黎明弩の検札官と電脳宮

黎明弩の検札官と電脳宮 第26話「第24章」

広場の空気は、触れ合う手の重みで濃くなっていた。黎明弩は黒曜の弩床(いしゆか)の上で、まるで眠りから目覚める獣のように震えている。小さな溝を伝う微かな光が、刻み込まれた金属の筋をなぞった。鷹瀬颯はその横に立ち、両手を銃床の温度に合わせて置いた。指先に伝わるのは冷たさと、乾いた木の繊維の感触。周囲から伝わる数百の手の掌は、湿り気も温度も一つ一つ違った。

広場の空気は、触れ合う手の重みで濃くなっていた。黎明弩は黒曜の弩床(いしゆか)の上で、まるで眠りから目覚める獣のように震えている。小さな溝を伝う微かな光が、刻み込まれた金属の筋をなぞった。鷹瀬颯はその横に立ち、両手を銃床の温度に合わせて置いた。指先に伝わるのは冷たさと、乾いた木の繊維の感触。周囲から伝わる数百の手の掌は、湿り気も温度も一つ一つ違った。

「手を、もっと中心へ。金属と木の境目に触れて」
ミカの声が近くで鋭く響いた。彼女は黎明弩の右側に立ち、端末を片手に広場の群衆を見渡す。レンは足下で群衆の動線を制している。彼らの指示は簡潔だが、声には震えがあった──それが緊張だと颯は知っていた。

「サラ、待って。無理に押さないで」
ハルが子供の肩に手を置く。子供の名前を呼ぶ声には、説得と慰めが混じる。小さな手が震え、指先がほんの一瞬だけ離れた。群衆の一つの動きが、連鎖を揺らす。

「離さないで。今ここで引いたら、元に戻せない」レンの声が硬くなる。だが、その硬さは――押し付けではなく、呼びかけだった。人々は自分の意志でここにいる。それが今回の要諦だ。颯はそれを皆に繰り返す必要があった。

黎明弩は、触れられることで合意を刻む装置だった。だが一人で起動してしまえば、その代償は颯自身に跳ね返る。かつて一度、単独での発動が彼から聴覚の一部を奪ったということは、誰もが知っているわけではない。今はそれを思い出してはいけない。思い出すだけで、鼓膜の裏に冷たい風が走るような感覚が還ってくる。

「みんな、深呼吸を。あなたたちが決める時間だ。君の手が、他人の意志を変えないでくれ」颯は低く告げた。

そして再び、無数の掌が黎明弩の木と金に重なった。子供の手、老人の皺だらけの手、肝っ玉の太い手、女性の細い手。指先の感触は雑多だが、それらが集まるとひとつのまとまった重みになり、颯の手にも伝播した。電流のような微細な振動が、掌を通して流れ、彼の腕を伝って胸の奥まで到達する。脈拍が一拍、二拍、群衆と同調する。

「いま合意を送る」ミカが小声で言った。端末のスクリーンには、触れた掌の数が流れ、波形が生まれては消えた。だが最後の合図が出ない。何かが、完全な同意を拒んでいる。

その瞬間、広場の外縁で鋭い金属音がした。上空を舞う収束型ドローンが三機、一斉に旋回し、監視のビームを下す。電脳宮の反応だ。光の帯が群衆を照らし、小さな恐怖のさざ波が広がる。

「気を散らすな!」レンが叫ぶ。だが恐怖は伝播する。隣に立つ年配の女性が、ほんの僅かに手を引いた。触れていた掌が離れると、黎明弩の脈は瞬時に乱れた。

その乱れと同時に、颯の内側で何かが切れた。右耳の奥で高い金属音が鳴り、鼓膜が押し潰されるような感覚が襲った。音が――消えた。周囲のざわめき、ミカの端末が発する電子音、ハルの咳ばらい、そのすべてが急に遠ざかり、空洞になった。視界が震え、光が増幅される代わりに輪郭が滲む。

「…っ!」彼は本能で、片手を耳に当てようとしたが、触覚だけが鋭く残り、そこからも冷えが伝わる。単独発動の代償の断片だ。完全に一人で起動したときのように感覚を根こそぎ奪われる前触れ。颯はそこで初めて、もし今ここで彼が勝手に機能を始動させれば、誰かの意思を踏みにじるかもしれないことの恐ろしさを実感した。

「大丈夫?」ハルの声が近い。音が戻らない代わりに、彼の唇の動きがスローモーションのように見える。だが彼は耳でなく眼で会話を読み取り、颯はそれに頼った。

「誰かが離した。戻って。戻って来い!」颯は両手を強く押し付け、木の温度を指先で確かめる。人々の手が再び集まり始める。だが一度生まれた不安は拭えない。子供の目からは涙が滲み、老人は固い唇を噛みしめている。電脳宮のドローンは周囲を渦巻くように巡り続ける。

「選ばせろ」ミカが端末を握ったまま言った。「強制的に足りないところを埋めても、後でねじ曲げられる可能性がある。私たちが変えたいのは『選択を奪う仕組み』なんだ。だからここでは――」

その言葉の重さが、群衆の胸の中で波紋となった。誰かが頷き、誰かが息を吐いた。颯の視界に、ひとつの決意が増えていく。隣にいた女性が自分の手をぐっと押し付け、掌の皮膚が金属の冷たさに赤く染まる。子供の小指は震えているが、戻らない。老人の手には、確かな覚悟があった。

触れ合う手が再び揃うと、黎明弩は低い声を立てるように震えた。金属の筋が光り、木目が内部から淡く光を放ち始める。颯の胸に、柔らかな圧力がかかる。合意の波形が完全に結ばれようとしている。

だが同時に、端末の画面に赤いアイコンが一つ点滅した。ログ表示の隅に現れたのは「不明な署名」。誰でもない手形が、合意の行列に紛れ込んでいる。ミカが顔を曇らせる。端末のスクロールは止まらないが、その一行だけが白く浮いたままだ。

「誰の……?」レンが声を潜める。颯は僅かに顔を動かして群衆を見回す。そこには見覚えのある顔、馴染みのない顔、恐怖で目を伏せている者、決意を胸に押し出している者がいた。しかし「誰でもない手」は存在しない。どこかで誰かが、意図的に署名を差し替えたのか。あるいは――電脳宮の仕組みが、合意をエミュレートして侵入してきたのかもしれない。

「——これは、想定外だ」ミカが低くつぶやいた。「電脳宮が、合意を偽装してる。あるいは誰かが強制的に押しつけられた可能性もある」

群衆の中で、ある男が顔をしかめた。象牙色の爪が黎明弩の縁を掻く。颯はその男の手の動きを見逃さなかった。男の手は震えていたが、指先の角度がわずかに違っている。彼の掌は、確かに黎明弩に触れている。しかしその触れ方は、まるで誰かから強制されているかのようだ。目の奥に逃げ場のない恐怖がある。

「もしこれが操作なら、我々の起動は敵の罠になる」レンの顔が蒼白になった。「誰かが手を握らされていたら、その合意は本物じゃない。だけど放っておけば、電脳宮がその偽装を使って全市の認証を塗り替える」

颯は答えを持っていない。ただ、自分の掌に残る冷たさと、耳の奥に残る嗚咽のような虚無感がある。代償の断片は彼の体を警告していた。完全な感覚喪失の恐れはまだ彼を脅かす。だが、それがあっても、ここで達成しなければならないことがある。

「一つだけ、確認しよう」颯は嚥下して声を出した。耳鳴りは続いているが、言葉は伝わる。彼は群衆に向き直る。「あなたたちの意思だ。誰にも『代わり』に決められてはいけない。もし、あなたの手が無理やりそこにあるのなら、離していい。ここはあなたが自分で『はい』といえる場所じゃなきゃ意味がない」

その瞬間、男の手が微かに震えながら離れた。指先が木目を離れる。群衆の間に、ホッとしたような空気が走る。だが同時に、端末の赤いアイコンは別の場所で若干の波を作った。偽装は一枚で終わらなかった。電脳宮は隙を突いて複数の署名を差し替えようとしている。

ミカが端末を上に掲げ、スクリーンを群衆に見せる。ログが流れる様子は、誰の目にもわかる。白い署名が一つ、二つと消えていく。群衆の顔が、揺れる。誰かが手を引き、また誰かが押し付ける。だが重要なのは、その動きが押し付けられたものではなく、