万華鏡砲の補給士と箱舟財団 第15話「第13章」
朝露が残るバリケードの木板に、指先で小さな水玉を弾いた。皮膚の冷たさがじんわりと伝わる――けれどそれがいつもより遠い。相馬澪は手袋の内側で掌の震えを確かめた。背中のザックには、万華鏡砲の筒がバスケットのように固定されている。昨夜、自分たちの非暴力の防衛線が一時の均衡を作ったとき、砲はただの重たさだった。誰も、使わないという約束があった。
朝露が残るバリケードの木板に、指先で小さな水玉を弾いた。皮膚の冷たさがじんわりと伝わる――けれどそれがいつもより遠い。相馬澪は手袋の内側で掌の震えを確かめた。背中のザックには、万華鏡砲の筒がバスケットのように固定されている。昨夜、自分たちの非暴力の防衛線が一時の均衡を作ったとき、砲はただの重たさだった。誰も、使わないという約束があった。
「澪、展開ポイントの確認を──」井手剛が低く声をかける。彼の目は一晩でさらに深く、疲労で垂れ下がっている。キャンプの自警団長として、彼は決断と責任を分け合う術を身につけていた。
澪は首を振った。「いい、まだ。今日も物資班の割り当てがある。ユナ、子どもの保温梱包は?」
ユナは毛布を抱え、うなずきながら幾つかの段ボールを差し出した。年端もいかない子どもたちがワラワラと寄り、怖そうに大人の影に隠れている。澪はその顔を数秒見る。小さな鼻の下に涙が乾いた痕、押し黙った唇。守らなければ、という気持ちが胸の奥で熱を帯びる。
ずっと静かだった路地の向こうから、ひとつの低い唸り音が道路の振動を伴ってやってきた。砂埃が吹き上がり、影が伸びる。箱舟財団の装甲輸送車だ。黒い塗装に、無機的なロゴ。影山隼人の指示で、準軍事の部隊が列を作って歩いてくる。彼らは投票の動きを封じるために来ている。
「来たか」井手がつぶやく。周囲の空気が一瞬、詰まったようになる。財団の車両は停車し、側面から一様な声が流れた。命令口調、手順の読み上げ。罵声は一切ない。制度は丁寧に個人の選択肢を削ぎ取る。
「投票は中止だ。安全確保のため、移動を促す」というアナウンスに、母親たちが顔を見合わせる。だが投票という行為は、ここにいる多くの人にとって自分たちの未来を自分たちで決める最初の一歩だった。中止に応じるわけにはいかない。
「子どもが──!」ユナが叫んだ。小さな足音が走り、三歳ほどの男の子が護衛の隙をついて柵の裏から飛び出してしまった。彼は泣き叫び、財団の隊列に向かって走る。護衛隊の一人が子どもを抱き上げようと手を伸ばす。母親の叫びが断ち切られ、空気が鋭く裂けた。
澪の視界が一瞬、切り替わる。足音、叫び、金属の反射。条件が頭の中で反芻する。万華鏡砲は──味方と共有した作戦だけを一度だけ実現する。仲間の合意がなければ、能力は敵にも作用する。独りで放てば、感覚の一部を代償に失う。
共有。合意。ここにはそれを取る時間はない。井手は振り返り、手を上げていた。だが彼の目は迷いを隠せない。非暴力の約束、補給網の持続性、仲間の無事を考えての躊躇だ。
「澪、待て!」井手の声が届いたが、澪の身体はすでに動いていた。
薄い呼吸と共に背中の筒を抱え、澪は膝を曲げる。万華鏡砲はいつもまわりの光を取り込み、筒内で複雑な虹模様を描く。澪はそれを見つめ、思い描く。一緒に動いたはずの誰かと交わしたことのある作戦の輪郭を──物資の流れを、撤退経路を、子どもを確保して母親の元へ送り届ける安全回廊を。だが、誰にも改めて伝える時間はない。澪はかつての後世の現場で学んだ動作を、無意識に拾った。
「澪、駄目だ──!」ユナの声が届く。瞳が濡れている。それでもユナは近づこうと足を踏み出す。その瞬間、澪はトリガーに触れた。
万華鏡の内部で光が沸騰するように踊った。筒の口から冷たい風が吐き出され、硝子と金属の匂いが鼻腔を刺す。景色が渦を巻き、足元の砂が舞い上がる。澪の世界は分裂した。色が分解され、音が幾重にも重なる。最初に奪われたのは──音だった。叫び声は遠く、シルクの幕を通したように遠ざかる。次いで味覚が薄れ、舌が金属に触れたような鈍い感覚だけが残る。
その間に、空間は一瞬の整理整頓を見せた。人々の間に透明な経路が走り、荷車や担架が滑るように移動する。子どもは母親の腕の中へと送られ、母親は泣き笑いで抱きしめた。澪の胸は一瞬、安堵に満たされる。
しかし同時に、財団側にも奇妙な装置が動いた。輸送車の脇に差し込まれた小さな筒状の端末が反応し、輸送車の後部が急に像をねじるように姿を変えた。隊列から何人かの隊員が、同じ安全な通路に吸い込まれるように移動し、瞬時に棘垣の向こうへと消えた。箱舟の隊員たちが、澪たちが作ったはずの回路をそっくりそのまま利用して──逃げたのだ。あるいは、澪が思い描いた回廊は、同時に財団にも作用した。
「何をしたんだ、澪!」井手の怒声が、鈍く届く。彼の腕が小さな者たちを守るために伸びる。だがそこにはもう、消えたはずの隊員の背がある。母親の歓声と同じ数だけ、憤怒の声が上がった。ある老女が拳を振り上げ、澪の胸に爪を立てる。「なぜ勝手に──!」
耳鳴りのような低い轟音が澪の頭を揺らす。世界全体が遠く、薄い層を通して変換されたように感じられる。触覚が鈍り、ユナの手に触れても感触が曖昧だ。言葉は存在しているのに、届かない。澪は唇を震わせ、かすれた声で言う。
「──違う、ほんの一瞬だけ、子どもを」
ユナの顔が歪む。彼女は澪の腕を掴み、怒りと恐怖が混じった目で言った。「それで人を奪われるの? あなたは本当にわかっていたの?」
「ごめん、でも──」澪の声は続かない。音が欠けている。頭の中で最後に残った言葉は、自分の前世の残響だ。補給士として危険な現場を支えたとき、同じように一度の割り切りが幾つもの命を変えた。代償は記憶の片隅に刻まれている。
そのとき、装甲車のそばで一人の隊員が転がされ、手にしていた端末が床に落ちた。硬い金属が地面にぶつかる音すら、澪には遠かった。ユナが飛びかかって端末を拾い上げ、凍りついた指で小さな表示を確かめる。画面には見慣れない記号──小さな六角形の中に、更に小さな鏡面が描かれている。澪の胸に走るのは、嫌な既視感だ。
「これ、財団の反響ノードよ」ユナが絞り出すように言った。彼女は以前、物資搬送の際に箱舟の補助機器を見たことがある。あの装置は、共有の同意が曖昧な場合に能力を“反映”させるためのものだと、聞いたことがある。だが誰も本当にその働きを確認したことはなかった。
「反響ノード……?」井手が問う。声はまだ遠いが、輪郭が戻りつつある。
ユナは頷いた。「もし能力が合意を得られなければ、ノードが近くにあると、その作用をキャンプ外へと拡散させる。つまり、私たちだけに作られるはずの回廊が、外部の端末と共振してそっちにも適用される。箱舟はそれで、私たちの単独行動を抑え込んできたのかもしれない」
井手の顔が青ざめる。澪は指先で自分の耳を触ると、痺れた感触が広がった。耳鳴りは徐々に細くなるが、音量や音色を判別する力は確実に落ちている。医師の一人が澪の顔を覗き込み、眉を寄せる。「聴覚が低下している。あとで診ないと……」
周囲の混乱の中で、数名が連行されるようにして消えた。隙をつかれたのは、非暴力の戦術を選んだことに寄る脆弱性だった。澪の胸に冷たい矢が刺さる。自分の行為が、誰かを誘拐する口実を作ってしまったと考えると、吐き気がした。だが、同時に自分が救った目の前の男の子が母に抱かれているその姿を見ると、胸の中の何かがまたねじれる。
「私が確認すべきだった」澪の声は、小さな蜃気楼のようだ。誰かが部品を持って財