影走糸の研究員と緋色局 第19話「第17章」
広場の空気が、ひとつの呼吸で引き締まった。ネオンの赤と街路樹の薄青が交わる影の中、結節端末の表面が薔薇色の小さな光を脈打たせている。石畳の隙間からは冷たい夜風が吹き上げ、屋台の油の匂いと線香のような焦げた匂いが混じった。路地向こうから、緋色局の巡回車のエンジン音が低く振動を伝えた。
広場の空気が、ひとつの呼吸で引き締まった。ネオンの赤と街路樹の薄青が交わる影の中、結節端末の表面が薔薇色の小さな光を脈打たせている。石畳の隙間からは冷たい夜風が吹き上げ、屋台の油の匂いと線香のような焦げた匂いが混じった。路地向こうから、緋色局の巡回車のエンジン音が低く振動を伝えた。
「早く、時間がない」理久が低い声で言った。彼の手は震えず、震えているのは息だけだ。周りには地域の住民十数人と、私たちの小さなチーム──直美、花蓮、松子さん、それに数名のボランティアが並んでいる。広場の縁に、私たちが仕込んだ影走糸が薄暗く垂れ下がっていた。細い糸は黒く、灯りを受けると銀のように走る。触れれば暖かさが返ってくると説明していたが、いまは触れない手が多い。
「我慢できないって顔がするのはわかるけど、強制はダメだ」直美が声を張った。彼女は端末の制御パネルに流し込むための回路を片手に握っている。ナイフのように細い指先に、以前と同じ緊張を私は見る。直美は技術者である前に、いつだって私たちの良心を押し戻す人だ。彼女の目が、私を見る。頼みではなく問いかけだった。
足音が早くなる。巡回車が角を曲がり、四人の緋色局員が下りてくる。長いコートの裾が舗道の光を切る。彼らの襟には小さな端末が光り、監視の準備が整っていることを示していた。隊長格の男が私たちを見てスピーカー越しに通告する。「公共の設備への不法干渉は認められない。直ちに撤収せよ。」
松子さんの手が小さく、ふるえた。彼女はこの街の中心で八十歳近い店の主だ。私たちの啓蒙ポスターを見て、静かに来てくれた。彼女の指が一度、影走糸の先端に触れかけて、しかし戻る。多くの目が彼女を見ている。正面の緋色局員は、彼らは一顧だにしない目をしている。
「俺がやる」私が出た。言葉は自分でも驚くほど速く、冷たかった。背中に冷たいものが走る。影走糸は、私の手のひらがその方向を覚えているかのように、わずかに震えた。理久が顔を上げる。直美が私の手を掴もうとする。
「待て、真琴。合意がないと――」直美の声が割れる前に、私はもう糸を握っていた。
皮膚の下を這うような感触。影走糸は生き物のように指先に絡みつき、冷たく、しかし瞬間的に暖かさを注ぎ込んだ。空気の中で音が変わった。私の胸の奥に、古い装置を起動したときのような低い反応が走る。体のどこかで、これをしたら代償があると知りつつ、私は動かなければならなかった。巡回の隊列が一歩前に出る。時間がない。
私が単独で糸を触れた瞬間、効果は周囲に広がった。影走糸が黒い線となって石畳を伝い、巡回車のタイヤから端末の足元まで、音のない波紋が走る。触れられた人々の動きが一瞬、遅れた。私はそれを「成功」と呼ぶことができない感覚で見た。なぜなら、効果は均質ではなかった。
松子さんが驚いた顔で私を見る。彼女の目の前の空気に、色が戻るように見えた。影走糸の太さが、彼女の指の周りで淡い赤を帯びていく。彼女は微笑みを漏らした。「わたし、これを…」その声は震えていたが、確かに自分のものだった。
同時に、巡回員の一人が足を止め、顔をしかめた。彼の手に持った端末の光が滲む。彼は瞬間的に自分の意思とは違う動きをしたように、懐から札束のような書類を取り出してそれを足元に落とした。私はその動作が「敵に作用した」と言えることを、本能的に理解した。私が合意を経ずに発動したために、影走糸は敵と味方の区別を無視して走ったのだ。
反射で、私は自分を引っ張る力に抵抗した。代償は来る。いつも来る。過去に、一度だけ、単独でやってしまったとき、私は聴力の一部を失った。高い音が聞こえなくなり、風の位置が分からなくなった。あの日の夜、耳鳴りに泣きながら私は記録ノートに手を伸ばした。今回、同じものが私を咬んだ。
耳の左側から、世界が薄くなった。風のざわめき、屋台の油が弾ける音、遠くの雨音──それらが削り取られていく。それは痛みではなく、穴が開く感覚だった。木の葉の擦れる音が右耳だけに残り、左側は透明な壁になった。私は片方の世界に取り残されるような錯覚に襲われた。
「真琴!」直美の声は、遠くで震えている──だが、その距離感すら左右で違う。私は地に手をついて、目の前の回路箱に這いつくばるようにして手を伸ばす。理久と花蓮が瞬時に動いた。巡回員たちは足を動かせず、まるで街灯に縛られたように立っている。
「この隙に!」直美が回路箱のカバーを外す。金属の匂い、焼けたプラスチックの匂いが鼻先を刺す。彼女の指先は手慣れた手つきで、回路に小さな器具を挿した。彼女の額に汗が光る。松子さんは、手を伸ばして影走糸に触れ、そして小さく声を出した。「戻った…色が、戻ったのよ」
糸に触れた瞬間、私には伝わらなかったが、彼女の手の甲から薄い赤が広がっていく。周囲の住民たちの顔が、次々とほっとしたように緩む。数人が勇気を出して糸に触れる。糸は彼らの手から手へと伝播し、黒い線が赤味を帯びる。色が戻るというのは、単に視覚の現象ではなく、彼らが自分の決定を取り戻す小さな合図だった。私はその光景に、口元が震えるのを感じる──聴力がないから、笑い声やすすり泣きが聞こえないのに、映像だけで胸がいっぱいになった。
だが、私が無断で発動した影響の代価は他にもあった。端末の表面が、私の触れた糸に反応するように光を吐き出し始めた。赤が深く、脈打つ。回路を操作する直美の手が小刻みに止まる。彼女が呟いた。「こんな反応、設計図にはない…なんで──」
端末の中央から、薄い糸が一本、地面に伸びていた。それは出入り口の蓋の隙間に入り、暗い下水の穴へと消えていく。私はそれを見て、凍りついた。糸の材質は、確かに影走糸と同質の、黒く光る繊維に見えた。細く、しかし生き物のようにしなやかで、私の触れた影走糸と同じ光り方をしている。
「端末が…糸を持ってる?」花蓮が囁く。彼女は普段は笑うことの多い人だが、その声は震えていた。緋色局員の一人が、ゆっくりと顔を上げた。隊長の目が私たちを見て、しかし、彼の手にある端末が光っている。私の行為で端末が反応し、そこから糸が伸びた。糸は私の周りを巡っていた影走糸と波長を合わせたように見えた。
「このまま放置すれば、連動して網が広がる」直美が言った。「端末同士が物理的に糸で繋がってる。これがネットワークの主幹だとしたら…」言葉はそこで切れた。回路箱の中で、スパークが小さくはじけた。直美の手が動く。彼女は決断を迫られている。端末を破壊すれば、糸は切れるかもしれない。だが、端末が糸と同質の素材を持つなら、破壊は広域の反応を招く恐れがある。
私は左側の世界が薄くなっていくのを感じながら、深く息を吸った。片耳だけでも、直美の声を頼りにする。彼女は私の目を見て、怒りとも理解ともつかない表情を浮かべていた。理久は隣で拳を握っている。松子さんはまだ糸を握りしめ、その指先に赤い色が戻っている。住民の中には、恐怖が和らぎ、代わりに決意が芽生えた顔がある。
「真琴、あなた一人でやるべきじゃないって言ったでしょ!」直美が言う。彼女の声は怒りの震えで膨らみ、それが私の右耳に直接響いた。私は謝る言葉を探したが、それより先に別の考えが割り