影走糸の研究員と緋色局

影走糸の研究員と緋色局 第25話「第23章」

広場の空気は、朝の薄い雫のように張りついていた。淡い光が瓦礫の谷間を撫で、影走糸の束がそれぞれの角度で銀の筋を作る。澪は中心に据えられた小さな台座に膝をつき、両手で糸の端を受け止めていた。糸は冷えた蝋のように滑らかで、触れると皮膚の表面を撫でる小さな振動が伝わる。そこに集まった手のぬくもりを待つ――それが澪のやや分かちがたい、不完全な道具の条件だった。

広場の空気は、朝の薄い雫のように張りついていた。淡い光が瓦礫の谷間を撫で、影走糸の束がそれぞれの角度で銀の筋を作る。澪は中心に据えられた小さな台座に膝をつき、両手で糸の端を受け止めていた。糸は冷えた蝋のように滑らかで、触れると皮膚の表面を撫でる小さな振動が伝わる。そこに集まった手のぬくもりを待つ――それが澪のやや分かちがたい、不完全な道具の条件だった。

「情報班、妨害はいつでも来る。白石、再確認してくれ」

白石沙耶が端末を抱え、頭を縦に振った。彼女の声はイヤホン越しに少し震えたが、モニターの光は確かに緑を示している。交差した糸の列は、住民が参加しやすいよう低く張られ、手を伸ばせば届く距離にある。誰かが初めに手を置き、各自の意思を表明する。そこがすべての鍵だった。

「澪、向井が来ない。工房で待機してるはずだが」蒼井蓮が、肩越しに広場を見つめながら言った。冬のジャケットのファスナーが、彼の呼吸に合わせてカチカチと音を立てる。蓮は戦闘隊長としての顔をしているが、今はただ一人の仲間として澪の視線を探している。

そこへ、足音が違うリズムで迫った。重い金属の音、機械が地面を拳で叩くような打撃。外部部隊の先遣が、予定より早く到着したことを白石が叫ぶ。空気の奥ではドローンの羽音が低く唸り、遠くからサイレンにも似た警告音が混ざる。

「来る!」向井の声が、裂けるように広場に響いた。彼は息を切らして走り込んできた。顔には油と焦り、手には小型の工具箱を抱えている。大河(たいが)という青年は、器具の端を床に叩きつけると、その蓋を勢いよく開け、糸の結び目の横にある小さな装置を一つ提示した。

「これで妨害波を捕れるはずだ。だが、時間はない」

住民たちがざわつく。子供が転び、誰かが咄嗟に手を差し伸べる。澪はそのたびに糸の微かな振動を感じた。住民の心が揺れると糸が鳴るような感覚――影走糸は、単に意思を媒介するだけでなく、周囲の不安と希望を微細に映し取るのだ。

「澪、確認。君一人でやる必要はない。合意がないと危険だって、覚えてるだろう?」蓮の声は低かった。だが、その低さは冷静さの証でもある。

澪は小さく息を吸った。掌は糸に深く埋められている。意図せず、彼女は先にほんの一瞬だけ、単独で糸を引いてしまった。反射的な行為だった。たちまち、彼女の鼻腔がスーッと痺れ、空気の香りが遠のいた。世界から何かが一枚剥がされたように、食べ物の匂いも煙の匂いも薄れていく。

「っ……!」

澪は咄嗟に手を離し、糸が台座に戻る音がする。周囲の色が変わったわけではないが、音と匂いの接点がいくぶん欠けている。代償は体にすぐ返る。短い実験であっても、感覚の一部が確実に奪われるのだと、澪は身をもって知っている。

「単独の試行か。やっぱり来たか」向井が眉を寄せる。蓮は素早く走り寄り、澪の肩を支えた。

「大丈夫か?」蓮の声にこもるのは、いつもの強さと同時に、頼りなさの影だ。

「大丈夫、ただの──」澪は言葉を切った。何でもないはずだったのに、嗅覚が戻るのに時間がかかる。澪はその束の間に、心の中である決意を固める。単独での使用は、不可逆の代償を伴う。だからこそ、今回は必ず、誰かの意志と共にする。

「住民、手を」田島せつこが脇から前に出た。年配の女性で、広場に古くから住む者たちの代表的な存在だ。彼女は声を震わせずに、しかし人々に届くように言った。

「自分の名前を言って、ここにいる理由を言ってください。誰かの代わりには出来ません」

一つ一つ、名前が返る。淳は父の代わりにこの町を守ると言った。若い遥は母を守ると宣言した。子供のミユは、「友達を守る」とぽつりと呟いた。言葉は簡素だが、それぞれが自分の言葉であることの強さがあった。誰かに強要されていない、という確かな温度。

手が次々に糸に触れる。皮膚が糸を押し返すような圧と、暖かさ。糸は人肌のぬくもりを伝えて、澪の掌が補完されていく。合意の瞬間は音ではなく、空気の断面が変わるように訪れる。澪はそれを感じて、胸が震えた。

だが、そのとき、空の端から別の音が割り込んだ。遠方のヘリが一機、赤い光を撒き散らしながら旋回している。白石の端末が急に赤い文字で点滅した。

「妨害が完全ではありません。確認されないエミッターが一台、広場の北西に接近中。あれは――」

白石の言葉はそこで止まる。彼女の指が震え、画面に映るのは複数の小さな機械と、歩行むきの兵士たちの影だ。彼らの装備には黒い筒状のデバイスが付いている。白石は続けた。

「緋色局の『同意徴取器』です。あれは人の意思を模写して、強制的に同意を成立させる。住民の脅しや脅威で署名させるために作られたものよ」

一瞬、広場が凍った。澪は糸を通して、そこに触れている人々の心の波を拾った。恐怖と混乱、そして何より、怒り。誰かが道具を使って意志を奪うことの恐ろしさが、糸を震わせる。影走糸は合意の場を求めるが、敵がその合意を偽装して差し替えようとしている。

「つまり、あれがここに入れば、住民の同意は『偽造』される。澪、もし偽造の同意が糸に触れてしまえば、能力はどう働く?」蓮の声は鋭かった。彼は糸に触れたまま、澪の顔を見据える。

澪は思考を一つずつ整理した。能力は合意に基づいて作動する。一度だけ、共有された計画を現実にする力。しかし合意が偽造であれば、その結果は予測不能に傾く。しかも、仲間の合意を無視して単独発動すれば、能力は敵にも作用するという危険な逆説がある。敵を巻き込めば、被害の形が変わる。だが、偽造の同意が先に形成されれば、それを元にした計画が広場全体に及ぶ可能性がある。

「彼らは住民を脅して署名させるつもりだ。時間稼ぎはできない」向井がケースから小さな爆発物のような物を取り出した。「これでエミッターを狙って距離を取る手はある。でも、あいつらが糸に触れる瞬間を防げるかは……」

白石の端末がさらに赤くなり、そこに新しい文字列が漂う。文字は短いが、意味は重い。

『外部部隊は、緋色局本部の指示で「選択の奪取」を優先目標に変更。市民の合意を物理的に確保し、以後の処理を局側が掌握する。』

誰かが小さく呻いた。田島が唇を噛み、目を閉じた。澪は糸の感触の中で、ここにいる全員の選択を見た。彼らは自分の言葉で守りたいものを語った。だが、外部からの機械的な同意は、その温度を冷たく壊してしまう。

「今すぐに発動するか、エミッターを先に叩くか――どちらに賭ける?」蓮が言う。問いは単純だが、重さは計り知れない。発動すれば、澪自身の感覚はまた一つ失われるだろう。しかもそれは単なる代償ではなく、彼女がこれから人と関わるための触覚の地平を変えてしまう。だが、待てば偽造された合意が糸に触れ、彼らの言葉が、最初から存在した住民の意志を飲み込むかもしれない。

住民の何人かが糸を握ったまま顔を上げる。若い遥の目は赤く光り、淳は拳を固めた。ミユは小さな手を胸に当てている。彼らの瞳には恐れと決意が混ざっている。誰もが自分の言葉を奪われたくないと強く思っているが、どう行動すべきかは分からない。

澪は掌の糸をぎゅっと握り返した。石が胸に沈むような感覚。彼女の耳に、ほんの先ほどの嗅覚の痺