黎明弩の検札官と電脳宮

黎明弩の検札官と電脳宮 第3話「第2章」

消毒液の匂いが薄く残る昼下がり、古い学校の体育館を仕切った臨時診療室の灯りは低く、白いランプの輪郭がぼんやりと壁に落ちていた。葵は寝返りを打とうとして、目の前が灰色の波紋のように揺れるのを感じた。包帯は乾いている。視界の端はまだ欠けている。遠くで誰かが湯を沸かす音がして、金属のカップが軽く振動する。指先は布の上に置かれた弦の感触を確かめるように、黎明弩の冷たい輪郭を探した。

消毒液の匂いが薄く残る昼下がり、古い学校の体育館を仕切った臨時診療室の灯りは低く、白いランプの輪郭がぼんやりと壁に落ちていた。葵は寝返りを打とうとして、目の前が灰色の波紋のように揺れるのを感じた。包帯は乾いている。視界の端はまだ欠けている。遠くで誰かが湯を沸かす音がして、金属のカップが軽く振動する。指先は布の上に置かれた弦の感触を確かめるように、黎明弩の冷たい輪郭を探した。

「痛むか?」

リクが小さな声で訊いた。ベッド脇の椅子に腰掛け、顔に浮かんだ陰影だけで彼の表情がわかる。リクの手には簡易の包帯と、眉間に出来た細い額の線。マヤは反対側で小さな計器のバッテリーを調べている。誰もが移動の最中だったのだろう、制服は埃だらけで、胸ポケットには乾いた地図の切れ端が覗いていた。

葵は黎明弩を少しだけ起こした。弩身は思ったより軽い。木と金属の継ぎ目に、古い仕立屋の針仕事のような繊細さが残っている。小さな銘――読めない古い字――が側面に刻まれていた。指先の皮膚は弦の冷たさに吸い寄せられるように反応した。触れた瞬間、心の中に他人の歩幅とタイミングが重なった映像が走る。仲間の呼吸、足音、目線の位置までが自動的に補填される感覚。だがその映像から離れようとすると、頭の奥で鈍い圧が広がり、左耳が一瞬ひんやりと冷たくなった。

「無理するな、葵」

リクの声が近づき、彼の指が弩の先端に触れたとき、葵は反射的に手を引いた。弩は静かに唸るような、だけど声にならない音を出した。葵の胸の中で、過去の刃の刺さる痛みがじわりと脈打つ。彼女(彼はどちらでもあるように見えた)の表情には無意識の闘志が浮かんでいたが、そこに疲労も混じっていた。

「もう一度確認するだけだ。共有するってどういう感覚か、説明で聞くより、触ってみないと分からない」

葵は答えず、ただ弦に手を置いたまま瞼を閉じた。瞼の裏には誰かの視線が差し込む。仲間たちが一つの作戦を頭の中で合わせるための小さな、だけれど確かな音のようなもの。黎明弩は、共有された計画を一度だけ――それも侵害のない共同合意のもとで――現実に引き出す触媒だということを、皆が知っていた。だがその「一度」の重みが、どうしても言葉では軽くならなかった。

「試すな」とマヤが低く言う。彼女はナイロンの布を弄りながら、データ端末の小さな光を葵に見せた。地図の分岐点に赤い点――偵察ロボットの最近の経路だ。小さな点は、避難路の分岐点を示している。

「そこに行ったんだ。誰も止められなかったら、あそこで投票が奪われる」

リクが吐き捨てるように言った。彼の声には怒りと、言い知れぬ恐れが混じっていた。葵は視界の欠けた部分で、リクの顔が硬くなったのを感じ取った。

診療室を出ると、避難民の列が伸びていた。分岐点へ向かう道は、段ボールと発電機、臨時の看板で埋まっている。人々の会話が低く波を作り、時折誰かの泣き声が尖って上に乗る。葵は杖代わりの棒で足元を確かめながら、仲間たちの手を借りて歩いた。風が時折、埃を巻き上げて目の奥をぴりりと刺す。黎明弩は布に包まれたまま、背中に引っかけられている。重さはいつでもそこにある。

分岐点は想像よりも狭かった。二手に分かれるコンクリートの壁の間に、丸い球体のような偵察ロボットが停まっていた。透明な外殻の中に一つのレンズが回り、人の流れに合わせて首振りする。その下に据えられたのは、小さな端末。タッチパネルとスロット、そして薄いスピーカー。端末の画面は明るく白く、避難民の顔を一瞬のうちに洗い流すように照らしていた。

端末の光がひとりの女性を照らした。顔が白く、目だけが黒い点のように浮かぶ。彼女は手を伸ばし、小さなカードを差し込む。画面が瞬いて、短いメッセージが流れる。投票は「確認されました」と淡々と告げる。だがその瞬間、ロボットは女性の後ろで羽ばたくような動きで小さく振動し、端末のコネクションランプが規則的に点滅した。

「奪われてる」

声は誰かの横で呟かれた。葵の手が弦に当たり、僅かに震えた。光が避難民の輪郭を白く削り、時間がゆっくりと伸びるような感覚がここにはある。端末が一人、また一人の手の動きを捕らえてゆく。データの箱が、目の前で小さく増殖していくように見える。

リクが葵に近づき、耳元で低く言った。「選択そのものを守らないと意味がない。通路を確保するだけなら、俺たちでもできる。だけど――」

「だけど、どうしてもそれだけじゃ足りないってことか」

葵は応じた。彼女(彼)は、自分の中にある空白を舌先で触れているような感じがした。視界の欠けた場所で、世界は常に二つの速度で進んでいる。片方は日常で、片方は侵食だ。端末の光は、彼女の残された視覚を痺れさせた。

「君が……使うのか?」マヤが小声で言う。問いは冷たい。全員が知っている。黎明弩は、単独で使えば反動が身体を削る。感覚の一部を失う。仲間の合意を得ないまま使えば、その効力は敵にも味方にも無差別に作用する可能性がある。つまり、選択の守護者であるはずの武器が、同時に選択を歪める刃にもなりうる。

端末の前に立つ運営側の係員は、白い手袋越しに端末のログを見ている。彼の目は画面に吸い込まれていて、顔は指示を待つかのように硬い。ロボットのレンズがゆっくりと葵の方を向いた。まるで、彼女の中の欠けた視界を嗅ぎ分けるかのように。

「ここで動かなきゃ、次の分岐も奪われる。あのロボットは端末を通じて投票の確認を取って、データを送る。電脳宮に」リクが言う。彼の声は震えていなかったが、指先が少し青白くなっている。葵はその言葉に、冷たい焦りが胸を締めつけられるのを感じた。

端末の光が近くの子供の顔を取る。小さな手が迷わず画面を触る。スクリーンはスムーズに反応し、短い承認音が鳴った。子供の目が一瞬輝く。その輝きの陰で、何かが測られていた。選択はされているように見えて、同時に奪われてもいる。

葵は布から黎明弩を取り出した。周囲の音が少し遠くなる。木の匂いと、古い油のにおいが混ざった弩の匂いが立ち上る。指先で弦を押したとき、またあの重い映像が脳裏に降りてきた。仲間たちと時間を合わせる感覚。計画が整う瞬間の清澄さ。だがそのまま、もし彼女が単独でその感覚を引き出してしまったら――脳が警鐘を鳴らすように、左耳に冷たい痛みが走る。

「今は合意が取れる時間がない」マヤが言った。端末の近くでは、係員が小さな端末にメンテナンスログを打ち込んでいる。通行人は端末の指示に従い、誰も外側に目を向けようとはしない。制御は透明で、だからこそ強かった。

葵は膝を折り、床に手をついた。砂利の感触が指先に伝わる。自分が何を失ったかを知っている。視覚の一部をすでに囚われている。あのときの代償は、生涯の一部になってしまった。だからこそ、彼女はその代償を他人に強いることを恐れている。だが今、目の前にあるのは、個人の選択の連続が機械によって均質化されていく光景だ。

「行くか、巻き込むかだ」とリクが囁く。「俺は、選択をそのままにしておきたい。誰かが勝手に決めるんじゃなくて、ここにいる人たちが自分で決められるように。君の力で一瞬だけでもその場を作れるなら——」

言葉はそこで切れ