紅砂鎧の庭師と火山教団

紅砂鎧の庭師と火山教団 第29話「巻末特別章」

夜風が庭の水路をなぞる。冷却水が石板に落ちる音が、遠い鼓のように規則正しく響いていた。ユウナは両手を土に埋め、短く剪られた茎を撫でていた。砂の匂いは前ほど強くなかった。失った嗅覚は完全には戻らないが、冷たい空気の輪郭だけは手のひらに伝わる。紅砂は今は静かに、鞄の布地に沿って小さな温度差として残っていた。

夜風が庭の水路をなぞる。冷却水が石板に落ちる音が、遠い鼓のように規則正しく響いていた。ユウナは両手を土に埋め、短く剪られた茎を撫でていた。砂の匂いは前ほど強くなかった。失った嗅覚は完全には戻らないが、冷たい空気の輪郭だけは手のひらに伝わる。紅砂は今は静かに、鞄の布地に沿って小さな温度差として残っていた。

「問題がある」ミコトは息を切らして駆け込んできた。手には折り畳んだ古い地図と、黒い紙片が一枚。地図には避難経路と仮設住宅の記号が鉛筆で乱暴に描かれ、紙片には赤い印が石板に刷られたように滲んでいた。印は紅砂の粒子を思わせる微細な結晶状で、ライトにかざすと銀色の斑点が瞬いた。

ユウナは手を離し、立ち上がった。砂が彼女の指先にまとわりつき、冷たさと重みが広がる。指先に走る感覚は残っている。だが夜空を見上げたとき、どこか視界が二重になったように霞んだ。前回、聴覚を少し失って以降、視界も薄くなったように感じることがあった。能力の代償は累積するのか、それともランダムなのか。答えはない。

「何だ?」ユウナが訊くと、ミコトは息を吐いた。顎の筋が硬い。

「下の段階で地割れが拡がってる。旧冷却路が一部崩落して、溶岩の跳ねが低地の仮設区に向かっている。時間は……二十分あるかないか。問題は、上の署長団が強制避難の指示を出したが、今回は収容の余地がない。詰め込めば崩れる、放っておけば被害は大きい。あなたがあの——紅砂鎧を使えば、同時に複数の避難路を一度で成立させられる」

ミコトの声音が堪えた。言葉の切れ目に、赤い印の紙片が震える音が乗った。ユウナは手首の内側にある小さな瘢痕を撫でた。前世で庭師として作ってきた冷却路の設計図の端に残る、彼女自身の痕跡だ。あのときも選択を迫られ、誰かを守ることと自分の身体の一部を交換した。今も同じ選択が目の前にある。

「二十分で、全部を移せる?」カズヒロが声を出した。彼は仮設区の管理班の一人で、掌に古い火山灰の筋が入っている。彼の顔は疲れているが、焦りはない。ユウナは彼を見ると安心を覚えた。カズヒロはいつだって合理的だ。

「あなたの手を中心にして、私たちが同意する。人数を限定して、手順を簡潔にする。共有の回路を作れば……」ミコトは地図を広げ、指で線を引いた。「だが、ユウナ。使うなら、全員の合意が必要だ。今までのように単独でやるのは――」

言葉がそこまで届く前に、ユウナは思い出した。単独使用のとき、彼女は嗅覚を失い、救出の後に聴覚の一部を奪われた。代償は身体から取られた。だがもっと怖かったのは、合意を無視して使った場合に起こることだ。紅砂の力は――誰かの意思を媒介するために存在する。それを無視すれば、装甲は味方だけでなく、敵にも作用する。敵にとっては利得となりうる。あるいは、制御を失った効果が無差別に広がる。生活を左右する力を裏切ることはできない。

「俺たち、投票で決めよう」カズヒロは言った。簡潔だった。だが二十分。時間が刻む。投票は手間を要する。誰かの迷いが一人でもあれば結果は揺れる。ユウナは空気の重さを感じた。紅砂がわずかにざわつく。まるで彼女の内耳の代わりに小さな風鈴が鳴っているようだった。

「これまでも、集団で決める方法を使ったことはあるよ」ミコトが続ける。「でも教団は書類で“同意の代替”を流布してきた。私はその一部を調べたんだ。違法だけど、形式上は合意があったことにできる。彼らは遠隔で合意を形成する方法を持っている。ユウナ、もし我々が投票している間に教団が偽装合意を流したら——彼らが先にあなたを利用してしまうかもしれない」

話の節々に紙のザラつきが混じる。ユウナは赤い印を見た。印は夜風に微かに光る。紅砂の粒子が紙片に吸い寄せられて、まるで古い印章と呼応しているようだった。胸が塞がった。教団は制度として力を持っているだけでなく、その制度を偽造する術も持っている。選択の自由を奪うために、偽の「同意」を作り出すことができるのなら、紅砂の能力さえも彼らの道具にされかねない。

「まさか、あの印が——」ユウナは言葉を詰まらせた。紅砂の粒が手のひらで冷たく震える。彼女は一瞬、赤い鎧が自分と世界の境界を測っているように感じた。合意がなければ紅砂は空虚に、さながら空転する車輪のように暴走するかもしれない。合意があれば力は協調のために収束する。合意を偽装されたら、収束は欺瞞の方向へ向かう。

「時間がないなら、俺が行く」老匠の声が低く落ちた。庭で道具を磨いていた老人、ハルはゆっくりと歩み寄った。彼の掌には古い包帯が巻かれ、指先には土の匂いが染みついている。ハルはユウナの目をじっと見た。「お前一人に負担をかけるつもりはない。だが投票で時間を使う余裕はない。俺たちは取り敢えず現場を安定させる。合意はそのあとでいい」

「それができれば誰も苦しまずに済む」カズヒロが言った。しかしユウナはその言葉を拒んだ。彼女は土を握った左手に力を込めると、白い掌の筋が浮いた。紅砂が指先の周りで微かに舞い、空中に赤い緩やかな線を描いた。目の端の光が乱れ、視界の輪郭が一瞬薄くなる。彼女は聞こえた、砂が擦れる音と、それに続くかすかな金属音。代償の予兆だ。

「私がやる」ユウナは低く言った。声は震えていた。彼女の中には決断が固まっていたが、その理由は混じっていた。守るということは、単に人を運ぶことだけではない。選ばれる側が主体である状態を残すことも含まれている。もし彼女が一時的な救済を独り占めしてしまえば、後に続く制度は変わらない。教団はまた同じ方法で、人々を「助ける」ことを口実に支配を続けるだろう。ユウナはそれを許せなかった。

ミコトの手が彼女の腕を掴んだ。皮膚の冷たさが伝わる。ミコトの目が真剣に揺れた。

「同意しない人がいる。少数だ。だがそれを無視して使うと、装甲は敵側にも作用する。場合によっては、教団の工作員を強化してしまうかもしれない。ユウナ、もしそれが起きたら——」

ユウナの胸を鋭い痛みが貫いた。彼女は繰り返し聞いた。力は媒介であり、意思は鍵だ。だが今、鍵を回せるのは彼女の手だけ。彼女は紅砂を引き寄せるように両手を重ね、砂の温度を感じた。暖かさが指の節を伝う。合意という言葉が頭の中で振動する。

「いや」ハルが割って入った。「投票は必要だ。だが投票の方法は改めよう。私らがここで丸くなって声を上げるだけじゃ足りん。教団は偽装を用いる。だが紅砂は物理と意思の交差点で反応する。私がやるのは、合意の“痕跡”を現場で刻むことだ。私たちの合意は、土と水と、ここで働く手が触れたものに残る。偽りはそこまで侵せないはずだ」

ミコトが紙片を取り出し、赤い印をユウナに差し出した。印の縁は崩れ、指紋のような模様が透けて見える。ミコトの瞳が鋭く光った。「教団は印を作る。だが彼らは土を撫でることはできない。我々は庭師だ。合意の痕跡を、私たちの庭に刻もう。あなたは私たちの合意があるときだけ、紅砂を用いればいい」

志は温かかった。それはユウナがずっと求めていたことでもあった。能力を独占しないこと。選ばれた側が選ぶ力を残すこと。だが時間は相変わらず残酷に迫る。溶けた大地の波は計測されたように近づいてくる。ユウナは唇