空洞拳の渡し守と赤道公国

空洞拳の渡し守と赤道公国 第14話「第一部幕間」

潮の匂いが混じった夜風が、渡し場の簡素な屋根を叩いた。ロープが軋み、小舟の底板が繰り返し波に触れては離れる。岸には毛布にくるまった避難民たちの輪ができ、子どもが小さく震えながら母の腕に寄り添っている。遠方、赤い監視灯が海面に筋を引き、冷たい回転音が波間の暗を切り裂くように聞こえた。

潮の匂いが混じった夜風が、渡し場の簡素な屋根を叩いた。ロープが軋み、小舟の底板が繰り返し波に触れては離れる。岸には毛布にくるまった避難民たちの輪ができ、子どもが小さく震えながら母の腕に寄り添っている。遠方、赤い監視灯が海面に筋を引き、冷たい回転音が波間の暗を切り裂くように聞こえた。

レンは岸際に腰を下ろし、濡れた掌を見つめた。掌の中心にある黒い空洞が、月光を吸い込むように奥深く沈んでいる。そこには冷たさと密度だけがあり、触れるたびに胸のどこかが疼いた。

「今夜は動くべきか」と、カイが小声で言った。通信機の光が淡く彼の顔を照らす。髪が湿り、顎に潮の粒子が張り付いている。カイの目が泳いだ。計器のログには、監視ドローンの飛行経路と、灯台の自動巡回パターンが断続的に映っていた。

ミオは毛布を肩に引き寄せ、レンの真正面に座った。手には縛り切れなかった救急包を抱えている。医師としての筋肉が疲弊しているのがわかる。彼女はレンの掌を一瞥し、低く、はっきりと言った。

「一回で全部、ってわけにはいかないのよ。あなたが今持っているのは――可能性じゃなくて代価。感覚を失うって言ったでしょ。しかも、合意がなければ、効果は予測不可能になる」

レンは息を吐いた。黒い穴の縁に指先を擦らせると、ひんやりとした振動が返ってきた。合図の仕方はいつも簡単だった。共同の作戦を口にし、全員がその目を見て同意の声を出す。声の重なりが空洞に触れ、計画が一度だけ形になる。だが「一度だけ」は何度も頭の中で鳴る。今ここで使えば、避難民全員を一度に運べる。翌朝、再配置局の巡回が来る前に。だが代価はレンのものだけではない。合意を形成できないと、効果は敵にも作用するという戒めがあった。

ユリアが立ち上がり、輪の中央へ歩み出た。薄手の上着の胸に、子どもの手形が墨で押されている。彼女の声は震えながらも、強く通った。

「私たちはここで止まってはいられない。家族がいる。子どもたちを失うわけにはいかないの。レン、お願い、今夜」

遠くで子どもが咳き、誰かが鼻をすする音がする。ユリアの目には決意の光だけが残っていた。その光を見たレンの胸の奥が締めつけられる。合意を得るための時間など、もうほとんど残されていない。

「皆でやるって約束が必要だ」とカイが言う。「一人の決断で道が開いても、敵の側にも影響が行く。監視システムにその『隙』が渡ったら、次は俺たちが受け取る。偵察任務の連中が、何が起きたのかを解析する手間が省けるだけだ」

ミオは冷たく笑った。「解析する時間も与えないで脅すのね。つまり、あなたは『全部賭けろ』と言ってるの?」

カイは喉を鳴らした。「いや……状況判断だ。だが同意が得られないなら、俺たちの作戦は分散するしかない」

言葉と沈黙が交互に来る。避難民達の小さな集まりは、批判も意見も出せないので、ただ不安で膨らんでいった。レンは掌の空洞に手をかざし、考えを切り替えようとした。しかし、黒い点に視線を固定するたびに、過去の光景が滑り込んでくる。前世で橋を渡らせた時の感触、初めて空洞拳が応じた時の喧騒と歓声――それらが混ざって、今の重さを増している。

「一度だけだ」レンは、かすれた声で言った。「一度だけで、みんな一緒に……でも、合意が必要だ。全員の声が届かなければ、俺が引き受けるには代償が大きすぎる」

ユリアは唇を噛んだ。彼女の手が震え、子どもの布団をぎゅっと抱きしめる。その仕草が、レンの胸をさらに締めつけた。彼は立ち上がり、岸まで歩いていった。波の匂いが濃くなり、夜の冷気が皮膚を刺す。小舟の上に乗り込むと、古い櫂が冷たく手に馴染んだ。

誰かの同意を得るために、彼は一つの試みをするつもりだった。合図の声を得られないまま単独で触れて、代償を確かめる。もし感覚の一部を失っても、僅かな欠損で救える命があるなら、それを選ぶ――レンはそう思った。自己犠牲はこの手で、何度も選んできた。だが同時に、合意を無視してしまったら何が起きるのかを、彼は心のどこかで恐れてもいた。

櫂を握る手が空洞に向かって伸びる。黒い穴は微かに震え、指先に冷たい圧を返した。レンは目を閉じ、唇を噛んでから胸の中で計画を息に乗せる。だがその瞬間、カイの声が背後から届いた。

「レン、待て!」

声が届いたのは確かだ。だがそれと同時に、海の向こうで明滅が走った。赤い監視灯とは違う、短い白い閃光が二度、三度。次の瞬間、島の北側にある小さな灯台のランプが急に明るくなり、その光が直線的にこちらを照らした。監視ドローンのうち一機が、ルートを変えてゆっくりとこちらへ降下してくるのが見えた。機体の金属音が夜空に金属的に振動した。

レンの掌から、音が遠ざかった。世界が音の膜を一つ失ったように、波の接触音と人々の呼吸が薄くなっていく。彼は櫂を握る感触を急に失い、指の感覚が冷たく抜け落ちる。ミオの悲鳴が遠く、歪んで聞こえる。ユリアの「何だって……」という声は、まるで布越しに聞いているかのようにぬめり、距離を持って迫ってきた。

「だめだ!」ミオが叫んだ。レンは初めて、自分が単独で触れた場合の代償を体験していた。感覚の一部が、文字通り手から離れていく。心拍の確認ができない。櫂の冷たさが掴めない。子どもの脈を確かめようとしても、指先はガラスのように滑り、接触が確からしくない。

そして、最も不可解なことに――敵の側の動きが、有利になったように見えた。ドローンは明らかにこちらを目標として修正し、灯台も巡回速度を上げて完璧な照準を組んでいる。合意なくして起こった作用は、敵の監視に「情報」を与えたように働いた。空洞拳の禁忌の一つが、こうして証明された。

レンは海面に拳を押し付け、力だけで音を取り戻そうとした。だが戻らない。数秒のうちに、避難民の一人がフラッシュライトで照らされ、逃げ惑う影が二つ、三つと踊る。銃声はまだ聞こえなかったが、誰かが岸辺で膝をつく音、誰かの泣き声が近づく。カイが機械に手を伸ばし、暗号のようなキーを激しくたたいている。

「レン、返して。感覚を戻してくれ!」ミオが懸命に懇願する。

レンは力を振り絞り、空洞に逆方向の意思を向けた。声にならない声を出し、共同という言葉を心の奥底で叫んだ。掌の黒い穴がほんの僅かに波打ち、冷たさが逆流するのを感じた。指先の抜けた感覚が、少しずつ帰ってくる。だが戻ったものは、かつてと同じではなかった。右手の指先の微細な触覚は失われ、熱と冷たさが判別しにくくなっている。耳鳴りが残り、潮騒の高低も少しずれている。

岸にいる誰もが、重い静寂の中で互いを見つめ合った。ユリアの目には涙の光があったが、震える唇は言葉を求める代わりに沈黙を選んだ。

カイが渋い顔をして顎を押さえると、小さな袋を手にして岸に近づいた。それは、誰かが届けた偽造の文書だった。紙の端は新しく、官印の痕は精巧だった。封筒には「再配置局・仮保護命令」とだけ書かれている。開封すると、中には明日の夜明けを期限とする日時録と、巡回船の到着予定が詳細に記されていた。発行者の名前の下にある署名は、セルタという者のものに見えた。

レンは震える手で紙をめくり、カイの顔を見る。カイの瞳は暗かった。

「明日