銀河鉄拳の侍従と石英軍 第6話「第5章」
屋上の風は冷たく、澪の鼓膜にはもう届かないはずの低音だけが震えていた。街灯の光は夜景を半眠にさせ、遠くのネオンが水彩のように滲む。その中で、手甲の縁から漏れる蒼い光だけが鮮烈に浮かんでいた。指先に伝わる微かな振動。あの日、合意を急がせて発動させた"銀河鉄拳"の余韻が、まだ澪の体に残っている。
屋上の風は冷たく、澪の鼓膜にはもう届かないはずの低音だけが震えていた。街灯の光は夜景を半眠にさせ、遠くのネオンが水彩のように滲む。その中で、手甲の縁から漏れる蒼い光だけが鮮烈に浮かんでいた。指先に伝わる微かな振動。あの日、合意を急がせて発動させた"銀河鉄拳"の余韻が、まだ澪の体に残っている。
下の避難所からは歓声と喧噪が上がる。生還を祝う声、手を叩く音、赤ん坊の泣き声。澪にはそこから高い周波の成分がすっと抜け落ちて聞こえた。歓声は遠く、笑い声は紙越し。赤ん坊の泣きは篭るようにして、最初の一声の後は輪郭をなくした。澪は無意識に耳を押さえる。指先が冷たい。
「あのとき……本当に、ありがとう」
葵が屋上の階段を静かに登ってきて、澪の背に手を置いた。葵の指先が温かい。澪は振り向き、口を開くが言葉の始まりが宙に浮いてしまう。高音が切り取られ、曖昧になるからだ。葵が続けて言った言葉の一部がすり抜けるたびに、澪は目だけで補填する。葵の目にうっすらと紅潮があるのを見て、澪は胸の奥が痛む。
「無理はしないで。今夜はここにいて」
葵の声の最後が、紙切れに書かれたように薄い。澪は自分の名前を唇だけで繰り返して返事をした。答えを出すより先に、爪先で手甲の裏を撫でる。手甲はまだ温かく、先端のルミナンスが小刻みに脈打っている。
階下から急ぎ足が上がってきて、大吾が転げるように屋上に飛び出した。彼の息づかいは低く太く、澪でもはっきり感じられる。だが大吾の怒気交じりの言葉の鋭い端は、聞き取りづらかった。
「澪、お前――本気でやったのか。全員の合意を、あんな形で取りまとめるなんて」
大吾の目は燃えていた。手には簡易の盾。彼の怒りは公正さへの執拗さから来るものだ。澪は震える口で答えようとしたが、息が喉で乱れ、言葉が割れた音になる。大吾が一歩前に出ると、彼の振動が澪の胸を直に揺らし、彼が何を言っているかは明瞭だった。
「逃げ惑う人たちを前にして、時間はない。あれで良かったんだ」
葵が大吾の横に入って、静かに割り込む。二人の視線に晒され、澪は視界の中心に手甲の蒼い光を据えた。光が強くなるほど、耳鳴りの鋭さが増す。身体は銀河鉄拳を覚えていた。あの瞬間の共鳴、手順、息の合わせ方——合意の波形が揃ったからこそ、計画は「現実」になった。その代償が、澪の一部だ。
「代償は分かってる」澪は小さく言った。口の動きは見えるが、声は遠い。
「分かってるつもりでも……やっぱり、聞こえないのは怖い」と続けると、葵は一瞬黙った。
沈黙が広がる。澪は自分の胸に手を当て、鼓動を確かめた。鼓動は確かにある。だが、鼓膜の前に立つものが取り払われたような空白が、彼女の内側に突き刺さる。目の前で炊飯器の音が鳴り、誰かが笑う。すべてが、遠いテレビのニュースだ。
屋上の端で、ルカが小さな包みを澪に差し出した。「これ、医務班から。耳栓とか、温めるやつ」
澪は手を伸ばし、包みを受け取った。包みの布地のざらつきがリアルに伝わる。彼女はそっと封を開け、蒸気の匂いと軽い薬草の香りを吸い込んだ。香りははっきりと存在して、聴覚の欠落を埋めようとする。
だが、安心は長くは続かなかった。東の方角、街の向こうから低いクラクションが連打で響いた。澪の中の残り音がそれを拾い上げると、瞬間的に屋上の空気が変わる。人影が駆け回る気配、爪先で階段を駆け上がる音、誰かの叫び——澪はそれらが「高い音」に紐づいていることに気づき、叫びの多くを読み取れなかった。
「石英のパトロールだ」大吾が低く言う。彼の目が鋭くなる。屋上を見下ろすと、はるか向こうの通りに黒い影が細長く並んでいた。十人足らずの巡回隊。彼らは装甲の間から光る刻印をしょっている。澪の手甲と同じ、渦を描く結晶の紋章──見覚えのある紋が夜の灯りの中で冷たく輝いていた。
避難所の人々がざわつく。子供の声が一つ、明瞭に消えていった。澪は身体の中で何かが押し切られるのを感じた。もう一度、手甲を動かしてしまえば、あの"現実化"の波を起こせる。しかし条件がある。銀河鉄拳は共有された作戦を一度だけ実現する力だ。だが、共有がない場合、誤作動が双方に及ぶ。澪はその言葉を、胸の奥に釘で打ち付けるように覚えている。
「ここで逃げ延びた人達に、さらなる危険を冒させるわけにはいかない」葵が小声で言った。だが彼女の視線は澪の手甲に釘付けだ。眼差しには頼もしさと怖れが混じっていた。
澪は決断の瞬間に指先をすっと動かした。合意はない。誰にも確認を取らない。自分一人で、目の前の脅威を止められるなら——と、彼女は考えた。行動は義務感から来るものだと、自分に言い訳をした。爪先に、手甲の縁が冷たく沈む。瞳孔が収縮し、屋上の景色が一瞬シャープになる。
起動の感覚は違った。共鳴が暴力的に滑り、体の中で押し返す。耳の奥で、金属音のような高い連続が一瞬炸裂した。澪は思わず喉を押さえ、光の帯に包まれる。そこにあるはずの温かい手の感触も、葵の助言も、全てが遠くなる。寒い空気が肺を切った。次の瞬間、音が完全に落ちるのではなく、新たな形で歪む。
パトロールの先頭を行く兵士が、突然崩れ落ちた。装甲のジョイントが軋み、銃を握った手が震える。彼は呻き声を上げたはずだが、澪にはその声の内容が届かない。ただ、彼の体から漂う香り、吐いた息の白さ、瞳が右上を見やる小さな筋肉の動きが、すべてを語った。兵士の肩の装甲には、澪の手甲と同じ渦の紋。だが彼の唇が震え、数語を吐き出したとき、澪は目で理解した。
「基盤が…共鳴が…」
その言葉は破片になって屋上まで飛んできた。葵が息を飲む。大吾は舌打ちをした。兵士の身体が痙攣し、周囲の数名が立ち止まる。武器の動きが止まってしまっている。攻撃的に見えた影が、握りしめた拳ごと制御を失っている。
そのとき、黒衣の影が隊列の後ろから浮かび上がった。石英軍の中尉、塔堂沙羅。彼女は歩幅を崩さず、だが足取りは緩んでいる。澪に気づくと、沙羅は立ち止まり、小さな声で言った。
「それは、君のやり方?」
沙羅の発音は真っ直ぐで、非難も称賛も含んでいなかった。代わりにそこには、探りの気配がある。彼女の瞳に宿るものは、冷静さと、どこか寂しさに似た苛立ちだ。
澪は肩で息をし、手甲に残る振動を手の平で止めた。使用した代償の痛みが、耳の奥で波打つ。聞こえない声の代わりに、澪は沙羅の顔の微細な変化を読み取った。そこに、逃げ場のない選択を強いられた人間の疲労があった。
「そう」澪は短く答えた。声は砂利を噛むように濁っていた。
「助けたかっただけだ」
沙羅は少しだけ首を傾げる。彼女の手が、兵士の装甲の一部に触れた。そこには小さなプレート、夜光のように薄く光る文字列が埋め込まれている。澪の手甲の縁にある同じ刻印の欠片が、光の反射で呼応する。二つの光が短く同期するように見えた。
「基盤はひとつだよ」沙羅は囁くように言った。「君の手甲も、私たちの装備も。違いは、誰が決定を下すかだけ」
言葉は冷たい。だがその中には、自分が選べなかったことへの哀しみが混じっている。
屋上の空気が固まる。澪は手甲の冷たさに指を押し当て、考えた。自分の中に