影走糸の研究員と緋色局

影走糸の研究員と緋色局 第4話「第3章」

体育館の蛍光灯が低く震える。床に敷かれたブルーシートの隙間から、乾いた靴底がすれる音だけが沈んだ空気を切っていった。深澤透は掌で小さな筐体を撫で、そこから細く出た黒い糸を指先で伝わせた。影走糸。銀色とも墨色ともつかない、うねるような線が暗闇の中で長い影を落とす。

体育館の蛍光灯が低く震える。床に敷かれたブルーシートの隙間から、乾いた靴底がすれる音だけが沈んだ空気を切っていった。深澤透は掌で小さな筐体を撫で、そこから細く出た黒い糸を指先で伝わせた。影走糸。銀色とも墨色ともつかない、うねるような線が暗闇の中で長い影を落とす。

「やるなら今夜だ」透は低く言った。声は震えていなかったが、胸の奥がひりついた。避難者の間で緋色局との通謀が噂になってから、ここ数日の夜は眠りが浅かった。床に並んだ仲間たちが一斉に顔を上げる。宮園凪は医療キットを膝に置き、星川ユリは工具箱の蓋を指で弾いた。斎藤二郎はいつものぶっきらぼうな口調だが、目に熱がある。

「侵入先は管理棟の事務室だ。磯辺和恵のデスクが怪しいって話を聞いた。証拠があるなら確かめるしかない」透は簡潔に言った。声に含まれたのは研究者の癖だった──事実と条件を並べ、リスクを明示する。

凪が手を挙げた。「私、負傷者が出たらすぐ処置できるように表に残る。必要なら匿う」

ユリは薄く笑って、だが真剣な顔で言った。「監視カメラの死角は調べた。夜の巡回表は三回ほど変えてある。私がカメラルートを作る」

斎藤が唾を飲んで、ぽつりと言った。「俺は見張り。侵入経路作ったら即合図する」

誰も指示を受けなかった。透の提案に対して、それぞれが自分の役割を選んだのだ。合意――それは影走糸の最初の条件だった。透は糸を指でつまんで見せる。糸は微かに震え、彼の指先に冷たい感覚を残す。

「重要なのは合意だ。一度しか使えない。共有した作戦だけを一度だけ現実にする。それを破れば、糸の反応は制御を失う」

会話に重みが加わる。影走糸は単なる器具ではない。透が過去にそれを単独で使ったときの代償が、彼の肉体に刻まれていた。言葉だけでは理解されにくいから、透は堅く眼差しを仲間に向ける。

「一人でやると、反動で感覚の一部を失う。嗅覚が抜ける奴、色が見えなくなる奴、ってケースがある。俺は...聴覚が鈍った。三日間、遠くの声が全部膜の向こうで鳴ってるみたいだった」透は辛辣に笑うようにして、掌の糸を軽く握り直した。「それでも使わなければならない状況はある。だが今夜は、皆の合意で動く」

凪が息を吐いた。「透が言うなら、私たちはついてく。けど疑いが広がってる。避難民の中に裏切り者がいるって噂が本当なら、警備側に渡る証拠は必ず消される。だから早く、静かに、確実に」

ユリは鞄から黒い布を取り出し、透の筐体を包もうとした。糸は布に触れても静かに滑り、暗がりの中で緩やかに蠢いた。その動きがまるで生き物の呼吸のように感じられて、斎藤がわずかに身を固くした。

彼らは役割を確認し、簡単な信号を決めた。星の位置を頼りにするとか、窓ガラスに鍵をかけるとか、そうした人間的な細工が合意を繋ぐ。透はその合意を手放さないために、影走糸を手の内に巻き取った。

夜の侵入は静かだった。管理棟の外は停電で黒く、窓に映る体育館の光が乱反射している。風で揺れる屋上のアンテナが、遠くで金属音を立てた。ユリが一つだけ開放された窓からそっと忍び込み、内部からドアを解錠する。透は糸を伸ばし、壁に沿わせた。影走糸は暗いホールを這い、電気の切れた廊下に黒い蛇のような影を差す。

事務室の扉は軋んで開いた。紙の臭いと古いコーヒーの残り香が混ざった空気が、透の鼻腔を打つ。机の上には書類の山。自治会の報告書、物資配分のリスト、領収書。透は目を細める。紙の端に押された赤い印が、彼の視線を捕えた。

「あれ、見て」ユリがささやく。彼女の指先が、ファイルケースの隙間で埃を撫でている。透は影走糸を伸ばし、そのファイルケースに触れさせた。糸の先端が角に引っかかるように震えると、透の頭に微かな疼きが走った。糸は彼の意思に従っているはずだったが、その触れた先から不意に別の反応が返ってきたのだ。

白い光が鋭く割り込んだ。目の奥を突くような発光、研究室の蛍光灯よりも冷たく白い。透はそのまま目の前の紙が溶けていくような感覚に襲われ、視界が交互に二つの景色を送り出した。

研究所の一室。床は白くて冷たく、カートの上に山積みされた文書がそびえている。赤いスタンプ、押印の列。誰かの声が機械的に、無機的に繰り返す。「協力は義務です」「選択の余地はありません」その声は録音されていたのか、それとも誰かが何度も言い聞かせているのか、区別がつかない。暗がりの現場。ヘルメットのランプだけが頼りで、金属の足跡が一列に並んで床を刻んでいる。光と影――研究所の白さが、現場の黒さと交互に叩きつけられる。

透は呼吸を忘れた。糸を通じて伝わる感覚が、記憶を引き剥がしていく。思考が切り裂かれ、過去の断片が現在に重なる。あの時、彼が聞いた「協力は義務です」というフレーズが、避難所の書類の押印とぴたりと一致した。スタンプの絵柄――薄い緋色で、四角い囲みの中に「局」の字を模した記号。彼は震える指でそのページを引き出した。

「透、どうした?」凪の声が遠い。斎藤がテーブルの端を握っている。ユリの手が透の腕を掴んだ。「しっかりしろ!」

だが透の世界はまだあの白い室内に残ったままだった。文書の山が示すのは、ただの命令書ではない。制度の輪郭が、紙の数ミリごとに積もっていく。個人の選択を消し去るために用意されたフォーマット、同意を前提に取り消す署名欄、配下へ向けた報奨表。どれも綺麗に整理され、どこにも人の温度は残っていない。白の光が意味を持たせるたびに、現場の闇が冷たく深くなった。

影走糸が伝えるのは単なる視覚的連鎖ではない。透は過去にこれを単独で使ったことを思い出す。あのときは――彼がまだ無謀だった頃、残された人たちを救うためと信じたとき、彼は合意を取らずに糸を走らせた。結果、彼は聴覚の一部を失い、何日も遠い声しか聞こえなかった。代償は肉体に返ってきた。だがその経験は、彼に制度の冷たさを教えた。紙の束は、命令の痕跡を残すだけでなく、人を選択の余地から締め出す設計図にもなっている。

「なにが見えた?」ユリが何度も訊ねる。透は震える声で答える。

「スタンプだ。緋色局の印がある。これは...協力要請の書類だ。配下の名簿もある――避難民の名前がここにある」

透は手にしたファイルを開き、ページをめくる。写真が挟まっていた。避難所の集まりに写る顔のアップ。笑っている者、困惑する者。写真の片隅に、赤い線で線引きされた名前。磯辺和恵。彼女の笑顔の端に、紙の影が落ちている。名簿の隣に手書きのメモ。「情報提供の対価:優先配給/居住優先権」。

斎藤の瞳が硬くなる。「ふざけんな。金だの優遇だので人を売るのか」

凪は冷静にページをめくり、次の箇所で足を止めた。そこには居住許可の移譲先リスト、そして署名欄に潦草な署名があった。署名の一つは避難所代表の松田という名前だ。凪がその名前に視線を合わせた瞬間、彼女の顔色が変わった。

「松田代表が...」ユリは低い声で続ける。「彼は信頼されている。だけど...」

透は糸を握りしめた。思わず掌の汗が筐体にしみる。影走糸は静かに、だが確かに彼の手の中で震えている。侵入は予定通りに進んだはずだ。だが糸の異常な反応は何を意味するのか。研究所の白