群青鋏の格納庫長と潮汐王 第3話「第2章」
水はまだしぶきをあげていた。路地の端に寄せられたゴミ袋が波打つたびに、黒い水の縁から小さな虫が浮かび上がる。エトは膝まで濡れた長靴の裾を引き上げ、濡れた軍手で背中の小さな箱——群青鋏の収められた格納箱——の革紐を握り直した。箱は冷たく、わずかに振動している。その振動は外の水音とは別種の、低く鈍い脈打ちだった。
水はまだしぶきをあげていた。路地の端に寄せられたゴミ袋が波打つたびに、黒い水の縁から小さな虫が浮かび上がる。エトは膝まで濡れた長靴の裾を引き上げ、濡れた軍手で背中の小さな箱——群青鋏の収められた格納箱——の革紐を握り直した。箱は冷たく、わずかに振動している。その振動は外の水音とは別種の、低く鈍い脈打ちだった。
「どうする、エト?」ルーが息を殺して尋ねる。肩越しに見ると、避難所から人々が集まってきていた。子どもが毛布に包まれ、母親は腕を組み、年配の男は歯ぎしりしている。誰もが何かを待っている表情だ。
エトは群青鋏を出さずに答えた。「まずここを高台に一時退避させる。そこから小分けに移送する。分散の方が安全確率が上がる。」
議論はすぐに噴き出した。イツキが前に出て、手にした折れた棒で泥を指差す。イツキは地域の防災組織の役職を自称していた。表情は硬く、声には命令口調が残る。「そんな悠長なことを言っている暇はない。全員を一気に運べ。エト、君の力を使ってだ。君なら一度で全員移せるんだろう?」
「一度で全員を——」ミコが小さな手を握りしめて叫ぶ。泣きそうな顔で、子どもらしい直情が勝る。「お願い、エトさん!」
エトは箱に触れた手を引っ込め、深く息を吸った。群青鋏は「媒介」であり、「作戦の共有」を実現する器具だった。だが条件と代償がある。彼がいま口に出すと、再び議論が火を噴く。だがここで彼は、それを説明せずに示すことを選んだ——行動で。
「合意が必要だ。」エトは低く言った。「皆でやるなら、その通り使える。だが、合意を無視して、他人の意思を押しつけるようにして使った場合――それは敵にも作用する。どちらがいいか、自分たちで決めてくれ。」
言葉は短かったが、波紋は広がった。イツキの顔が赤くなり、口をへの字に結ぶ。誰かが「敵にも作用ってどういう意味だ」と怒鳴る。群青鋏を使えば潮流を一時的に操作できると信じている者もいるし、逆にそれが敵を呼ぶことを恐れる者もいる。合意の基準を定める話し合いは、瞬く間に複雑な倫理問題へと枝分かれしていった。
「じゃあ、まずは一時退避だ。」ルーが手を叩く。「高台にバリケード作る。土嚢運べるやつは前に出ろ!」
エトは首を縦に振った。言葉を尽くすより、手を動かす方が早い。人々はその合図にしたがい、濡れた身体を揺らしながら土嚢を積む列に加わった。最初はぎこちなかったが、誰かがコツを示すとそれが伝播していく。世代を問わず、泥と布と糸の感触は人を無口にさせる。
手元の描写が脳裏に焼きつく。エトはしわの濃い掌に水の冷たさを感じた。土嚢の粗い麻布が指先の間で擦れる。泥が爪の隙間に巻き込まれ、爪は黒く染まる。熱と湿気で顔はしょっぱく、唇の端に塩が結晶するような感覚がする。ルーの手がエトの手に触れ、二人は間合いを合わせるように土嚢を積む。足元が沈むたびに、布と土の擦れる乾いた音が響いた。
「そこ、もう一段だ!」子どもたちが合図を送る。それに応じて、救助の輪ができる。ある者が肩を貸し、別の者が子どもを抱え上げる。長い長い列ができ、手から手へ荷物が渡され、子どもが移り、毛布が伝えられる。だれかが一人でやるのではなく、群れの力で道ができる瞬間だ。
だが、それでも狭い路地の先には行き止まりがある。古い建物の階段が折れ、そこに年配の男——タモツが取り残されていた。鉄格子が閉まった裏口に首だけ突っ込んだ形で、彼は手のひらで呼吸を整えている。タモツは脈拍が速く、目には決して諦めない輝きが残っている。
「タモツさんを……」ミナが嗚咽混じりに言う。
イツキの顔がまた変わる。彼は踏み込もうとして、エトの腕を掴んだ。「エト、今だ。君の力を使え。ここで人を見殺しにするんだな?」
その言葉は、群青鋏の鉄箱に触れたエトの手を冷たくした。箱の蓋がわずかに震え、鋏の柄が内側で光る気配がする。イツキの期待と怒りが、周囲の空気を鋭利にする。エトの胸の奥に、過去の記憶が走馬灯のように甦った。あの日——彼が一度だけ、自分の判断で群青鋏を動かした時のことだ。
その時の感覚は、今でも彼の体に刻まれている。手を挙げると、世界の奥底のほうから高周波の金属音が鳴り、耳の左側がぷつりと切り取られるように静まった。呼吸は浅くなり、味覚がぼやけ、左の頬の皮膚が痺れた。救えた者は目の前に立って笑っていたが、エトはしばらく世界の一部を取り戻すことができなかった。代償は確かに現実だった。
イツキが手を離さない。周囲の目がエトに注がれる。合意を得るための時間はなかった。エトの指先は箱の銀の留め金に触れた。鋏の柄が冷たく、濡れた革紐が彼の掌にまとわりつく。使えば——タモツは救える。だが代償がある。利得と損失の天秤を、彼は瞬時に頭の中で振る。
その瞬間、別の出来事が割り込んだ。群衆の端から若者の一人が走ってきて、箱を無理に奪い取ろうとした。彼は恐怖と憤怒で目を血走らせている。「待て! こんな時に話してる場合か!」と叫びながら、箱を引っ張る。エトは抵抗したが、腕がぶつかって箱がガシャリと半開きになった。
箱の内部で群青鋏がちらりと見え、刃の先が外気に触れる。瞬間、箱から青い波紋が立ち上った。それは肉眼で見えるものではなく、空気の奥から押し寄せるような「意志の圧力」だった。波紋はまっすぐに外へ放たれ、曲がりくねった路地を抜けて遠くの水面へと吸い込まれていった。
数秒後、遠方の水面で何かが跳ね上がった。黒く大きなシルエットが空に舞い、異様な光を放ってから、ぐらりと方向を変えて岸から離れていった。誰かが「見ろ」と声を上げる。群青鋏の波紋は、意図せず外部の「目」を揺らしたのだ。イツキの顔に恐怖が広がる。若者は手を離し、息を荒げる。箱は再び閉じられ、震えは収まった。
「合意を無視して使うと、こうなるんだ」エトは低く言った。「あれは……敵の索敵を刺激した。『効果が及ぶ』というのは、味方だけじゃない。」
誰もが言葉を失った。タモツの位置は変わらない。水は相変わらず低くも高くもない位置でたゆたっている。救助の輪は一時止まり、全員の手が止まった。空気には、集団としての選択を誤った時の重さが濃縮されている。
ルーが唇を噛みしめ、次第に声を取り戻した。「じゃあ、今やれることをやるぞ。合意のある小さな作戦で、少しずつ前に進める。時間をかければ、タモツさんだって——」
「時間があればな」ミナの声はか細かった。「でも満ち潮の速度が予報より速くなってるって、誰か言ってたよね?」
エトはふと自分の背後に立つ小型の手旗無線を見た。ルーがそれを握っており、短波のキューという雑音に混じって、一行の短い連絡が聞こえた。「——観測点からの報告。次の潮位上昇、通常予想より二〇分短縮。周辺の流れも乱れている、注意。」
誰かが短く「潮汐王だ」と呟くように言ったが、それは確証のある語ではなかった。ただ、名字のように、誰もが恐れている何かの暗号になっていた。
エトは決断を迫られた。タモツを今救うか、それとも安全な高台への避難を優先して集団の合意を取ってから改めて救助に戻るか。群青鋏を使えば一度に多くを動かせるかもしれないが、個人の判断で引き金を引けば彼はおそらくまた何か