銀河鉄拳の侍従と石英軍 第20話「第18章」
広場の空気は、鉄と塩の混じった匂いに支配されていた。石英の旗が高く翻り、白い光が旗面を撫でるたびに、群衆の顔が一瞬だけ彫像のように硬くなる。スピーカーからは石英軍の演説が繰り返し流れ、選択を迫る声が広場を満たしていた──「登録か、強制移送か」。その二択が、まるで嵐の目のように人々を静止させる。
広場の空気は、鉄と塩の混じった匂いに支配されていた。石英の旗が高く翻り、白い光が旗面を撫でるたびに、群衆の顔が一瞬だけ彫像のように硬くなる。スピーカーからは石英軍の演説が繰り返し流れ、選択を迫る声が広場を満たしていた──「登録か、強制移送か」。その二択が、まるで嵐の目のように人々を静止させる。
澪は、裏手の簡易防壁に肘をついて人波を見下ろしていた。手にした銀色の小型通信器が微かに振動する。結斗が近づき、低い声で囁いた。「投票の準備は進んでる。里菜が群衆をまとめてるが、半分以上は怖くて動けない。登録の脅しで何人かはすでに並んでる。」
「登録させるわけにはいかない」澪は短く言った。言葉に力を込めると、鼓膜に響くスピーカーの音が一瞬鋭く感じられた。澪は右耳に違和感を覚えた。昨夜の任務で能力を単独使用したときに感じた残滓が、まだ身体に残っている。音が奥で遠ざかるように、世界の縁が少し薄くなっている。
沙良が手早く薬袋を差し出す。彼女の手は震えずに、しかし指先に熱を帯びていた。「澪、無理はしないで。銀河鉄拳は一度きり……同意を取らないで使えば、敵にも作用する。いいことのように見えても、その『作用』がどう跳ね返るか分からない。」沙良の声は意外なほど冷静だった。広場のざわめきと石英の演説の合間に、言葉が氷塊のように落ちる。
広場の中心に置かれた選挙箱の周りで、里菜が人々に向かって手を振っている。彼女の声は震えていたが、真剣だった。「私たちには選ぶ権利がある。登録されるか移送されるかを押し付けられる筋合いはない。投票で意思を示しましょう!」
「同意がいるんだよ、澪」結斗が続ける。「銀河鉄拳は、共有された作戦だけを『実現』できる。避難民、警備、医療、すべての当事者の了解が成立しないと、思った結果にならない。しかも──」結斗は言葉を詰まらせた。言い淀んだ隙に、石英の歩兵が列を成して迫るのが見えた。黒く光る装甲の間を、登録機がゆっくりと移動してくる。人々の列が硬直し、数人の顔が蒼くなる。
「時間がない」藤堂が荒い息を吐いて前に出た。彼は元保安部隊の男で、澪と行動を共にしてきた。藤堂の目は血走り、拳を握りしめている。「人数が揃うまで待ってられない。あの登録機を止めれば、強制移送も登録も遅らせられる。澪、お前がやるんだ。銀河鉄拳で通路を作って、安全に誘導するんだ!」
澪はふと、集まっている顔々を見た。子どもの肩にしがみつく母親の指先、年老いた男性の震える唇、決意を固めた里菜の瞳。彼女たちの同意が即座に取れるとは限らない。しかも、同意を強制してはいけない。仲間の合意がなければ、能力は敵にも作用する。だが、時間は迫っている。登録機はもう三十メートル先だ。
「私が単独で使えば、また代償がある。感覚の一部を失う」澪は言った。言葉が吐き出されると、その重みで鼓動が大きくなる。単独使用の代償は、誰もが知る恐ろしい事実だ。だが救わねばならない命もある。
「代償を負ってでもやるべきだ」藤堂の声が震えた。「それで一人でも助かるなら、俺は――」
「待って!」里菜が叫んで前に走る。彼女は小さな手を空にかざし、広場の人々を見渡す。「私たちに『やらせてくれ』って、そう言える人はいる? 私達だって主体的に決めたい! 登録を恐れて逃げるのは、自分を放棄するのと同じよ!」
群衆の中から、小さな声が上がる。「いや……怖い。登録されたくない。だけど、石英に突っ込まれたら死ぬかもしれない」
「私が行く」ひとりの青年が前に出て、胸に手を当てた。澪は彼を見た。彼の手には泥と汗の跡が残り、瞳には怒りと恐怖が混じっていた。「皆の同意を取る時間はない。でも、やらせてくれって声を上げる人がいる。俺たちがやるべきだろう?」
短い沈黙の後、周囲からぽつりぽつりと同意の声が上がった。自らの口で「いい」と言う人々、うなずく手、泣きながら頷く子ども。しかし、広場の全員の同意は得られなかった。数十人、あるいは百人単位で動けない者がいた。彼らは固まったまま、石英軍の威圧の前に萎縮している。
「これで共有された作戦か?」結斗が尋ねる。声は鈍く、どこか諦めに満ちていた。
そこで藤堂が、ゆっくりと銀色の箱を取り出した。中には彼らが長年隠してきた遺物──銀河鉄拳の小さな複製が入っている。箱の蓋に映る自分の顔は、いつもより険しかった。「同意が不完全でも、俺は止められない。あの登録機があの位置にいる限り、皆が『選べる』時間は奪われていく。俺一人ならば……」藤堂は言葉を飲み込む。
澪の胸の奥で、何かが裂ける音がした。仲間の自律した選択を重んじたい。だが、今そこにある命は彼女の掌の中で揺れている。里菜の目が澪を捉えた。そこには、澪に委ねるしかないという託しと、恐怖が混ざっていた。
藤堂は無言で箱を開き、金属の腕輪を取り出す。腕輪は暖かく、微かに振動していた。彼は片膝をつき、澪の前に差し出す。「澪、俺がやる。皆の賛成は十分に得られてない。でも、ここで誰かが動かなければ、登録機は遅延なく動く。俺は仲間の合意を無視する。これで敵にも作用するかもしれない。だが、それで人が助かるなら、俺はそれで構わない。」
「藤堂――」澪は叫んだ。止めたい。けれど藤堂の顔にはもう迷いがなかった。彼は自分の選択を自分で負うと言わんばかりに、腕輪を自身の右腕に巻いた。そして、力を込めて銀河鉄拳の起動を宣言した。
光が吐き出される。銀色の腕輪から直接、広場に向けて細い光の線が走る。線は次第に太くなり、やがて床の石板を引っかくような音を立てて、見えるはずのなかった『軌道』を描きだす。人々の間を縫うように、光の帯が立ち上がり、移動可能な通路へと成形されていく。澪はその光に触れた。ひんやりとした感触が掌に伝わり、空気中に鉄の味が広がる。
だが同時に、周囲の空気が変った。石英兵たちの瞳が急に空洞になり、行動が同期し始めた。歩兵の隊列が、以前は取れなかった正確さで同じリズムを刻む。登録機のアームが滑らかに伸び、通路を塞ぐように位置を取って突入を開始した。藤堂の瞳に苦痛が走る。彼は両手でこめかみを押さえた。「しまった……」その声は砂の中に消えた。
銀河鉄拳は実現した。通路は確かに人々を安全地帯へ導いた。子どもがその上を駆け抜け、母親が泣き笑いで小走りに続く。だが同じ通路の上で、石英の兵士たちも無感情な足取りで動き、登録機を用いて無差別にタグを押し付けていく。能力は藤堂の意図どおり「敵にも作用」したのだ。だがその「作用」は、敵を同じ演目のパートナーにしてしまった。兵士たちは、生きているが意思を欠いたように動く。
藤堂は崩れ落ちた。彼の顔は蒼白で、唇から血が滲んでいる。「感覚が……消えていく」彼は指を口に当て、そこから音がほとんど聞こえなくなる。澪は気づいた。彼の視野の縁が暗く凍り、耳鳴りが低く鳴っていた。単独起動の代償が、彼の体を蝕んでいる。藤堂は自分が選んだ結果に対して、重い代償を支払っていた。
群衆の一部は通路で救われた。だが登録機は同時に、いくつかの人の腕に見えない印を押し付け、彼らのデータベース上の状態をタグ付けしていった。どさくさに紛れて、いくつかの家族が引き裂かれた。救われた者の