万華鏡砲の補給士と箱舟財団 第5話「第4章」
朝霧綴は眼を開けると、光が二つに裂けて届くのを感じた。天井の裸電球はいつもより暖色で、隣のベッドに並んだランタンの橙が淡く波を描く。だが綴の視界の周縁だけは、瞬間的に色が抜け落ちている。まるで絵から切り取られた部分のように、灰色のベールが自分の胸のあたりから外へと広がっていた。
朝霧綴は眼を開けると、光が二つに裂けて届くのを感じた。天井の裸電球はいつもより暖色で、隣のベッドに並んだランタンの橙が淡く波を描く。だが綴の視界の周縁だけは、瞬間的に色が抜け落ちている。まるで絵から切り取られた部分のように、灰色のベールが自分の胸のあたりから外へと広がっていた。
「お、起きたか」
田辺リコの声が遠くから聞こえた。言葉ははっきりしているのに、距離だけが妙に近く、耳に直接触れない。綴は手を伸ばし、寝台脇のテーブルに置かれた缶コーヒーを掴む。缶の金属が冷たく、指先に微かな振動が残る。聴覚の一部が抜け落ちていると医師に言われたのは、ほんの数時間前のことだ。生活音の輪郭がぼやけ、会話の高音域だけが欠けている。鳥のさえずりはすべて消え、遠くで誰かが笑う振動だけが胸を震わせた。
「聞こえるか?」と海斗が尋ねる。いつもは乱暴に投げかける彼の息づかいが、今は柔らかい。リコが間に入って、海斗の肩に手を置く。
「大丈夫。ここの私たちは綴が居てくれれば、他はなんとかなるって知ってるから」
綴は作り笑いをして首を振った。喉を鳴らすだけで音が出ないのが厄介だ。万華鏡砲――彼らがそう呼ぶ装置のことが脳裏を横切る。あれはただの銃ではない。鏡とガラス屑を組み合わせたような砲身が、意図を通わせるための媒介だった。彼自身がそれを触れ、仲間の思いと合わさると、共有した作戦を一度だけ「成る」ものに変える。成功は暖色の光景で報われ、代償はいつも綴の身体に課される。昨夜の夜間補給はまさにそれで、避難民の列はやっと食糧を受け取れた。しかし代償は聴覚の一部だった。
扉を叩く音がして、外で話し声が上がる。箱舟財団の訪問者だ。彼らは透明性を掲げて地域に入り込み、物資の配分や記録の検査をする。綴は目を細めた。訪問者が来ると、必ず何かが変わる。表の言葉は慈善だが、その裏に「選ぶ」ための手順がひそむことを、仲間たちは口にしないまでも感じていた。
「監査官、箱舟財団です。記録の確認を──」桐生という名の男が、にこやかな声で部屋に入ってきた。彼の背広は整っていて、胸に差した小さなバッジが光を反射する。桐生は書類ケースを開き、平らなタブレットを差し出した。デジタルの一覧表が滑らかにめくられる。透明だ。誰が何を受けたか、どの経路で来たか、受給の日時まで明確に並んでいる。村人たちの不安を和らげるには十分な資料だった。
だが、桐生の横で動いた若い監査官の手が、サイドポケットから別のフォルダを落とした。動作は慌てていて、フォルダは床で開いた。綴の目が訳もなくその中に向かった。紙の端に、太い黒の活字で「優先選別リスト(試行)」と書かれているのが見えた。綴はそれを避けるように視線を逸らすが、リコが動いてフォルダを拾い上げた。彼女の顔が一瞬、硬くなる。
「なにこれ……」リコは小さな声を漏らした。綴は彼女の言葉を完全には拾えなかったが、彼女の顔の暗さが全てを語っていた。
桐生は慌てて歩み寄り、笑顔を整える。「あ、それは内部資料でして。一般公開はしておりません。管理上の誤配です、恐縮ですがお返しを——」
リコはフォルダをしまおうとしなかった。代わりに彼女は皺くちゃの紙を開き、指で何行かを追う。そこには、数字とイニシャル、そして優先度を示すマークが並んでいる。優先度の下に、"A: 支援即時配布"、"B: 一時再配置要"、"C: 保護検討"とある。Cのグループは具体的な理由がつけられていた。病気による収容、家庭問題──だが欄外には見慣れない単語がひとつ、「経済的リソース最適化」と添えられていた。
「これって……誰かを選別するための基準だよね?」海斗が声を出した。彼の声はいつもより低く、重かった。綴はリコの横で拳を握りしめる。聴覚の欠落が、怒鳴り声を遠ざけるが、拳の握り返す圧は現実を裏付けた。
桐生の笑みが薄くなる。周囲の村人たちが集まってくる。監査は口元を引き締め、低い声で言った。「優先順位の最適化は、支援の公平性を保つために不可欠です。我々は透明な方法で、最も助けを必要とする人に手を差し伸べます」
だが綴は、透明な言葉の裏に透明でない何かを感じていた。昨夜彼が成したことも、箱舟財団の望む退路を作っただけではないか。誰かが手を伸ばすための場所が、別の誰かの存在を無視して決められている。綴は不愉快な予感を胸に収めた。
その時、無線機の高いビープ音が部屋を切り裂いた。避難所の外から緊急の合図だ。画面には赤い点が移動する。東の臨時ルートで、避難民を乗せた輸送車が箱舟財団の巡回部隊に阻まれている。車列は停止し、パニックの色が差し込む。子供の泣き声、指笛の音、命を繋ぐために必要な選択を迫る声。綴は目を閉じ、身体の底から何かが欠けたような感覚を確かめる。あの一度の成功は、また必要だと言っている。
「使うべきだ」リコが即答した。「私たちにできるのは、今助けることだけ」
「駄目だ」海斗が首を振る。彼は昨夜の代償を見ている。綴の耳のそばにある灰色のベールを見て、決められない。彼は補給士の孤独な役割を理解していて、同時にその代償を恐れている。「綴を壊すことになったら、救えるものも救えなくなる」
綴は二人の顔を見比べた。万華鏡砲を使うには、仲間の合意が必要だ。彼らが一つの計画を共有し、意思を合わせる。合意は力の媒介となる。だが今、まとまらない。海斗は綴の代償を恐れ、リコは可能な限りの命を助けたい。時間は少ない。子供たちの声が無線越しに切迫する。
選択は彼の手にあるように見えた。過去に彼は一人で使ったことがある。あの時は、誰にも同意を取らなかった。目の前の現実を優先し、万華鏡砲を引き金に引いた。結果、計画は「成った」。だがすぐに気づいたのだ。合意なしに作動した能力は、片側にだけ働くわけではない。効果は均等に広がり、敵対する者——箱舟の巡回部隊にも同じ歪みを与えた。彼らの隊列もまた、提示された図――ルートの開廊(かいろう)を手に入れ、待ち伏せを仕掛けていた。あの夜、綴は聴覚だけでなく、身体の一部をさらに奪われた。代償は正確で無慈悲だった。
綴は拳をさらに強く握った。灰色のベールが胸を冷やす。彼の心は乱れていた。使えば一瞬で何かが成る。だが同時に、他者もまたその恩恵、もしくはその害を享受してしまう。合意のない使用は、彼の意図を裏返す。
「綴、どうする?」リコの目が潤んでいる。無線の赤い点はさらに近づいてきた。子供の咳と、成人の短い命令が交錯する。
綴は立ち上がった。身体がふらつく。暖色の光景は彼の周りでは色鮮やかだが、胸の辺りだけは冷えて灰色が濃くなる。彼は背中のバッグから小さな機器を取り出し、万華鏡砲の砲床に触れた。冷たい金属が指先に伝わる。砲身のガラス片が僅かに共鳴し、室内の光が万華鏡のように屈折した。
「合意を取ろう」綴は小さく言った。海斗の口が開き、リコの肩が動く。だが三人目の声、ミアの声だけは即時の肯定を示した。ミアは子供たちの救助班を率いる女性で、彼女の瞳には決意が宿っている。だが合意はまだ完全ではない。海斗は唇を噛んでいた。
「俺は反対だ。綴の体はもう限界だ」海斗の瞳が真剣だ。「もしお前が一人で決めてしまったら——」
綴は