骨笛剣の配達員と硝子騎兵団 第14話「第一部幕間」
夜は硝子の街灯だけを残して、拠点の古い倉庫を冷たくなめていた。蒼井凪は缶の中の油布で、骨笛剣の柄をしつこく拭いた。骨の表面は既に指紋でくすみ、割れ目に黒い埃が溜まっている。拭くたびに、笛穴の内側から乾いた鳴き声のような匂いが立ち上がった。古い骨と樹脂の交じった匂いだ——昔の配達袋の革の匂いを思い出させる気配。
夜は硝子の街灯だけを残して、拠点の古い倉庫を冷たくなめていた。蒼井凪は缶の中の油布で、骨笛剣の柄をしつこく拭いた。骨の表面は既に指紋でくすみ、割れ目に黒い埃が溜まっている。拭くたびに、笛穴の内側から乾いた鳴き声のような匂いが立ち上がった。古い骨と樹脂の交じった匂いだ——昔の配達袋の革の匂いを思い出させる気配。
左耳はもう、ほとんど何も拾わなかった。街の遠い足音、風に転がる紙屑の擦れる音、仲間の低い話し声——それらが彼女の聴覚のどこかで薄く霞んでいく。右手の指先は、先日の作戦のあと、触れているものの輪郭を感じ取りにくくなっていた。金属の冷たさはわかるが、その粒立ちや細かな振動が届かない。凪は骨笛剣の柄を握り直し、指先に来る違和感を確かめた。軽い電気が指を走るような、遠い針のような感覚だった。
「また、使ったのか」
声は小さく、しかし倉庫の影からぬっと現れた石橋源の声はいつものようにぶっきらぼうだった。古道具屋で培った眼差しは骨笛剣の分解面にすぐさま吸い込まれる。源は手袋越しに骨を触り、指先を通して伝わる冷たさと経年を確かめた。
「拭いておかないと、次に鳴らせない」凪は返す。口調に不安を滲ませないように努めたが、左耳の奥が静かな怒りに波立っているのは自分でもわかった。
「次にって……次は皆で決めるって話だろうが。勝手に振るもんじゃない」源は、骨笛剣の刃先に残った微かな擦り傷を指で追った。刃の一部に入った小さな欠けに、光が零れて落ちる。
倉庫の入口で白井一が足を組んで壁にもたれていた。若い狙撃手だ。いつもの反骨を顔に張り付けているが、目は眠っていない。彼は背中のバッグから乾いたクッキーをひとつ放り、床に落ちたのを凪がつまんで口に入れた。
「合意だの規則だの、議論してる暇あるなら動けって話なんだよ」白井が言う。「選択を先延ばしにしてる間に人は消える。誰のための合意だよ」
「でも、合意を無視したら——」凪は言葉を詰まらせた。説明はいつも薄紙を剥ぐようにしかできない。実際に起きるのを見せる以外に、彼らの感覚に届かせる術がない。だがそんな見せ方は代償を伴う。
「無視するとどうなるんだ?」白井は喰いついた。好奇心と怒りが混じっている。彼はいつだって結果を前にして手を動かしたがる。
凪は骨笛剣の笛穴に唇を寄せる直前、改めて皆の顔を見た。櫻子が椅子の背に深く座り、包帯と薬瓶を脇に置いて静かに見ている。彼女の目は治療者のそれで、選択が誰かの体を変えることを知っている。源は腕を組み、眉を寄せている。白井は爪先で床を蹴っている。
「一度きりの『共有』だ。みんなで決めた一つの作戦だけを、ほんの一瞬、現実にできる」凪は息を吸った。息は冷たく骨に当たる。左耳のうちの聞こえる部分が、微かにピクついた。作動の条件と代償を口に出すことで、規則に力を与えたかった。
「一人でやると、その反動は自分の感覚を奪う。それだけじゃない。合意を踏みにじれば、効果は味方にも敵にも及ぶ。つまり、同じ『作戦』が双方に降りかかる」凪の声は倉庫の空気に滲む。白井の目が狭くなる。
「それって……どういうことだ?」白井の指先がわずかに震えた。彼は自分でやるつもりだった。誰かに許しを求めることは、彼の自尊心が許さない。だが、その代償を知れば、躊躇が生まれるかもしれない。
源が骨笛剣を受け取り、慎重に柄を回す。刃の付け根に仕込まれた小さな舌が、カチリと音を立てる。歯車めいた可動部が露出し、複雑に絡み合う薄い骨組が見える。源は首をかしげながら、古い仕掛け箱を開けるように観察した。
「媒介具だな。武器じゃない。これ、その場の合意を文字通り『鳴らす』道具だよ」源の声には研究者の興奮が混じっていた。彼は薄暗いランプの明かりで笛穴を覗き込む。中に、小さな刻印が見えた。四つの叉が輪を作っているような刻印だ。
そのとき、外で小さな騒ぎが起きた。倉庫の外壁に張り付いている避難民の一団の一人が、遠くに見えた炎について話し始める。声が上がると、みなが一斉に顔を向けた。白井は立ち上がり、肩越しに外を確かめる。
「市街で小競り合いだ。拾い物の食料を奪い合ってるらしい。老人たちが巻き込まれる」白井は短く言った。彼の手はすでに動こうとしていた。
「合意を取る時間はないかもしれない」櫻子が言った。彼女は薬をかき集めながら、目の端で凪を見た。救うか、待つか。判断には重さがあった。
白井は拳を握った。喉の奥で何かが焦げるような感覚が走る。「一度だけだ。誰か反対か?」
沈黙が降りた。誰もが自分の中の声と向き合っている。凪の左耳の奥で、自分の心臓の鼓動がかすかに聞こえる程度だ。彼女はゆっくりと頭を振った。決定を下すべきは自分でもあった。
「全員でやる。今ここにいる全員の合意がいる」凪は言った。声は静かだが揺るがない。白井は唇を噛み、しばらく考え込んだあと、顎を上げて頷いた。源はわずかに笑って首肯した。櫻子は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
全員の指先が、無言で骨笛剣に触れた。掌と掌が、柄を共有する。凪は笛穴に唇を当て——今度は合意が輪になって彼女の背に重くのしかかる。彼女が吹き込む息は冷たく、倉庫の中を音の波が切り裂いた。視界の端で、空気が色を変え、記憶の中の歩幅が正確に合わせられていく。複数の地点がスローモーションで重なり合って、仲間の動きは一枚の設計図のように収斂した。
作戦は成功した。遠くの混乱は瞬時に回避され、何人かの老人が静かに余地を見つけて避難していった。だが凪は笛を下ろした瞬間、右手の指先が氷のように遠のくのを感じた。感触が薄れていき、ペンキ缶の縁をつまんでいた指が滑った。櫻子が咄嗟にそれを取り上げ、指先を冷たい水で濯いでくれたが、触っている実感は戻らなかった。
「大丈夫か?」源が心配そうに言う。声は遠い。
「——大丈夫、たぶん」凪は笑おうとしたが、笑顔は右手の感覚の欠片と一緒にこぼれ落ちた。
その夜、白井は眠らずに外を見続けた。彼は窓際に座り、小さな包みを取り出す。それは硝子騎兵団のものと思しき袋から見つけた、薄い透明の札だ。薄いガラスのようで、角に小さな切り欠きがあり、中心には微かに文字が刻まれている。白井はそれを掌で転がした。刻まれた文字は暗く浅い溝だが、光に透かすと確かに何かを示していた。
「これ、どう思う?」白井が訊いた。声は低い。彼は札の端に描かれた小さな図像を凪に見せる。図像は四方向へ矢印が伸びる輪で、凪の骨笛の刻印と似ているように見えた。
源が札を奪い取り、ランプの光にかざして細部を調べた。指先が冷たいガラスに触れる。札の内側には、微細な切削が施され、小さな粒子が内封されているように見えた。源は口元を噛んでから、低く言った。「これは……選別札だ。硝子騎兵団が配るものだ。選択を封じるための鍵だよ。どの道を選べるか、あらかじめ刻んで渡す。選べる『範囲』だけを与える」
その言葉が倉庫の空気を一枚引き裂いた。選択の「外側」を閉じる鎖。彼らの能力が仲間の合意を媒介する道具ならば、硝子騎兵団は人々の選択そのものを物理的に再編する装置を持っていたのかもしれない。だとすれば、彼らのやっていることと骨笛剣の本質は、同じ線の上