万華鏡砲の補給士と箱舟財団

万華鏡砲の補給士と箱舟財団 第2話「第1章」

雨はまだ、町の骨組みにこびりついたようにしつこく降っていた。紺野燈は濡れた毛布の端を器用に巻き、缶詰のラベルを指先でなぞった。指先には補給士の癖が残っている──賞味期限でなく、匂いの立ち方、缶同士の音の違いで箱の中身を知る。前世で危険な現場を支えた「補給士」という肩書は、この体でも自然と出る。誰かが喉を鳴らすだけで、どの棚から何を渡すべきかが浮かんだ。

雨はまだ、町の骨組みにこびりついたようにしつこく降っていた。紺野燈は濡れた毛布の端を器用に巻き、缶詰のラベルを指先でなぞった。指先には補給士の癖が残っている──賞味期限でなく、匂いの立ち方、缶同士の音の違いで箱の中身を知る。前世で危険な現場を支えた「補給士」という肩書は、この体でも自然と出る。誰かが喉を鳴らすだけで、どの棚から何を渡すべきかが浮かんだ。

「ミナト、こっちのパンはやわらかいから今だよ。おじいちゃん、薬は──」燈が声をかけると、十歳ほどの少年は小さな手で包みを受け取った。佐伯清と和子は互いに目を合わせて、小さな笑みを返す。河合司は手袋に薬を詰めながら、古い時計のように疲れた顔をしていた。ここが彼らの避難所だ。廃工場の倉庫の一角、薄いブルーシートが屋根代わりになっているだけだが、燈はそこに秩序と「配給の行列」を築いていた。

「外から声がするぞ」佐伯清が窓のすり切れた板の隙間から覗き込み、硬い声を上げた。雨音の合間に、低い機械音と、やけに澄んだ女の声が届く。

「ここは箱舟財団管理区域。違法物資の保管を確認、立ち入り検査を実施する。避難施設の指名登録を提示しない者は移送対象とする」

箱舟財団──表向きは安全配給を謳う組織だが、燈はその冷たい合理性を知っている。配給の権利を「登録」と「信用点」で分配し、人々の選択を制度で縛る。燈が守るべき人々は、登録用の端末も信用点も持てない者ばかりだった。

入口にライトが回り、数人の検査員が濡れたコートをはためかせて入ってきた。統制された制服、胸には箱舟の紋章。指揮をとるのは薄い青いコートの男、柊田透。顔は若いが、眼は冷たい。

「皆さん、物資を提出してください。記録がない物資はすべて押収し、保管所へ移送します。登録対象者の確認を──その子供は未登録ですね。移送の手続きを開始します」

ミナトが顔を引きつらせた。河合はとっさに前へ出て、「待ってください。ここには怪我人がいる。薬を配っているだけです」と声を張ったが、柊田はペンを振るだけで門を閉めるように促した。

燈の掌は、倉庫の脇に隠していた小さなハンドルへ伸びていた。布に覆われたそれは、見た目は古い光学器具の一部に過ぎない。万華鏡砲──そんな名前をつけたのは仲間だ。中枢は多面のプリズムと薄い銅のリングが幾重にも組まれた筒で、外側には地図や住所を示す小さな接点がついている。補給士はいつでも「どこに何を送り込むか」を考えている。万華鏡砲は、それを一度だけ「現実化」するための道具だった。

だが条件があった。燈はこれを皆に何度も説明してきた。

「作戦は、私たちが同意して共有したときだけ完全に機能する。合意の儀式をしよう。ホログラムがみんなの住所と配給先を結ぶ。皆が手を置いて、声で確認して」

「それ、ずるい仕組みに見えないか?」河合が低く言った。「一回きりっていうのは…」

燈は首を振った。「だからこそ、慎重に使う。私一人で暴発させたら、代償が大きい。前にそれをやって──」燈は言葉を切った。目の前の缶を指で弾くと、冷たい音が響き、湿った空気が鼻腔に流れ込む。あの日の匂いだけは忘れない。

数ヶ月前、燈は一人で万華鏡砲を使った。小さな橋が崩れる瞬間、民を救う方が先だと判断した。実行した瞬間、体の奥から何かがそぎ落とされた。帰り道、彼女は火の匂いを感じなくなった。料理の匂いも、洪水の湿り気も、誰かの汗の匂いも──世界の匂いが薄くなり、心細さが残った。それが「単独使用の反動」だった。以後、彼女は二度と独りで使わないと誓った。

「準備は──皆、いいか?」燈は手を伸ばして布をはがした。寒色のプリズムが雨の光を受けて、万華鏡のように室内を小さく割った。河合が戸棚の地図を取り出す。佐伯が震える手でミナトを抱き寄せる。全員が地図に触れた。

「同意します」一人、また一人。声が少しずつ合わさる。それは合意のための言葉であると同時に、逃げる決意の宣誓でもあった。燈は目を閉じて皆の住所が映る薄い光を感じた。地図上の点が小さな光の糸で結ばれていき、プリズムの中で図形が変わる。万華鏡砲の銃口が静かに震え、低い共鳴音が床に伝わった。

柊田が前へ出て、その動きを止めようと腕を伸ばした瞬間、燈は引き金を押した。万華鏡砲は、名前の通り、光の礫をばらまくように射ち出した。光は倉庫の角を撫で、棚を通り抜け、缶詰箱と毛布と古い車椅子が一瞬だけガラス細工のように分解され、次の瞬間には消えた。そこにあった物資は、地図の糸で指定した小さな隠し場所へと「移送」された。青白い光が雨を抜け、一時的に視界に万華鏡の模様を残した。

検査員たちは驚いて後ずさった。柊田の顔に初めて焦りが浮かぶ。だが喜びは長く続かなかった。燈の左耳が一度、金属音のように鳴り、世界は瞬間的に遠のいた。声が濁り、遠くなる。床板の振動は手のひらには伝わるが、周囲の小さな会話はかき消される。彼女は自分の心臓の鼓動を、耳鳴りの下で数える。

「燈! 大丈夫か?」河合の声が近い。おそらくだが、燈はその語感を断片的にしか受けとれない。これが反動だ。共鳴音が脳の中で振幅して、聴覚の一部を奪う。単独使用ほどではないにせよ、代償は確かに存在した。

「効いたのか?」佐伯が呻くように言う。ミナトはまだ震えているが、配られたパンを大事そうに抱く。

柊田は端末を取り出し、悔しげに画面を叩いた。彼のコートのポケットから別の女が入ってきて、短い通信が交わされる。柊田の目付きが切り替わる。

「記録は残る。合意の痕跡も、操作も、こちらで捕捉した。箱舟財団はこれを放置しない。あなたがたの『共有』は、もう少しで――」彼は言葉を切った。背後から別の車のライトが濡れた路地を照らす。大きな音を立てて門が閉まる気配がする。

「どういうことだ」燈は息をつく。声の輪郭が定まらず、言葉を繋げるのに時間がかかった。河合がすぐさま近寄り、燈の肩を押さえて名字で呼んだ。聴覚が戻るのを待てる余裕はない。箱舟財団は、ただ物を奪うだけではない。情報と記録で人々を網にかける。

柊田は冷たく言った。「君たちの物資は移送されたが、登録されていない者の居場所は『不確定』として報告する。彼らには手続きが必要だ。移送対象の優先順位に基づき──あの子は名簿に上がっている。優先移送対象だ」

言葉はナイフのように沈んだ。ミナトは柊田の声を聞いて顔色を失った。河合が怒鳴り返そうとしたが、燈が手を上げて制した。耳鳴りの中で、彼女は選ばなければならないことを知った。彼女にできるのは、箱舟の記録を壊すことではない。目の前の命をどう守るかを決めることだ。

それまではただ一つ、確かな事実が残った──万華鏡砲は一度の共有で結果を作り出したが、それによって箱舟財団にこちらの存在が露見した。次に来るのは、物理的な力だけでなく、制度と記録による追跡だ。燈は指先で残った布を握りしめ、仲間たちを見渡した。佐伯は震え、河合は白く、ミナトは膝を抱えて唇を噛んだ。

「どうする?」河合の問いに、燈はゆっくりと口を開いた。耳はまだ遠いが、決意は明瞭だった。「ここで待っていては、安全じゃない。箱舟が来る前に、私たちが次の行き先を選ぶ。私が先導する。けれど──」燈