万華鏡砲の補給士と箱舟財団 第10話「第9章」
夜は砕けたガラスのように冷たかった。倉庫街の陰に身を隠した紗夜は、万華鏡砲の冷たい筒を膝に押し付けるようにして座っていた。金属が触れるたびに指先に伝わる微振動が、脈拍と同じリズムで耳鳴りのように跳ねた。向こうの街灯が割れたプリズムのように千切れて、白い息を吐くたびに空気の溜まりが視界に流れ込む。
夜は砕けたガラスのように冷たかった。倉庫街の陰に身を隠した紗夜は、万華鏡砲の冷たい筒を膝に押し付けるようにして座っていた。金属が触れるたびに指先に伝わる微振動が、脈拍と同じリズムで耳鳴りのように跳ねた。向こうの街灯が割れたプリズムのように千切れて、白い息を吐くたびに空気の溜まりが視界に流れ込む。
「時間がない。移送がいま動き出したって情報が入った」若松蓮が低くつぶやく。手には折りたたみの地図と、古びた無線機。画面の赤い点が一点、揺れている。
海斗は視線を地面に落としたまま、靴先で砂利を蹴る。痛みを隠そうとする仕草が、あの夜の逮捕の瞬間を思い出させる。折原慧(オリハラ・ケイ)があの車に押し込まれたとき、紗夜は何もできなかった。万華鏡砲はあった。だが、仲間全員の合意がなかった。
「全員の合意がいる。忘れたのか、紗夜?」綾が言う。彼女は避難区の自治会長を務める。声の端に冷たさが混じり、四人を見渡していた。彼女が拳を握ると、掌の皮が白くなるのが分かった。
紗夜は砲身を撫でる。鋼の感触、溝の冷たさ、過去の記憶が触覚に滲み出す。前世で補給士として危険な現場を支えたとき、彼女はいつも「後ろ」が頼りだった。人数と合意を得て、資材と計画を共有し、全員で一度だけ実行する──それが万華鏡砲の約束だった。単独で撃てば、反動は精神を剥ぎ取り、感覚の一部を持っていく。合意を無視すれば、能力は敵にまで作用する。そして今、その二つの禁止が、紗夜の前に重くのしかかっている。
「どうするんだ。こっちで時間を使っているうちに、移送は遠くへ行く」レンが苛立ちで言った。彼の声に隠れた恐れが、仲間の心に小さな亀裂を作る。
紗夜は息を吸って、吐いた。胸の中で、オリハラの顔が回る。夜勤明けの彼が薄い笑みを浮かべて、患者の腕に添えた手。逮捕される直前に言った「人は選べるんだ」の言葉が、反芻される。
「合意を得るために、時間はない」綾が言った。「だが、全員の合意がないと使えない。私たちはそれを知っている。あなたも知っている」
「私だって知ってる!」紗夜の声は、夜風に拾われて削がれた。手の中の砲が微かに温かくなる。万華鏡砲は彼女の血を持ち、感情に反応する。彼女が動けば、それに呼応して、内部のプリズムが回り出す。使えば、彼女は一つの作戦を現実にするだろう──だが代償は高い。最後に失ったのは色の識別だった。今回は何が奪われるのか、彼女にはわからなかった。
「なら、話を聞いて。選択肢は三つ」海斗が静かに言った。その声で綾がこちらを見る。海斗はいつも冷静だが、目に赤みがある。「一、皆の合意を待つ。二、強行して紗夜が単独で撃つ。三、違う方法を探す。だが、その三は時間的余裕がない」
選択肢が空中で重なる。誰の選択も、誰かの生死を変える。紗夜は思わず指先を砲身の溝に食い込ませた。鉄の冷たさが痛覚に戻り、現実を引き戻す。
「みんなの合意を取りに行く」と紗夜は言いかけた。だがそのとき、遠くにエンジン音が波紋のように忍び寄った。倉庫の向こう側でライトが瞬き、影が動く。移送の影だ。
「来た」レンの無線が震えた。赤い点が示す位置が、じわりと移動する。タイムスタンプが刻一刻と進む。
綾の顔が硬くなる。「彼らは予定より早く動いた。オリハラを逃すチャンスは、今だけかもしれない」
「今なら」と海斗が言いかけて、やめた。みんなの顔を見渡す。四つの表情がそれぞれ違う訴えをしていた。合意の重さが、そこでまた顔を出す。
紗夜は立ち上がった。砲を抱えるようにして、顔を仲間に向ける。彼女の目には決意と恐れが混ざっていた。
「皆の合意が得られないなら、私が行く。単独で撃つ。オリハラさんは、──」言葉が途中で切れた。彼女は自分を制することができなかった。胸に刺さった言葉が、夜の空へ飛び出した。
綾が叫んだ。「紗夜、待って! 私たちは――」
しかし風は紗夜の言葉をさらい、行動だけが残った。彼女は万華鏡砲を肩に据え、起動スイッチに指を添える。内部から、柔らかな紫の光が滲む。プリズムが回り始め、筒の先端で光の破片が複雑に重なり合った。音が、低くうなり、空気が像を描くように揺れる。周囲の影がぐにゃりと歪み、まるで倉庫街そのものが一枚の絵のように変容する。
「止めて!」綾の声が届いたが、指は離れなかった。紗夜は引き金を引く。それはいつもより重く、冷たかった。
光が爆ぜるように広がった。視界が万華鏡のように千分割され、街灯が連続する幾何学模様を描く。紗夜の周りに、見知らぬ感覚が流れ込み、仲間の心の鼓動が一瞬、彼女の中に混ざったように感じた。だがその「混ざり」は短かった。合意が全体に届くはずの調和が、片方だけで起動されることで、どこか反転して戻ってきた。
それは反響のようだった。銃声にも似た高い音が、彼女の頭蓋を突き抜ける。反動が体を叩き、世界が一拍遅れて動いた。両耳のうち、左耳が遠ざかる。最初は遠い海のような、次には完全な空白。聞こえない穴が、音の流れの中にぽっかりと開いた。会話が、足音が、無線のノイズが、左側だけ消え落ちた。
「紗夜!」
綾の声が右から伸びてくる。それだけが残った。彼女は左側の世界を探るように身体を傾けた。風が、砲の振動が、血の音が右耳に炸裂して、左の沈黙を際立たせる。
しかしそれ以上に、目に映る光景が異常だった。万華鏡の波紋は周囲の人々にも触れていた。だがその触れ方が、計画を共有するための優しさではなかった。護衛の一隊が、ほんの一瞬、同じ幻影の出口を見たように立ち止まり、次の瞬間にはその幻影を手に入れるように動き出した。彼らの動きが、紗夜の計画とリンクした。侵入のルート、煙幕の位置、逃走経路──紗夜が思い描いたすべてが、敵の身体にも一斉に書き込まれていく。
「くそっ!」レンが無線を握りしめ、敵の動きに合わせて接敵する。だが彼らはもう、こちらの手を読んでいる。紗夜が一度も話さずに心の中で思った通りに、相手は動いた。合意を無視した代償が、敵にも等しく作用したのだ。能力の禁止条項が、血のように現実になった。
移送車のエンジン音が大きくなり、ライトが倉庫の角を抜ける。護衛が車両を囲んで配置に就く。紗夜たちは影を裂いて飛び出した。幻影の乱反射がまだ視界を捻じ曲げる中、海斗は先に走った。彼は右側に向かって低く伏せ、彼の動きに合わせて隊列が形を変える。だが敵は一歩先を行っていた。索敵の重心がこちらと同じだった。
銃声が、左側の世界で爆ぜる。紗夜の左耳の穴は、その瞬間に空白として固定された。撃たれた砂利が、音のない輪郭で跳ねる。海斗の体が、火花のように見えた。彼は背中から倒れ、細い赤が路面に裂けた。紗夜は走り寄るが、彼の口が引きつって言葉を発するのを、左側の沈黙が奪っていく。彼女は右手で耳を押さえ、左側から来るはずの海斗の呼吸音を探したが、そこには何もなかった。
「動け、紗夜!」レンの声だけが右耳に刺さる。彼は負傷した海斗を引きずりながら、裏手へ向かう。綾は無線に向かって命令を叫ぶ。無線の反応は遅れて返る。万華鏡の影響で情報の同期が崩れ、実体と計画の間に亀裂が入っていた。
移送車は加速した。運転席の影の中で、黒い眼鏡をかけた男が腕を組むの