万華鏡砲の補給士と箱舟財団 第4話「第3章」
机の上の地図は、蛍光ランプの白に照らされて、紙のシワまで誇張されて見えた。細い線で描かれた路地と川の曲がり角に、佐伯蓮が手描きで重ねた代替ルートが赤いマーカーで引かれている。蓮の指先はインクで黒く染まり、地図の端を軽く押さえたまま、呼吸を整えている。向かいには遠藤澄が座り、手の甲で額の汗をぬぐった。倉庫の奥、万華鏡砲は布にくるまれたまま横たわり、布の隙間から覗く表面は、薄暗い光を受けて淡く模様を浮かべていた。
机の上の地図は、蛍光ランプの白に照らされて、紙のシワまで誇張されて見えた。細い線で描かれた路地と川の曲がり角に、佐伯蓮が手描きで重ねた代替ルートが赤いマーカーで引かれている。蓮の指先はインクで黒く染まり、地図の端を軽く押さえたまま、呼吸を整えている。向かいには遠藤澄が座り、手の甲で額の汗をぬぐった。倉庫の奥、万華鏡砲は布にくるまれたまま横たわり、布の隙間から覗く表面は、薄暗い光を受けて淡く模様を浮かべていた。
「ここを塞がれたら、元の通りに戻すのは一日じゃ無理だ」と遠藤が低く言った。声は震えない。避難所で日々信頼を集めてきた人間の口調が、静かな重さをもって部屋を満たす。
伊藤カナがペンを置いた。彼女の指先に残る油の匂いが、倉庫の乾いた空気に混じる。「だからこそ、リスクを分担する必要がある。誰が先に出るんだって話よ。誰かが囮になって、他の奴らは動く。単純よ」
葛西トオルの顔に影が落ちた。肩幅のある男は腕を組み、椅子をきしませた。「俺は囮になんてならねえ。もう十分だ。俺たちは守る側だ、使い捨てになれるやつばかりじゃねえ」
「使い捨てなんかにしない」と澪は言った。静かだが固い声音で、言葉に揺れはない。結城澪。補給士としての手つきが、細部に表れた。彼女の掌はいつも油と紙で荒れていて、その匂いがここにも残る。澪は地図に手を伸ばし、万華鏡砲の方をちらりと見た。布の端が少し揺れる。彼女の腹の奥に、冷たい決意が沈んでいる。
「方法はある。共有して、――一度だけ、作戦を現実のものにする。俺が指揮して、ルートを一回通す。物資二台分を確保する。だが条件がある。全員の合意と、役割の明確化。合意が欠ければ、発動は危険だ。正しく手順を踏めば、成功確率は高い」
澪の声は平常心を装っているが、指先は微かに震えている。佐伯が地図に蛍光のラインをなぞるように指を置き、言葉を挟んだ。「合意の儀式はきちんとやろう。俺が通信を掃く。カナが車を横付けして、遠藤さんが避難所に滞在者を呼び止める。トオル……」
トオルが強く嗤った。「結城、お前はそれを何度も言うが、"合意"ってのは言葉じゃ決まらねえ。実際に手を出すのは誰だ? いつも口先だけで人を安心させて、決断は他人に押し付ける」
部屋の温度が一拍上がった。蓮が両手を床につけ、薄い息を吐いた。「トオルさん……それは違う。俺たち、皆で決めるって約束しただろう」
遠藤が両手を合わせ、ゆっくりと立ち上がった。「怒鳴っても仕方ありません。澪さん、手順をもう一度。誰がどのタイミングで動くか、どうやって連絡を取るか、――具体的に」
澪は地図を広げ、すっと立ち上がった。指先で赤いルートをなぞりながら、細かな注意点を挙げる。路地の電灯は不規則に点き、監視カメラが薄い黒い目を転がす区間がある。路面の陥没、橋の老朽化、――それぞれタイムスタンプと作業時間を算出して、澪は声に出す。
「私が前線の合図を出す。合図は三段階。第一は"移動開始"、第二は"迂回完了"、第三は"デポ確保"。触覚の同期はこことここで行う。全員が地図に触れて合図を唱え、意思を確認する。私が装置を起動して作戦を実働させる。これで一度だけ、"共有された作戦"として現実が揺らぎ、最短で通行が可能になる」
澪の言葉の後、倉庫の空気が振動した。万華鏡砲の布が小さく波打つように見えた。佐伯の目がわずかに細くなり、蓮は唇を噛んだ。合意の儀式が持つ重みが、彼らの背筋を伸ばした。
「確認したいのは、代償だ」とトオルが言った。「お前が言ってる"代償"ってのは具体的にどういうことだ。噂では、使った奴は何かを失うって――俺たちはそれを了承できるのか?」
澪は俯いた。掌の下で地図の紙の繊維がざらりと擦れる感触がした。彼女の喉を小さな声が通る。「一部の感覚を失う。視覚、聴覚、嗅覚、どれかが欠けることがある。回復する者もいれば、永久に色を取り戻せない者もいる。代償はシビアだ。だからこそ、私はできる限り慎重に運用しようとしている」
遠藤が息を吸った。「それでも、勝るべきものがあるなら、選べるはずです。私たちは皆、避難所の人々を守りたい。それを優先するかどうかは、各自の意思。誰かを強制してはなりません」
だがトオルは首を横に振った。「強制しなくても、それが"誰かが使ってくれる"って前提は傲慢だ。いつも犠牲者は同じ顔ぶれだ」
言葉は冷たく、空気は鋭く裂ける。蓮の手が震え、ペンが床に落ちる。カナが顔をしかめ、立ち上がって井戸端のように二人の間に割って入った。
「怒鳴り合っている暇はない。外が騒がしいって聞いてないの?」カナの声は高く、目には焦りが滲む。「後ろの通りで、財団の押収車が回ってるって。遠藤さん、さっき渡した補給の番号を見せてくれない?」
遠藤は小さく頷き、ポケットから折り畳んだメモを取り出すと、震える指でページをめくった。紙の端に押された赤い印章は、この倉庫の溶けかけた灯火の中でもくっきりと見えた。箱舟財団——その三文字を見た瞬間、誰もが息を飲んだ。
外の音が倉庫の扉越しに届いた。低いエンジン音、無線の断続的な断片、そして未確認アナウンスがメタリックに響く。「周辺住民の皆様に告ぐ。未許可の物資は法により押収される。協力がない場合、強制措置を取る」
声は冷たい。選択を剥奪する制度の、機械的な口調だった。澪の爪先に血の気が下り、掌に冷たい汗がにじんだ。
「時間がない」と蓮が言った。「ここで決めないと、彼らがルートを封じる。俺たちの用意している二台はもう動いてるはずだ」
澪は窓の外を見た。通りには二台の箱型車両が停まり、黒い制服の男女が素早く段ボールを開けている。財団の腕章が月光を受けて鈍く光る。何人かの避難民が群れを作り、罵声を投げるが、制服の声がそれをかき消した。強制は既に始まっている。
「やるなら今だ」とカナが言った。「合意がどうこう言ってる場合じゃない。避難民がこのまま何もできずに見てるってのが一番まずい」
トオルの視線が澪に向いた。「お前はどうしたい? 俺は反対だと言った。だが、動くべきだという意思がここにある。俺は……俺は皆を守るためなら動くが、無理はしない。だが、お前が責任取れるのか?」
澪は深く息を吸い、手を地図に置いた。佐伯とカナ、遠藤――三人の手が自然に彼女の周りに集まる。掌が紙と紙の間を温める。誰もが一瞬、目を閉じ、唇を噛む。合意の手続きが、ここにある。だがトオルの手はまだ空にある。空気の濃度が変わった。
「トオル、来てくれ」澪の声は静かだった。「来てくれないなら、私は――」
言葉はそこで途切れた。トオルは硬い表情でかぶりを振った。「お前に俺をそう簡単に動かせるとでも思ってるのか。自分の代償を人に押し付けるな」
その瞬間、澪の背中の奥で何かが跳ねた。胸のあたりが冷たくなるような感覚。万華鏡砲の布が、わずかに震えた。澪は手に汗を感じながら、目を閉じて祈るように指先を動かした。合図の言葉をつぶやく。だが合意は完全ではない。全員が手を置いていない。トオルの不参加が、針のように澪の心臓を突いた。
「澪、やめろ」遠藤が急に叫んだ。「合意がないと危険だと――」
叫びは届かなかった。澪の意志はもう動き始