万華鏡砲の補給士と箱舟財団 第16話「第14章」
砂利を踏む音が、振動になって胸骨を叩いた。鉄の匂いが混じった冷たい風が、橘零(たちばな れい)の頬を撫でる。対岸の街路をすれ違う箱舟財団の護送列が、夜明けの灰色を切り裂きながら進んでいく。先頭の装甲車の側面に刻まれた徽章さえ、この距離では鉛色の斑点にしか見えなかった。
砂利を踏む音が、振動になって胸骨を叩いた。鉄の匂いが混じった冷たい風が、橘零(たちばな れい)の頬を撫でる。対岸の街路をすれ違う箱舟財団の護送列が、夜明けの灰色を切り裂きながら進んでいく。先頭の装甲車の側面に刻まれた徽章さえ、この距離では鉛色の斑点にしか見えなかった。
「三分切った。計画どおりにいくか?」と、紅羽(くれは)が小さな立体ディスプレイに指を滑らせる。液晶の光は指先を青く照らし、小さなノイズが鼻にくすぐった。
零は万華鏡砲の砲床に手を置いた。冷たく、わずかに振動が伝わる。柄のように見える透明な結晶板群が、数えきれない層で重なっている。表面にはまだ微かな油膜が残っていた。手のひらに伝わる冷たさは、彼にとって安心できる実在性の合図であり、同時に暴力の装置であることを思い出させるものでもあった。
「ミナ、避難民通路は確保できる? 子どもたちの避難地点に流れる動線を描いておいてくれ」零は低い声で言った。彼の声が崖側のコンクリートに跳ね返り、ぽつりと消える。
ミナは頷き、紙の地図に赤いペンでラインを引く。ラインは練習で引いたものよりも震えていた。「夜明け前に動ける子は限らない。でも、ここを通れば装甲の死角に入れるはず。もう一度確認して」
敵の護送列の最後尾に近い車両が、路上の散乱を巻き込むように石をはね上げた。列の司令塔から低い周波のビープ音が何度も鳴る。車両の上で、箱舟財団の黒い制服が動く。誰かがライトを空に向け、群衆を威圧している。
「同意、三人分は取れた」天城巧(あまぎ たくみ)が小声で報告する。肩越しに零を睨むその目は、決して温度を伝えない。かつての軍人のままの冷静さを失っていない。それが零にはありがたくも、重くもある。
しかし、もう一人が黙ったままだった。風間透(かざま とおる)は、目の前の世界をよく見つめながら黙考している。彼の指先が、バッグの端を掴んでいた。箱舟財団の古い開発資料のコピー。彼が先ほど読み上げたページの切れ端が、今でも彼の心を打ち震わせているのだ。
「俺は、合意には入れない」風間の声は枯れていなかった。だがその言葉には決意がこもっていた。「あの設計図を見てから、これを使うたびに誰かの意思をねじ曲げることになる気がするんだ。俺は、その加担はできない」
零は風間の眼を見た。薄暗がりの中で、彼の瞳はまるで乾いた紙のように細かい皺を刻んでいる。「風間、ここで人が死ぬんだ。合意が遅れれば、子どもたちが列の中で轢かれるかもしれない。おまえの"合意"を待っている時間は、もうない」
「時間がないからと言って、同じ仕組みを使っていいってわけじゃない」風間は震える声で言う。「あれが生まれた理由を、おまえたちはまだ知らない。箱舟は"秩序"のために選択を刈り取ってきた。合意しか効かないように見えるその設計は、結局、合意を強制するための道具だったんだ」
紅羽が息を吸い込んだ。彼女の手が微かに震える。彼女は零の肩に短く触れ、「先に進むか、やり方を変えるか。それを決めるのは私たちで、ここにいる全員だよ」と言った。言葉は冷たくはない。けれど、そこにあるのは依頼ではなく最終判定を促す静かな圧力だった。
零は拳を握りしめた。万華鏡砲は「共有した作戦だけを一度だけ実現する」性質を持つ。仲間が合意した作戦を"確定"することで、物理と時間に干渉し、その瞬間だけ現実を曲げることができる。だが単独で作動させれば、反動で彼の感覚の一部が削げ落ちる。これまでの運用でそれを知る者はほとんどいないが、零は身をもって知っていた。もし彼が合意を強引に取らずに発射すれば、効果は盟友の外へも及ぶかもしれない—敵にも、無関係の人々にも。
「俺は……」零は言葉を切った。「合意を取るべきだ。だけど、選んでいるのは住民であって、俺たちじゃない」
風間の顔が一瞬こわばった。「お前、それをどうやって?」
ミナが口を開いた。小柄な身体からは想像できないほど強い声が出た。「通路の選択肢を提示して、誰がどの道を選ぶかを確認する。ここにいる全員、避難する人たち、そして私たちの全メンバーが同意した時点で、零さんが砲を使う。強制ではなく、提示を使って好きな方を選んでもらうの。箱舟のやり方と違うのは、それだけ」
「だが時間がない」天城が低く言う。「提示している間に監視の目が増えれば、逃げ場は無くなる。合意を待つことが難点だ」
零は深呼吸をした。胸の奥に、ざらついた不安が広がる。彼は万華鏡砲に再び手を置くと、自分の命令を確かめるように小声で言った。「俺は今回、単独では作動させない。誰かの合意を無視して強行すれば、それは箱舟と同じになる。俺はそれを望まない」
紅羽は頷いた。天城は歯を食いしばったが、目の奥に僅かな理解が見えた。風間の表情は硬いままだったが、彼の手はゆっくりと空中に伸び、三本の指を軽く合わせた。それは同意のしるしだった。零の胸に一瞬、温度が走る。
「三分猶予」零は宣言した。「ミナ、子どもたちを集め、二つの通路を提示する。紅羽、電波妨害を最小限にして監視カメラの視界を歪ませる。天城、援護を準備して。風間、もし途中で同意が変わるようなら、俺に合図を送ってくれ」
一分が過ぎる。ミナの小さな声が、ラジオを通じて漏れた。「通路Aと通路B、どちらに行きますか? 自由に選んでください。押し付けはしません」子どもたちのざわめきと、女性のすすり泣きが混じる。選択が生まれている音が、零の耳に届く。
提示は一瞬にして形を成した。幾つかの家族が通路Aを指差し、別の幾つかが通路Bを選んだ。誰かが大声で子どもに指示を出し、ある母親が迷った末に通路Bに一人の子を託す。意思が現れる。零の心に、それは刃のように鋭く響いた。
「合意、成立」風間が言った。彼の声は小さかったが確かだった。零は頷いて、万華鏡砲に手を置き直す。指先が結晶の縁をなぞると、静かな電流が指先から腕に伝い、胸の奥まで走った。身体が準備される感覚。それは甘く、恐ろしかった。
零が引き金に触れた瞬間、世界は割れた。砲口から放たれた光は、言葉を失うほど鮮烈だった。万華鏡の断面が空気を切り裂き、光の破片が散りばめられた音を立てて飛散する。色彩は螺旋を描き、路上の空気をねじり、車列の影を一瞬だけ別の座標に引きずり込んだ。瓦礫が舞い、遠くの窓ガラスが振動して音を立てる。鮮やかな模様が、地面に新しい道を描いた。
それは、零が仲間と事前に共有した「避難の軌道」そのものだった。通路の壁が実体として立ち上がり、人々はその光の流れに自然と導かれていった。子どもたちの声が驚きと歓声に変わり、数秒遅れてから群衆の一部が指示どおりに移動を始めた。計画は成功に見えた。
だが、同時に何かが、零の中で崩れた感触がした。砲を撃った衝撃が、視界の端を割き、世界の色から一片を剥ぎ取っていく。彼は唐突に、自分の左目で赤が死んでいくのを感じた。赤が深みを失い、色調が薄まっていく。花火のように華やかだった光が、灰色の縞模様だけを残して遠ざかっていった。
「零!」天城の声が叫び、紅羽の手が彼の腕を掴む。だが零の指先は砲にしがみつき、目には薄い膜が張ったように世界が見えた。色が抜け落ち、対象の輪郭だけ