をすぼめ、声を出して指示を送る。だが彼の声は音の輪郭を失い、仲間には届きにくくなっていた。
奇妙なことが起きた。空洞が広がるにつれて、中の人間たちの動きが噛み合いはじめた。仲間は計画通りに出口へ向かう。だが同時に、倉庫の向こうで監視の兵士たちも、人工的な速度で同じ方向へ向かった。レンは目を見張った。空洞拳は、同意を得た仲間の行動を“一度だけ現実へ縛る”力だ。だが合意が完璧でなかったために、その波は近隣全ての意志に触れ、他者の意思へも干渉したのだ。セルタの兵士たちは、それぞれ自分の目的を持ったまま、同じリズムへと引き寄せられていく。
「退路、確保しろ!」ハヤトの黒い影が屋上で身を翻す。その弾道で、カメラの一つが煙を上げて落ちた。カズマは機械室から出てきて、四駆の荷台に人々を乗せ始めた。だが一方で、セルタの班長が救出の隊列を割り込み、強引に何人かの年端の行かない女性と数人の男を引き戻した。彼は交渉材料として彼らを押し出し、無線で大声を上げた。車のライトが一斉に灯り、中庭に人質の列が作られる。
ミオが一人の子どもを抱きかかえ、顔を近づけて唇を動かす。レンはその唇の動きを読もうとするが、音はやはり届かない。視線の外で誰かが銃を構え、火花が散った。子どもの肩が赤く滲む。レンは口から言葉が出そうになるが、詰まった。聴覚の欠落が、判断の速度を鈍らせる。
作戦は半分成功した。多くが救われ、倉庫の扉から外へ運ばれていく。だがセルタは犠牲者を盾にして交渉を始めた。スポットライトが救出隊を白く切り取り、セルタのスピーカーからは低く太い声が流れた。「武器を降ろし、手を上げろ。でなければ、ここにいる者たちを傷つけるぞ」。交渉は公開され、次第にメディアのように周囲へと広がった。レンはその声を視覚で追った。人々の顔、光に浮かぶ血、握りしめられた手の震え。音がない世界で、すべては映像だけで語られた。
レンは胸の奥に小さな、しかし鋭い後悔を感じた。空洞拳は彼にとって最後の橋であり、仲間の合意はその橋を支える杭だった。だが今、その杭は不完全だった。合意の定義を曖昧にした結果、セルタは救出の瞬間を利用して、残る人々を取引材料に変えた。彼らは救われた。だが救われたことが、そのまま交渉の駒になるという、二重の重みが現れたのだ。
救出の混乱の最中、カズマが何かを拾い上げた。レンは視線を向け、ミオのほうへ回り込む。カズマの手にあったのは、小さな黒い装置だった。外観は子どもの玩具ほどの大きさだが、表面には薄い刺繍のような金属文字が入っている。セルタの事務コード。カズマがそれをひっくり返すと、内部で小さく緑のライトが点滅していた。
「何だこれ?」ミオが指先でそれをなぞる。装置