万華鏡砲の補給士と箱舟財団 第18話「第16章」
夜の風が、縫い合わされたテントの外皮を鳴らした。雨粒が油のように光るランタンの薄い輪郭を撫で、遠くには箱舟財団の巡回ドローンが規則正しく白い目を瞬かせている。テントの中は消毒薬と汗の匂いが入り混じり、血の匂いがどこかに残っていた。
夜の風が、縫い合わされたテントの外皮を鳴らした。雨粒が油のように光るランタンの薄い輪郭を撫で、遠くには箱舟財団の巡回ドローンが規則正しく白い目を瞬かせている。テントの中は消毒薬と汗の匂いが入り混じり、血の匂いがどこかに残っていた。
「脈、まだある。呼吸も浅いけど安定してる」
黒瀬蜜(くろせ・みつ)が手袋越しに高田航太(たかだ・こうた)の首筋を探り、そう報告する。コウタは塔から滑り落ちたときの打撲で意識が朦朧としている。顔色は灰色で、額には渾身の泥が固まっている。
長谷川玲(はせがわ・れい)は包帯束を素早く撚り、抗生物質の小瓶を注射器に詰める。補給士としての手際は無音の信頼を生む——場所に応じた縫合糸の種類、注射の角度、テーピングの張力。彼女の指先は訓練で細く、無駄がない。手が触れるたび、コウタの震えが少し和らいだ。
「ありがとう、れい。薬、効く?」
コウタの声は砂を噛んだように掠れていた。
「まだ様子見。出血は止まってる。骨折は専門に見せないとだけど、今は撤収のほうが先」
玲は包帯を固定すると、ストックから温布を取り出して額に当てた。温布の熱が、冷え切った肌にじんわりと浸透する。
テントの入口が小さく風に揺れ、源綾(みなもと・あや)が顔を突き出した。彼女は作戦の端緒をいつも握るタイプだ。外の空気は冷たく、巡回の灯りがランダムに通り過ぎる。
「偵察から報告。財団の歩哨隊が一時間後にこちらへ向かってくる。遮断は完了していないが、増援を呼べる通信はもう持たれてる。塔を押さえられたのが痛い。今のままだと半日で我々の位置は知られるよ」
「塔は取り返したんじゃなかったのか?」黒瀬が問い返す。彼女の指先にはまだ消毒薬の泡が残っていた。
「取り返した。航太が上がって、回線を繋ぎ直した。だが——」綾は唇を噛んだ。「塔にはバックアップのトランスミッターがあって、箱舟側にもブランチが残っていた。結果として相手にこちらの応答時間と逃走経路を晒した形になる。向こうはデータを解析して封鎖ポイントを絞ってる」
玲はそっとテントの隅に置かれた筒を見た。万華鏡砲。黒い金属の外殻に、覗き窓のように埋め込まれた多面鏡が暗赤色に光っている。彼女はその表面に指の跡をつけないように、無意識に手袋の掌で触れた。
「使う?」綾の声が低くなる。外の雨音が一瞬、やや大きくなる。
「条件がある」玲は言葉を選んだ。「砲は補助だ。単独で撃てば、という噂は本当だ。感覚の一部を失う。あと――」彼女は目を朋友に合わせる。「誰かの意志と合意を介して、ひとつの作戦だけを『実現』する。それがこの砲の仕組み。味方全員の合意がないと、効果がどう転ぶか分からない。合意を無視したら、敵にも作用する」
黒瀬の顔が引き締まった。綾は小さくうなずき、言葉を足した。「だから、使うなら包括的に。避難民にも説明して、全員の同意を取る。そうでなければ……混乱の中で敵側にまで作用して、もっと悲劇を生む」
「私はそれを、よく知ってる」コウタが、うめき声混じりに目を開けた。彼の片目は血に染まり、視界は狼狽している。「れい、俺が上で見た。塔の光をいじられてるのを。奴らは情報で、人を操る」
「だから、使うべきだって言うのか?」綾が問う。
テントの外で、低い機関音が一度だけ鳴った。財団の巡回車列だろう。声や音が小さな振動となって、テントの帆布を透かして伝わる。
玲は万華鏡砲に手を伸ばしかけて止めた。物理的に触れるときの、冷たさ。彼女は思い出した。以前、誰かが単独でその砲を使った夜のことを——耳鳴りと光の裂け目。奴は翌朝、片耳の聴力を失っていた。名前は出さなかったが、その代償は彼女の胸に刻まれている。
「全員の合意を取る時間はないかもしれない」黒瀬が言う。「避難民の中には、砲を恐れる者もいる。あの光が人を変えるって、そう言う人もいるし」
綾は外のランタンを見つめ、決断を速めた。「二つの選択肢だ。合意を取るために時間をかけて、全部隊をまとめてから砲を使うか。もしくは、れい、君が単独で使う。どちらも代償がある。どちらを選ぶか、ここで決めよう」
玲の心臓が一拍、重くなる。補給士としての本能がまた別の声を立てる。弾薬の残量、包帯のストック、輸液の残り時間。救える命の数を瞬時に計算した。砲は一度火を通せば、再装填には長い時間が必要だろう。塔を守っている彼らを無力化できるかもしれないが、使った後の玲自身の機能はどうなるのか、そこまでは予測が及ばない。
「コウタは同意できるのか?」玲は訊いた。
コウタは苦笑した。「同意はする。嫌でも、俺はもう十分に死にかけた。仲間を守るなら──同意くらいできるさ」
その返答は一瞬だけ、安心を生んだ。しかし、綾が首を振る。「彼が同意したとしても、避難民全員の同意が必要だ。彼らの選択権を奪ってはならない。箱舟が奪ってきたのは、まさにそれだろう?」
外の音が一層、鋭くなる。巡回隊が近づいている。灯りがテントの帆布越しに白い円を描いた。
「なら、全員に説明して回る。れいはここで、航太を見てくれ」綾は立ち上がり、外套を引っかける。「私が避難民のテントを回る。黒瀬、通信器のチェック。お前は弾薬と薬を最終確認して」
玲は頷き、注射器の針先を曲げないように注意しながら、コウタの呼吸を測る。彼女は補給士の役割を全うする。砲を持ち出すのは仲間全員の合意が得られてからだ。
綾が外へ出て行き、帆布が戻ると、玲はコウタの手を握った。指が汗ばんでいる。彼の瞳はうつろだが、微かに芯が残っている。
「れい、お願いだ」コウタが小さく言う。「使ってくれ。仲間を、ここの人たちを守るなら――」
その声は遠くて、けれどはっきりしていた。玲は胸の内で何かが揺れるのを感じる。補給士は物資だけでなく、時に判断の重荷も運ぶ。彼女は包帯でコウタの眉間を押さえ、黙って口を開いた。
「いい。私たちが全員の合意をもらってから使う。あなたの同意も、ここにある。だが、もし合意が得られなければ……私は砲を撃たない。その代わり、今夜の撤収計画は私が立てる。物資の分配、負傷者の搬送路、安全な角地の確保。私に任せて」
コウタは微笑んだ。瞼の縁に濡れた光が溜まる。「れいがいるなら、信じる」
綾と黒瀬が戻るまでの間に、静かな作業がはじまった。玲は単独で薬包を分割し、傷の応急処置を施し、重い箱を背負っては消耗品を配った。彼女の手は冷たさを知らず、動きは正確だった。補給士としての熟練が、その場の流れを作る。人々の不安は物資の確保でいくぶんか沈静した。
しかし、同意を取る時間は短かった。綾が戻ると顔色が真っ青だった。
「合意はほぼ取れた。だが一人、どうしても断固として同意しない者がいる。避難民のリーダー、春野(はるの)だ。彼女は砲を『支配の象徴』と呼んでいた。拒否の理由は強固だ」綾は重い息をついた。「それに、外で――」
言葉はそこで切れる。外から近距離の爆発音がテントを震わせ、帆布が激しく揺れた。灯りが一瞬消えかけ、テント内部は暗転した。誰かが悲鳴を上げ、機材が擦れる音が増幅する。
「侵入だ!」綾が叫ぶ。
外側の帆布が勢いよく開き、財団の制服を着た数名が銃をかまえた。