疾風杭の法医学者と雨の王女

疾風杭の法医学者と雨の王女 第11話「第10章」

雨は、いつもより重かった。倉庫の鉄製の庇に落ちる音が合唱のように続き、床のコンクリートに跳ね返るしぶきが冷たく太い。浅葱律は片手で濡れた髪を掬い上げ、もう一方の手の中で小さな金属片――疾風杭の一つを回した。杭は指先に冷たく、接合部の細い溝が雨水を伝って銀色に光る。刻まれた小さな刻印が、彼女の前世の現場で見慣れた証拠の指紋のように、確かな意味を持っていると感じさせた。

雨は、いつもより重かった。倉庫の鉄製の庇に落ちる音が合唱のように続き、床のコンクリートに跳ね返るしぶきが冷たく太い。浅葱律は片手で濡れた髪を掬い上げ、もう一方の手の中で小さな金属片――疾風杭の一つを回した。杭は指先に冷たく、接合部の細い溝が雨水を伝って銀色に光る。刻まれた小さな刻印が、彼女の前世の現場で見慣れた証拠の指紋のように、確かな意味を持っていると感じさせた。

「律、説明は簡潔にしてくれ。外は見ての通り、分断が進んでる」上条健斗が、濡れた布で額の滴をぬぐいながら言った。彼は巡雨隊の中でも腕っぷしが強い。だが目は疲れていて、守るべき人々の数の重みに沈んでいる。

倉庫の一角に集まったのは、避難民の代表数名、ユズという情報屋の少女、そして巡雨隊の管理官・青井遥だった。青井は制服の襟を濡らしながらも姿勢を崩さない。彼女の目が、律を真っ直ぐ見据えている。

「説明を。どうやって供給路を開くつもりなのか。で、その代償は?」避難民代表の中島薫が、低く、しかしはっきりと尋ねた。彼は安定を何より尊ぶタイプだ。波紋のように、周囲の目が中島に向いた。

律は杭を掌の上でゆっくりと回し、言葉を選んだ。「疾風杭は、私の能力の媒介です。杭を据え、作戦を共有して――合意がある計画だけを、一度だけ現実に変える。供給車列のための干渉帯を一瞬作ることができる。だが条件がある。合意がない状態で私が強行すると、反動で私の感覚の一部を失う。しかも、合意を無視すれば効果は選別されず、周囲の人間――敵も味方も関係なく巻き込まれる可能性がある」

声は雨音にかき消されかけたが、そこにいた誰もが律の言葉を聞いた。ユズが小さく息を呑んだ。青井の顔の筋が動く。

「合意が必要なのね。だけど、誰の合意まで必要なんだ?」青井が静かに言った。「局の規定は、共同体の過半数に基づく。だが現場はそれを満たさない。私は情報を出した。住民が選ぶように、と。あれで分断が加速したのは、おそらく私の計算外だ」

その「情報漏洩」の事情を、青井はここで初めて認めた。律はその言葉に微かな震えを感じた。彼女の前世での職務感覚が、数字と人間の行動を無慈悲に結びつけて脳裏に現れる。「恐怖は証拠と選択肢を分離する」という律の言葉は、この倉庫の湿気に溶けていた。

「私は―」青井は言葉を切って床を見た。「安全の確保を優先した。制度の中で管理すれば、混乱よりはましだと考えた。だが、それで多くの人が動けなくなってしまった。私は局に残る人間として、守るための『安全』を選んだ」

中島の唇が震えた。「安全である代わりに、選択肢を奪われる。そういうことか」

倉庫の入口付近で、濡れた紙が風に舞った。小さな手がそれを追いかける。子供が、貼り紙を雨にぬらしている。彼は気にも留めずに、傘も差さずに走った。律はそれを見て、小さな痛みが胸を刺すのを感じた。前世の現場で見た、無数の顔と同じ痛みだ。

「計画を提示する」律は決めたように言った。「乾いた通路を供給車に──杭を列に据え、合意を確認した上で一度だけ開きます。私と健斗、ユズの三名が合意を示す。ここにいる人たちの賛同は求める。もし合意が揺らぐなら、最後の瞬間で中止する。これができれば、食料と薬を数日分は運び込める」

そこまで言って、律は一瞬黙り込んだ。心の中で、ほんの数分前に起きた出来事が蘇った。撤退を急ぐ避難民の一部が、疲れと恐怖で合意を撤回した瞬間、杭の同期が崩れ、前回の運用では彼女が右耳の聴覚を失った。だが今ここでは、その過去を断言せず、口にするべきではないと判断した。誰かの恐怖が計画を破ると、代償は自分だけで済まないと知っているからだ。

中島が険しい目で律を見る。「話は分かった。だが、合意ってそんなに脆いのか? 一人でも不安で引いたら、何が起きる?」

ユズが肩をすくめた。「実験的運用で、反応が変化するんだ。合意の回路が途中で切れると、杭の効果は無差別に降り注ぐ。実際、そのときは──」ユズは言葉を濁したが、彼女の顔に飛び散る雨粒が震えを映している。

「私が情報を漏らした理由の半分は、本当はそれを避けたかったからだ」青井が続けた。「制度の中に組み込めば、合意の基準を決め、杭を安全に動かせる。けれど同時に、制度が力を握れば『安定』を理由に人の選択が奪われる。私の選択は、守る対象を固定してしまった。今ここで、地域の人間が自分で決めるかどうかを選べる仕組みにするか。それとも、私たちが一時的な安定を押し付けるのか。どちらかに決めねばならない」

空気が一層重くなる。雨音が耳の内側で響いた。律は杭を机に立て、その先端を濡れた木材に打ち込む。金属が木に食い込む感触が指先に伝わる。小さな振動が掌先まで伝わるたび、彼女は自分の身体が道具と結ばれるのを感じた。

「では、合意を確認する」律は、周囲の眼差しを一つ一つ掬い上げるようにして言った。「賛成する人は手を挙げてください。合意は公開で、重ねて確認を取ります。途中で誰かが撤回すれば、計画は中止。私はそれを尊重する」

手が、ゆっくりと上がる。数名の老女、数人の若者、青井、ユズ、上条。中島は一瞬躊躇したが、やがて固く唇を結んで手を上げた。子供は手を挙げたまま震えている。合意が形になっていくのが見える。律の胸の奥が何か柔らかく温かくなるのを感じた。前世の法医学の現場では、合意も希望もなかった。だがここでは、一人ひとりの掌が確率を変えうる。

杭列に掌を置き、律は短く息を吐いた。周囲の合意が回路となって杭に流れ込む感覚があった。まるで水が導管を満たすように、冷たい流れが腕を伝って胸に至る。空間がほんの一瞬固く歪み、雨粒が後ろへ逸れるように見えた。倉庫の外、古い舗道に沿って、道筋がぬかるみから乾きを取り戻しつつある。

「行け!」ユズが叫ぶ。上条は合図を送る。

だが、その瞬間――扉の外から、慌ただしい足音と金属音が混じった。誰かが叫び、消え入りそうな声で「戻れ!」と言った。目の前の数人が顔を強ばらせ、手を下ろす人がいた。中島が引っ込めたのだ。合意が乱れた。律の掌に流れていた冷たい流れが、途端に逆巻いた。

胸の奥で、何かが弾けるような鋭い痛みが走った。右側の視界が一瞬、白く滲む。そして耳鳴りが急に鋭くなり、目の前の世界の輪郭が剥がれるように感じられた。律は杭を握りしめたまま、膝をつきそうになった。周囲の音が遠のき、雨の音だけが不自然に大きく、断続的に叩きつけられるように聞こえた。合意の回路が切断されたため、杭の効果が無差別に波及したのだ。

「律!」上条の声が遠い。ユズの顔が、薄く青ざめて見えた。誰かが小さな悲鳴を上げ、倉庫の入口付近で一匹の犬が混乱して吠えた。外の空気がひどく冷たく感じられ、身体の周囲を知らぬ力が押し流した。

影が、雨の中から伸びてきたようだった。遠目に、黒い傘を差した一団が動いているのが見える。いつもの「王女側」の制服ではない。だが彼らは杭を囲んで、手に小型の器具を持っている。杭の同期を乱すように、それらを杭の根元に軽く触れる。律は理解した。合意が崩れた瞬間、王女側の干渉装置が杭の不安定な振動を拾い、逆利用し始めたのだ。

「合意がなければ、私の力は選別を失う」律は、どう