鳴雷槌の操縦士と翼の税関

鳴雷槌の操縦士と翼の税関 第8話「第7章」

屋上の風は、雨粒をすり抜けるように冷たかった。ネオンの光が低く垂れ下がった雲に擦れて、都市の輪郭を滲ませる。稲光が一度、遠い斜面で白く割れて、鋼のような匂いが鼻の奥に残った。浅羽蓮は、鳴雷槌を抱いたまま市の灯りを見下ろしていた。槌の頭は濡れて、黒光りする金属が薄く振動する。手のひらに伝わる微かな振動は、まるで心拍のように規則正しかった。

屋上の風は、雨粒をすり抜けるように冷たかった。ネオンの光が低く垂れ下がった雲に擦れて、都市の輪郭を滲ませる。稲光が一度、遠い斜面で白く割れて、鋼のような匂いが鼻の奥に残った。浅羽蓮は、鳴雷槌を抱いたまま市の灯りを見下ろしていた。槌の頭は濡れて、黒光りする金属が薄く振動する。手のひらに伝わる微かな振動は、まるで心拍のように規則正しかった。

「蓮、どうするんだよ」楠木零士が、背後で声を張った。薄いコートのフードからは、夜の冷気に染まった顔が覗く。零士の声はいつものように短く、でも割り切れない熱を含んでいた。

「俺はもう、あれで何度も救った。避難路を一度だけ作り直して、税関に押しつぶされそうな街を一回ひっくり返すだけでいいんだ」零士はそう続けて、拳を握りしめる。指先がわずかに青白く光った。

槌は言葉を持たないが、反応は確かなものだった。鳴雷槌を媒介にすれば、味方と共有した作戦――具体的に合意された一つの計画だけを、その場で物理的に成立させる。だが条件は苛烈だった。単独で作動させれば使用者は何かを失い、合意を得ずに強行すれば、能力は敵にも等しく作用する。それは約束事であると同時に、道理のようでもあった。

「共有だって言うなら――そもそも『共有』って何を基準にするんだ」蒼井紬が前に出た。紬は仲間の中でも冷静さと倫理感を重んじる。彼女の指先に微かに雨が滴り、まぶたの縁に光る。紬の声には震えがないが、言葉の端に切迫が宿っている。「一回で終わる、この力の重さを知ってるの。蓮、零士、あなたたちは戦術でそれを語る。私はその後に残る人々の顔を想像してる。封印も選択肢よ」

屋上には四人だけが残っていた。蓮、零士、紬、そして桐島祐。祐は薄い革手袋をはめ、鳴雷槌の柄先を軽く触れていた。祐の瞳には、どこか遠くを見ているような柔らかさがある。彼は前世で危険な現場を支えた操縦士で、仲間の信頼を集める静かな人物だった。

「封印するなんて、理念だけでどうにかなるものじゃない」零士が吐き捨てる。夜風が零士の言葉を攫い、街の喧騒と混ざって去って行く。「税関はもう、待ったなしだ。あの壁の向こうで人が押しつぶされてる。制度ってのは人が作る弱さで成立してる。利用できる道具があるなら、それで打ち壊すのは――正しいだろう」

蓮は槌を抱えたまま、どちらにも頷けなかった。彼の胸の内に、使用のたびに浮かぶ痛みがある。以前、単独で鳴雷槌を使ったとき、彼は左耳の聴覚を少しだけ失った。最初は鈍い耳鳴りだった。だがそれは長く尾を引き、戦術室での微かな指示や仲間の囁きも遠ざけた。代償は身体に刻まれ、彼の操縦士としての感覚の一部を削ぎ落としていった。

「覚悟を問うだけなら誰でもできる」紬が声を低めた。「でも、その覚悟を他人に押しつける権利は誰にもない。私たちが守るべき人間は、選ぶ権利を残しておきたい。槌を使ったあとに残るのが『選択される者』だけであってはならない」

蓮は紬の目を見返す。眼の奥に揺れる光は、避難民の顔が映っているようだった。そのとき、遠く下方で何かが割れるような音がした。金属の調子か、人の叫びか判別がつかない。全員が一瞬、固まる。

「様子を見に行く」祐が言った。彼は肩越しに蓮を見て、微かな笑みを浮かべた。「蓮、君はここの調整を続けてくれ。俺たちが下で確かめる」

祐の言葉は信頼の形であり、同時に決意だった。零士はうなずくと、濡れた屋上の出口へと駆け下りた。紬も続いた。蓮は槌を抱いたまま、屋上の縁に立つ。手のひらに伝わる微振動が、なんとも言えず暖かく、重かった。

祐が下へ降りて数分、無線が弱く裂けるような音を立てて入った。「――試験、成功。だが――」祐の声はそこで途切れた。蓮の左耳に、遠くの嵐にかき消されたように届いたのは、鉄を削る音と、祐の短い叫びだった。

次の瞬間、屋上の空気が粘りを帯びるように変わった。鳴雷槌の頭が、滲んだネオンを吸い込むように静かに鳴る。蓮は思わず槌を抱きしめ、体を硬直させた。振動の強さが、手首の筋を引き戻す。彼の視界がわずかに暗くなり、音が遠のいた。左耳の奥に、あの日と同じ鈍い空洞が広がる。記憶が瞬間的に戻る。単独使用の代償が、器官の一部を奪うという現実が、再び鮮やかに迫った。

無線越しに紬の声が割れ飛んだ。「祐! どうした、返事して!」

応答は薄く、間を置いてから戻ってきた。祐の声は震えていた。「……成功はした。でも、あれは――予測外だ。蓮、槌が――敵にも反応してる。税関の監視ハブに同調してしまった」

零士の顔が夜に間抜けに見えた。彼の目には怒りと焦燥が渦を巻く。蓮は自分の手元に目を落とすと、槌の脈動がまた強くなるのを感じた。何か遠いところで金属同士がぶつかるような音がして、屋上の向こう側、税関の方向から赤い探照灯が動き出すのが見えた。

「合意がないままの使用だと、効果は敵にも及ぶって約束だったはずだ」紬の声はすでに怒りを超えた嘆きになっている。「それで避難民が巻き込まれたら、誰が責任を取るの? 私たちのやったことは正当化されない!」

祐の返事は、沈黙と短い息だった。音が薄れて、蓮の世界は左右のバランスを失いかける。左側の景色は少しだけひそやかに落ちる。彼は無意識に耳を押さえた。代償は、体に返ってくる。やはり、単独での使用は身を削る。

だが、祐の報告に含まれていた言葉はもっと重かった。「成功はした――」その「成功」が意味するものは何か。槌が税関のハブに同調したということは、敵のシステムを乱す効果を有した。一方で、その同調が監視を反転させ、周辺の警備を増強させてしまった。まるで触れた場所に棘が植えられたように、事態はひどく危険になっていた。

「俺は――」零士が言いかけ、言葉を切る。「でも、そこにいる人たちのいのちが――」

「だからこそ、慎重にならなきゃいけないって言ってる!」紬が割って入る。「あなたたちの『一回』が、誰かの一度しかない生活を粉々にするかもしれない。私はそれを見たくない」

蓮は声を出さなかった。胸の奥で、操縦席の熱、油の香り、計器の微かな振動が呼び覚まされる。前世で支えた現場の記憶は、彼にとって動かしがたい規範だった。だが今、目の前の現実は別の要求を突きつける。仲間が各々動く。彼らは自律的に選び、責任を引き受けようとしている。蓮が一手に引き受けるべきなのか。彼が守るべきは、槌を独占することか、それとも仲間が選ぶ権利を残すことか。

「俺は……」蓮はようやく口を開いた。声が乾いている。「俺は、勝利を独占したくない。あの槌で一度だけ道を作ることができるとしても、その先に誰が決めるんだ? 俺たちが決めるのか、守られる側が選べるのか。選択を奪うことが、仮に正義をもたらすとしても、それを続ける理由にはならない」

零士がかすかに顔を歪める。桐島祐は濡れた髪を振り、雨露が頬を伝う。「蓮……でも、封印してしまえば、税関はいつまでもこのままだ」

「封印も選択の一つだ」紬は肩をそらせ、冷たい目を蓮に向ける。「封印することで、私たちは力を持つ側から降りる。槌を無くすことで、制度に打ち勝つのではなく、人々自身が選ぶ基盤を作る。それは時間のかかる方法だけど、被害者が『選ぶ』ことを取り戻