万華鏡砲の補給士と箱舟財団 第11話「第10章」
朝焼けは、避難区画の古びた金属フェンスに淡い虹の筋を引いていた。だがその虹は本物の虹とは違った。箱舟財団の巡回車両が放つ照明と、避難民たちのスマートパネルに映るプロモーション映像が交じり合って、フェンスの波打つ影を万華鏡のように刻んでいた。
朝焼けは、避難区画の古びた金属フェンスに淡い虹の筋を引いていた。だがその虹は本物の虹とは違った。箱舟財団の巡回車両が放つ照明と、避難民たちのスマートパネルに映るプロモーション映像が交じり合って、フェンスの波打つ影を万華鏡のように刻んでいた。
「今日中に登録しないと、『保護対象外』になるよ」高い音ですらすらと喋る案内端末の声が、群衆のざわめきをかき消す。壇上には財団のロゴ入りの白い幕と、薄く笑う中年の広報員。ひときわ大きなスクリーンに映されたのは、過去に瑠花(るか)が――万華鏡砲を媒介にして作戦共有の儀式を行ったときの残像だ。花火のように弾け、互いの軌跡が絡んだあの光景のスローモーション。歓声の音声だけが繰り返し流れていた。
瑠花は屏風の影で指を噛んでいた。左の頬に、冷たい汗の匂いが香る。視界の周縁がまだ薄く欠けている。色彩は、鮮やかな赤から少しずつ剥がれ落ちたように見えた。耳鳴りはいつもより低く、不規則な鼓動を伴っていた。あの夜以降、味覚は薄まり、左耳は遠い水の底のように聞こえる。誰にも言葉にしていない後遺症だ。
「使わせるつもりか」相馬蓮(れん)が近づいてきて、小さな防塵メガネを直す。冷たいまなざしの裏に、軍需補給の男特有の計算がある。「あの映像を流してるのは、ただの宣伝じゃない。彼らはあれを証拠にして、さらに多くの権限を手に入れる。『救われた』という映像は、同時に『保護されるべき』という命令の刷り込みになる」
「私がもう一度…」瑠花の声は宙を掠めた。彼女の掌にあるのは、まだ油の匂いを残す万華鏡砲の小さな弾倉と、薄く剥がれかけた接着テープ。あれを使えば、スクリーンの中の残像を物理的に書き換えることができるかもしれない。作戦共有の儀式さえ行えれば、あの映像を一夜にして逆写して、記録の意味を変えることも理論上は可能だ。だがその「儀式」は、仲間全員の同意が揃って初めて安全に働く。そうでないと、能力は予期せぬ方向に裂け、敵――箱舟財団の方へ作用すると言われている。
「同意がない状態で我流に走るな」侮蔑のような口調で、小池明(あきら)は言った。医療班の統括である彼は、瑠花の身体を一番近くで見てきた。あの夜の代償を。手の震えを。色が薄まっていく目を。あの代償は、単なる痛みではなく、欠失だ。不可逆の欠失だと彼は繰り返し言った。
「でも、あの映像が流れれば、明日の集団登録が正当化される。取り残される人が出るんだ」若い父親が、子供を肩車したまま、演台に向かって声を張り上げる。隣で財団の職員がスマートパネルを差し出し、無言で登録フォームのボタンを押すよう促す。強制ではない。だが現場の空気は、選択の余地を容赦なく狭める。
議論は延々と続いた。避難区画の自治会の代表、医療と物流と情報担当、それに数名の若者。合意形成の輪は狭く、何度も折れそうになった。瑠花はただ、拳を握りしめていた。彼女の胸の奥で、焦りと怒りが渦を巻く。誰かが手を差し伸べることを待ってはいられない。あの光景は、朝日とともに世界中に回るだろう。数時間のうちに、財団は「拡張保護」の根拠を得て、強制搬送の指令を下すかもしれない。
「いいか、ルカ」蓮が低く言った。「儀式をやるには、全員の意思を重ねる必要がある。肩を並べて一つの計画を歌わせる。それがない状態で発火させたら――」
「敵にも作用するんだろう」瑠花が言いかけて、言葉を詰まらせる。使わずにいることは、誰かを見殺しにすることと同義に思えた。あの子の顔、その父親の震え。君たちの未来。彼女の中で、補給士としての本能が叫んだ。現場で、目の前に崩れ落ちるものを放っておけない。
決断は刹那だった。儀式の形を整える仲間の輪に瑠花は背を向け、静かに万華鏡砲を構えた。手が震える。引き金に触れたその瞬間、湿った金属の匂いが鼻腔を突いた。礼拝のような儀式は行われず、合意は得られない。彼女は独りで、ただ一つの目的のために発火した。
光が裂けた。万華鏡の断片が現実を引きちぎる。空気が波を打ち、時間が薄いフィルムのように伸びる。スクリーンに映る花火が、逆に吸い込まれるように縮んでいく。人々の声が重なり合い、奇妙な和音を作る。瑠花は自覚した。揺れる視界の端に、何か黒い蜂の巣が形成されるのを。
反動は即座にやってきた。胸の奥を氷が走り、脳裏を冷たい空洞が穿つ。視界の中央が白く滲み、右眼の色が消える。匂いの糸は切れ、耳鳴りが高まって鼓膜が振り返す。手に持つ砲は重く、指先の温度が奪われる感触。だがそれ以上に異常だったのは、遠方にあるはずの財団の中継装置が、あたかも彼女の放った光を捕まえるかのように反応し、スクリーン上の残像を吸収していくのが見えたことだ。
「止めろ、ルカ!」小池の声が届く。だがその声は、次第に機械のように反響し始める。群衆のスマートパネルが一斉に点滅し、財団のロゴが瑠花の放った万華鏡の模様に合わせて変形した。彼らの流した映像と、彼女が刻み付けた形が、電子的な回路の上で互いに溶け合う。
効果は二重だった。群衆の一部は確かに混乱し、スクリーンのイメージは逆転していった。ある父親は泣いた。何人かは登録ボタンを握りしめる手を止めた。だが同時に、地下の財団サーバ群が何かを学習し始めた。彼女の一回きりの軌道は、そのままデータのパターンとして取り込まれ、解析され、予測アルゴリズムの中に刻み込まれていく。財団の運用チームは、彼女の「作戦軌跡」を手に入れたのだ――不完全なながらも、逃げ道の設計図として。
砲身を抱えたまま瑠花は膝をついた。視界は薄く紙のようになり、触るものの輪郭がぼやける。香辛料の強い匂いも、煙草の焦げた匂いも、今日はもう感じない。口の中の、砂のような味。身体の一部を失う感覚は、ひどく孤独だった。
「なにをしたんだ…」蓮の声は、震え混じりで夕凪のように静かだった。だが彼の目は冷たくなく、怒りでもなかった。ただ、深い警戒と疲労があった。「あれは…彼らに手渡したんだ、ルカ。逃げ方のヒントを。俺たちのやり方を」
そのとき、避難区画の向こう、財団の臨時広報車両が大音量で告知を始めた。スピーカーの音は最初は歪み、次第に整い、どこか機械的な歌のように人々の耳に流れ込む。スクリーン上の残像が再構成され、財団広報員の口が動く。
「本日、我々は拡張保護プログラムの一部を公表します」画面の中の笑顔は強張っていた。だが笑顔の背景に流れるのは、どうやら瑠花が与えたパターンを解析して生成された、整然とした進行図だった。選択肢が一つ減り、移送のスケジュールが表示される。長い表の中に、いくつか避難区画の住所と、明朝四時の表記――強制搬送の時間が併記されていた。
群衆から歓声が起きた。支持者と恐れを抱く者がごちゃ混ぜになって手を叩く。だが瑠花の耳には、その歓声が薄く、遠い鼓動のようにしか届かない。彼女は膝に手をつき、地面の冷たさを確かめた。冷たいはずの砂利の感触が、彼女の指先をすり抜けていく。
「彼らは利用する」と小池が呟いた。「欠失を利用する。私たちが残したものを、システムが学習して、人々の選択をますます狭めていく。ルカ――君がしたことは、敵の解析データを豊かにした。意図せずにね」
「だが、あのまま映像が