万華鏡砲の補給士と箱舟財団 第1話「序章」
缶詰の蓋が固くて、指先の皮がめくれた。朝の光は薄く、灰色の布をついだテントたちを淡くなぞるだけだ。私は息を止めて、リストバンドの番号を確認し、次の列に配る配給品の数を数えた。左手の掌は油でべたつき、右手の甲には前世の名残のように硬い瘢痕が二つ並ぶ。危険な現場で物資を回した記憶が、時々こうして肉体の感覚に紛れ込んでくる。
缶詰の蓋が固くて、指先の皮がめくれた。朝の光は薄く、灰色の布をついだテントたちを淡くなぞるだけだ。私は息を止めて、リストバンドの番号を確認し、次の列に配る配給品の数を数えた。左手の掌は油でべたつき、右手の甲には前世の名残のように硬い瘢痕が二つ並ぶ。危険な現場で物資を回した記憶が、時々こうして肉体の感覚に紛れ込んでくる。
「ユウ、そっち三箱減らして。幼児分はここで調整する」真弓(マユ)が声をかける。彼女の声にはいつもどこか冷たい計算が混ざっているが、目は避難民の子どもたちを探していた。逸樹(イツキ)は通信機を顔の近くに押し当て、キャンプ外の通報を繋ぎ替えている。三人でやる補給作業は、戦場のどんな補給線よりも神経を擦り減らす。だが今日の空気は、いつもよりさらに重い。
それが来たのは、足音ではなく、空の切り裂かれるような金属音と、遠くに鳴る機械の指令声だった。黒い制服、胸に銀の舟を刻んだ徽章。箱舟財団の徴発部隊が、補給路の入り口で隊列を組んだ。指揮官が手をあげると、動きは機械のように揃い、私たちの列に向かって封鎖の網を張った。
「ここでの徴発は許可されている。供給物資は全て検査の対象だ」隊員の声は冷たかった。声の波に混ざったのは、銃床が板を叩く音と、嬰児の泣き声。それは、私の胸を直接掴んだ。
「このキャンプは民間だ。避難民の分は残してください。食料は病人がいないと、子どもが……」私は言葉をつなぐ前に、自分が何を言っているか、どんな数値を持つかを計算していた。だが隊員の一人が歩み寄り、鋭い目で私を見た。
「検閲書類を出せ。持ち場の者――」隊員が書類を手に取ろうとした瞬間、後ろのテントから叫び声が上がった。子どもを抱えた母が引き裂かれそうに必死で走り寄る。徴発隊は手を止めず、しかしその一瞬の迷いが周囲の緊張を増幅させた。
逸樹が何かを呟いて、私たちの方へ走ってきた。「ユウ、無理だ。あいつらは補給路を封じるだけじゃない。移送だ、連行するつもりだ」
真弓は顎を引き、私の目をまっすぐ見た。「合意が必要だ。万華鏡砲は——」
その名を言うと、テントの周りの空気がひりつく。万華鏡砲。私が抱えるもの。人を守るための道具として、あるいは最後の賭けとして、私はずっとそれを封印していた。普段はただの古い器具、補給車に仕込まれた装置でしかない。でも、あの砲口から放たれる光は、仲間と共有した作戦を一度だけ現実に引き寄せる。だが条件がある。味方の合意がなければ、その効果は誰にでも作用する。さらに、単独起動は反動を呼び、感覚の一部を失う代価を払う。
「合意がないと、敵にも作用するんだろう?」真弓の声は小さく、それでいて確かだった。
「そうだ」私は答えようとした。だが近くの老人、長谷川サトが片腕を前に出して私たちを止めた。「やめろ。盗人に等しいことをしてどうする。あいつらを刺激すれば、子どもを盾に取られる」
その言葉に群衆がざわめく。母親は子どもを抱えて床にしゃがみ、小さく震えている。徴発隊の一人が手を伸ばし、白い手袋でタグを剥ぎ取るようにして幼児の腕のバンドをつかんだ。私は時間を見た。息をする間もなく、決めなければならない瞬間が来た。合意は整っていない。だが手を止めれば、少なくとも今の列の中の十人が、その場で連行されるだろう。
「ユウ!」逸樹の声。彼の目が私を見ていた。真弓も、そして老いた長谷川も。三つの意志が、私の心を揺らす。合意を取るために時間を使えば、多くを失う。無視して発動すれば、効果が敵にも及ぶかもしれない。私が使えば、確実に代償は来る。
私は砲を引き出した。外套の中に隠したマズルは冷たく、金属の継ぎ目が冷淡に私の掌を撫でる。周りの空気がわずかに歪んで、風の匂いが金属臭に変わる。砲口を子どもの背中に向けるつもりはない。だが使用の合図は、共鳴する合意の声だ。私は小さな声で言った。「避難路、開く。今ここを開ける」
誰の同意もなく、私はトリガーに指をかけた。引き金を絞った瞬間、世界は破裂した。
砲口から放たれたのは光の花びらだった。花びらは宙を舞い、風に乗ることなく、一枚一枚が空間をなぞっていく。色は——花びらというにはあまりにも人工的で、虹彩にも似た幾何学模様が合わさり、そこから戦術図が現れた。光の花弁が重なり合い、遮蔽物のライン、隊列の動き、そして天候の揺らぎまでもを一瞬で計算したように、地面に虚像の通路が描かれていく。
その通路は透明で、しかしそこを踏む者には踏み出す理由が与えられた。人々は混乱の中で一斉に動いた。徴発隊の光学センサーが暴走するようにちらつき、隊列は瞬間的に乱れた。子どもたちは母の手を掴み、避難路の光に導かれて走った。私はそれを見ながら、胸の奥が焼けるように熱くなるのを感じた。救えたのだ。確かに救えた。
しかし、それと同時に反動が来た。最初は耳鳴りだけだった。高く、遠くで鈴が鳴るような音。次に世界の一部がスリットのように抜け落ちた。赤が消えた。血の赤、夕焼けの朱、子どもの頬の熱。無くなったわけではない。そこにあるはずの色が、私の視界からまるごと抜け落ちたのだ。代償の痛みが全身を走る。指先の感覚が遠くなる。顔の右側が薄い膜で覆われたように感じる。
「ユウ!」真弓の声が遠く、冷たく響いた。私の視界はモザイク状に砕け、辺縁がぼやける。避難民の中の一人が私に手を伸ばす。皺だらけの手は、赤くない色の服を引き寄せた。色の喪失は、私にとって世界の輪郭が失われることを意味した。だが耳は、まだはっきりとあることを伝えた——道は開いた。人々は動いている。
徴発隊の指揮官が私の方を睨んだ。その瞳には、万華鏡の残像が映り込んでいる。彼は何かを呟き、通信機を押した。私は聞き取れなかった。だがわかった。彼らはこの砲の働きを見た。今、私たちは目立つ存在になった。
「何をした、あの補給士は」指揮官の声が近づく。徴発隊は再編成し、私たちの列を追うように動き出した。効果は一瞬で消えはじめ、虚像の通路は粉々に崩れていく。私の胸の中が冷たくなる。代償は確かに払われ、同時に代償の後に波及が残った——彼らは我々の何かを持ち帰る。使ってしまった。合意はなかった。私は単独で発動したのだ。
人々が逃げる中で、ある小さな手首が私の前で留まった。赤が消えた視界で、金属のタグが鈍く光っている。その表面には、箱舟の紋章――小さな舟の刻印と、数字の組み合わせが刻まれていた。子どもの母親が泣きながらそれを握る。徴発隊の一人がそれを目ざとく見つけ、素早くそれを指先でつまんだ。
「これは特別物資の識別タグだ」隊員が低く言った声が、私の耳に刺さる。彼はタグをひっくり返し、すらりとした文字列を見て、誰かに報告した。私はまだ視界の一部が欠けたまま、その文字をはっきりと読めはしない。だが、刑の匂いのする規則性が、私を凍りつかせた。箱舟財団は、単なる物資の徴発だけをしているわけではない。何か——目的を持って、それを持ち去っている。
逸樹が肩越しに囁く。「あのタグ、ただの識別じゃない。箱舟が手を伸ばすものには刻印をする。これは……選別の跡だ」
私はタグを奪い返そうとした。だが手が震え、腕の感覚は薄い。真弓が私の腕を掴む。「ユウ、