噴火槍の鍵師と雲上連邦 第15話「第13章」
風が切り裂く音は、もう稜音の耳に届かなかった。左耳の遠い方から、薄い布越しに聞くような、ぼんやりとした低い振動だけが残っている。噴火槍は両手の中で震え、黒光りする金属の柄に触れるたびに微かな熱が皮膚を刺した。空の向こうには雲上連邦の偵察機が低く旋回し、機体の影が崩れ落ちた渡り廊下と避難テント群に断続的な暗い斑を落としている。
風が切り裂く音は、もう稜音の耳に届かなかった。左耳の遠い方から、薄い布越しに聞くような、ぼんやりとした低い振動だけが残っている。噴火槍は両手の中で震え、黒光りする金属の柄に触れるたびに微かな熱が皮膚を刺した。空の向こうには雲上連邦の偵察機が低く旋回し、機体の影が崩れ落ちた渡り廊下と避難テント群に断続的な暗い斑を落としている。
「稜音、時間がない!」ジュンペイが右肩越しに叫んだ。彼の顔は煤で汚れ、血の筋が口元に乾いているが、瞳はまだ冷静だった。医師のミサは、担架の上で震えている子ども、トウヤの額に手を当てて体温を確かめ、目を上げた。「合意を取らないとだめ。あの槍は……」
稜音は黙って拳を固めた。噴火槍は媒介である。触れられた者同士の意思が槍に刻まれ、刻まれた共同の作戦が一度だけ、物理と意図を重ね合わせるように具現化する。だが彼は知っている。前に一度、誰にも許可を取らずに――自分だけで――使ったとき、左の世界から何かを失った。音の輪郭、それが薄く、遠くなった。あの代償を二度は背負えない。心臓の奥に小さな氷の棘が刺さる。
「全員の合意、だれか一人でも欠けたら、効力は敵にも及ぶ」アイリが低く言った。彼女は手際よく周囲の避難民を見渡し、二つ折りのメモ帳を片手で押さえている。彼女の視線は常に先を読む。稜音は、その言葉の重みを自分の身体で感じた──仲間の承諾を無視すれば、作用は向こう側にも波及する。敵も巻き込まれる、あるいは敵として働く。結果がどうなるかは、いつも不確定だ。
「それでも、ここで待っていたら連邦が収容部隊を投入する。あの子を置いていけるか?」ミサが呟いた。トウヤがうめき声を上げる。石の破片が周囲で弾け、空には焼けた匂い。稜音は拳を握る。
彼は噴火槍の柄に軽く触れて、決断を早めるための呼吸を一つ取った。掌に伝わる振動は、まるで人々の心拍を拾っているかのようだった。合意を集めるには時間が必要だ。だが時間はなかった。偵察機が毛のような影を落とし、地上の兵が静かに降りてきた。それは接収の合図だ。
「やるなら今だ」ジュンペイが前に出た。「俺は同意する。稜音、触れろ。合図を出すから、その瞬間に皆で動くんだ。支柱を同時に持ち上げる、一瞬のタイミングで通路を作る!」
稜音は何かを言いかけて口を閉じた。合意を得る──それはただの肯定の声ではない。見返りの無い他者の意思を尊重する儀式だ。槍に触れる前、彼は避難民の一人、弓井の方を見た。年老いた男の目は恐れと決意を交互に揺らしていた。
「わたしは……」弓井はしゃがむようにして口を開いた。「何度も奪われてきたよ、選ぶ権利を。だが、ここにいる若者たちにまた押し付けたくはない。あんたたちのやり方は……信じられるかはわからない」
その瞬間、稜音の中で何かが固まった。力を無理に使えば、弓井の拒否も巻き込んでしまう可能性がある。敵も巻き込まれる。銃の金属音が、束の間だけシンクロして響いた。稜音は体の内側で冷たい汗を感じた。
「押し付けない、弓井さん。選ぶのはあなたたちだ」アイリが彼の横で声を張った。彼女は短く説明するように、手を差し伸べた。「触れて、手をあげるだけ。賛成するなら、そのまま手を槍に置いて。反対なら手を下ろす。決めるのはあなたたち、僕たちは結果に従うだけ」
弓井の指先が震える。周りの避難民がそれを見つめる。稜音は思い切って槍の先端を地面に突き刺した。黒い先端が砂を染め、金属と大地が摩擦する匂いが鼻腔に入った。槍からはほのかな光の筋が伸び、触れた手の間に静かな電気のような振動が走る。
「今だ」ジュンペイが言った。彼は槍に手を添えながら、小さな機械音で合図を送る装置を起動した。合図のビープ音が、稜音の聞こえにくい耳にもかすかに伝わる。瞬間、誰かが叫んだ。
――やめろ、と。
それは弓井の声ではなく、外側から飛んできた短い命令だった。雲上連邦の中隊長が無線越しに叫んだものだ。だがその声が届いた直後、稜音は自分の意識の端で歪みを感じた。槍が、合図を受けて微かに膨らむように光を濃くし、触れた手から手へと光の糸が伸びた。
その瞬間、視界の端で二人の連邦兵が、不可解な速度で動いた。彼らの動きは周囲の同調運動と重なり、まるで誰かの手で操られる操り人形のようだった。兵士の一人は銃を構えると、協力で持ち上げられていた鋼板目がけて発砲した。弾が食い込む音、破断する金属、そして悲鳴。ジュンペイが短く叫び、トウヤの背中にかけていた布を掴む手が滑った。
「幻覚じゃない、槍が――!」ミサが叫び、目を丸くした。稜音は慌てて手を引こうとするが、手首を通じて槍の微振動が指の奥に残り、離せなかった。その刹那、稜音は理解した。いま一部の避難民の合意が得られていないまま発動させたことで、作用は敵側にも及んだ。敵の身体が同調し、結果的に状況はより危険になっていた。
「中止!」稜音は絞り出すように叫び、全身の力を使って槍を地面から引き抜いた。光の糸が切れ、兵士たちの動きが跳ね返るように乱れた。空気の張りが一瞬で解け、弾が宙をさまよって落ちていく。幸運にも人的被害は最小限に留まったが、崩れかけた通路の一部が滑り、トウヤの肩を薄く切った。
呼吸が早くなる。稜音は震える手で自分の胸を押さえた。聞こえないはずの音が頭の中で反響していた。あのときの代償の記憶が、生々しくよみがえる。もし彼が本当に合意を無視して強行していたら、敵の動きを利用され、もっと多くの死者を出していたかもしれない。
「危なかった」アイリが吐き出した。目は怒りに燃えているが、同時に冷や汗を垂らしていた。「無理にやろうとするなって、何度言えば――」
ジュンペイは唇を噛んでいた。「すまない。焦った。だが、あの子らを……」
弓井は静かに立ち上がった。老人の手には土まみれの木の杖が握られている。彼は稜音の方を見つめ、少しだけ微笑んだ。「あんたが嫌だって言っても、私は文句はない。だが、今日はお前らに賭けてみるよ。若いもんが諦めねえなら、ここで俺も手を貸そう」
その決断は静かだったが、重い。弓井が槍に手を伸ばし、他の避難民もゆっくりと集まっていく。賛成の手が増えるごとに、槍がそっと暖かくなるのを稜音は感じた。合意が整う。効果は、今度こそ正しく働くだろう。
「皆、一度だけだ。最短で動く。子どもを中心に、腕を添えて一気に持ち上げる。踏ん張れない人は私たちが支える」稜音は短く指示を出した。言葉は簡潔で、誰もが従った。手が槍に触れ、光の糸が再び伸びる。今回は違う。全員の意思が同じ方向を向いていた。
合図と同時に、空気が固まり、筋肉が同調した。金属と木と人差し指が一つのリズムで引き合う。稜音は自分の体を通る力を感じたが、耳の欠落は以前と同じ場所に残っており、彼は音ではなく振動でタイミングを取った。周りの手と体が一体となり、重い橋桁がゆっくり、しかし確実に持ち上がった。隙間ができる。ミサがトウヤを引き出し、ジュンペイと他の若者が班になって引っ張る。鉄と汗が混じった匂い、手先に伝わる冷たさ、短い悲鳴とそれを超える歓声。稜音は目に涙を溜めた。
作戦は成功した。だが瞬間の歓喜は長く続かなかった。上空から小さな閃光が落ち、偵察機が