蒼雷冠の書記と逆風皇帝 第29話「巻末特別章」
煙草の匂いではない、金属とオゾンの混じった匂いが夜の空気を支配していた。塔の側面に設えられた簡素な演壇の上で、雫原燐は掌に収まる程度の蒼く光る破片を見下ろしていた。手のひらに触れると、小さな稲妻が皮膚をなぞるように走る。触覚とは別種の、薄い震えが胸の奥に残る。風は静かだ。キャンプのざわめきが遠く、近い。
煙草の匂いではない、金属とオゾンの混じった匂いが夜の空気を支配していた。塔の側面に設えられた簡素な演壇の上で、雫原燐は掌に収まる程度の蒼く光る破片を見下ろしていた。手のひらに触れると、小さな稲妻が皮膚をなぞるように走る。触覚とは別種の、薄い震えが胸の奥に残る。風は静かだ。キャンプのざわめきが遠く、近い。
「……本当に、ここで決めるのかね」ユウの声が低く響く。補給袋を肩にかけた大柄な彼は、演壇の一段下で足を組んでいた。明かりは焚き火と青い残光だけ。ユウの顔の輪郭が青に染まる。
「選択を差し出すだけじゃない。選ばれる自由が、ここで護られるかどうかだ」ミラが言う。情報屋らしく指先に小さな端末を握っている。端末の画面にも、蒼雷の細かい粒子が映り込んでいるようだった。ミラの眼差しは冷静だが、瞳の底に火がある。
カナは包帯の端を弄りながら、じっと燐を見た。彼女の手は薄く震え、息は浅い。負傷の痛みよりも、目の前の選択の重さが彼女を掴んでいる。
「僕は、もう一度だけ使える。――ただし、今回は共有の枠組みでやりたい」燐は蒼雷片を胸の高さに掲げた。青い縞が掌から指先へと流れ、皮膚を伝って爪の間に静かに滲む。光の中で、燐の声がいつもより遠く感じられた。胸の辺りがひんやりする。短い沈黙のあと、彼が続ける。
「合意した共同作戦だけを現実にする。僕が単独で決めたら、その代償は返せない。感覚の一部を失う。――それに、合意を無視して使うと、敵にも同じ作用が及ぶ。無差別に、意思を変える。だから、僕は勝手に使えない」
言葉にならない空気が、焚き火のまわりを巡る。誰もが知っていることの再提示だが、いまここで、その危うさが鮮やかに立ち上がる。ミラの眉がわずかに動く。ユウは拳を握った。
「でも時間がない。代表団が明朝に来る。『選択票』を持ってきて、手続きを開始するってさ。表向きは住民投票、実際は規定された選別と再配分が組み込まれている。前と同じ罠だ」ミラが端末をわずかに傾け、スクリーンの縁に映る届出書類を示す。書類の文字が青白く光る。彼女の声に冷たさが混じった。
「投票なら、みんなで決められる。だけど書類が改竄されているなら」カナが低く言葉を落とす。包帯の上で指先がほんの僅かに震えた。「私たちがその場で選べなくなる。選択の形だけ残されて、結局運営が選ぶ仕組みになってしまう」
燐の掌の蒼い破片が、かすかに振動した。触れるだけで過去の断片のような光景が脳裏を過る。人々が列をなす写真。鉄製のゲート。スタンプの音。だが彼はそれを追わず、今、ここにいる顔を見回した。ユウの額に刻まれた汗。ミラの粘り強い顎の線。カナの唇のわずかな裂け目。
「ここで合意をとれば、僕は――」燐は言葉を切って、提案を続けた。蒼雷冠の媒体として、一度だけ全員で成す形を「制度の再設計」に用いる。具体的には、投票の物理的な流れを、投票装置の構造そのものに組み込まれた不正の痕跡を明示し、住民が選ぶときに改竄のプロセスが明視されるようにする。その場で改竄の手段が見えるようになれば、選択を奪う制度は機能しにくくなる。
「でも、それにはみんなの合意が要る」燐が最後に付け加えた。「全員の“はい”が必要だ。半分以下の賛成では、君たちの意思が反映されない。僕が勝手にやれば、相手の意思も変えることになる。それじゃ、僕がまた誰かの選択を奪ってしまう」
「それが怖いんだ」ユウが荒い息をつく。「明日の朝まで待ってはいられない。子どもたちの夜明けが賭かってる。もし代表団が衛兵を連れてきたら、封鎖線を強化する。待っている間に、何人死ぬか分からない」
ミラは端末の画面をサッと消し、夜の闇に指先で線を引いた。彼女の瞳が燐に刺さる。「急ぐ理由だけで決めるのは、また選択を奪うことになるわ。選ぶべきなのは、いま目の前にいる人たちだ。外から来る“制度”に決めさせるための選択なら、それは放棄と同じ」
「じゃあ、どうする?」カナの声は枯れていた。包帯の端が風に揺れる。彼女の視線が焚き火へ、そして燐の手へ行きつ戻りつする。
そのとき、塔の足元で足音がした。重く規則正しい足取り。誰かが手に箱を抱えている。闇から現れたのは白髪を少し交えた中年の男で、逆風院の古い徽章を外していたが、名乗らずともその空気でわかる。男は箱を降ろし、蓋を開けた。中には小さな鉄箱と幾つかの封筒。封筒には「選択票」とだけ書かれていた。
「代表団だ。これが正式な手続きの一部だ。ここに署名し、投函すれば、それがあなた方の選択として通る」男は皮肉げに微笑んだ。彼の笑顔には、確信が篭っている。ユウが前に出て、男を睨みつける。ミラが端末を取り出し、箱の周囲をスキャンする。数字や符号が淡く浮かんでは消えた。
燐の掌の蒼雷が、ほんの少し強く脈打った。青い粒子が男の顔に向かって浮かんでいくのを、燐は視界の端で捉えた。――もし今、僕がこの破片を使って箱を無害化すれば、投票の道具そのものを選択のために変えることができるかもしれない。だが合意は揃っていない。ユウは急いでいる。ミラは慎重だ。カナは痛む手を握りしめる。
燐は掌を握りしめ、試しに破片を指先で弾いてみた。小さな閃光が指の間で走った瞬間、胸の奥で何かが冷たく剝がれ落ちた。暖かさが吹き飛び、右手の感覚が薄くなる。燐はハッと息をのんだ。焚き火の熱が遠く感じられる。ユウが駆け寄ってきて燐の肩を掴むと、燐の世界はわずかにずれる。手の中の破片は変わらず青く輝いているが、触れているはずの熱が無い。
「燐っ!」ユウの声が焦りで震える。「どうした?」
燐は右手を見た。皮膚はある。だが熱を感じない。感覚が消えている。思わず息が詰まる。小さな代償だと思っていたが、感覚は連鎖する。視野に微細な点がちらつき、耳の奥で遠いサイレンの残響が鈍く溶ける感覚があった。代償は容赦なく、少しずつ来る。
同時に、男の顔が硬直した。瞳が微かに虚ろになり、手元の封筒を開ける速度が止まる。周囲の数人の顔も、心ここにあらずという表情に変わった。燐の掌の破片がほんの試しの閃光を撒いただけで、敵の意思に波紋が走ったのだ。彼が無意識に破片を弾いた行為は、仲間全員の合意を欠いていたため、強制力は外へも及んだ。
「――やってしまった」燐は吐き捨てるように言った。暖かさの消えた右手を握りしめる。ユウが冷や汗を拭い、ミラが素早く男に近づく。ミラは端末を男の近くに突き出し、数値を取る。男の瞳に浮かぶのは、いま自分が何をしているのか分からないという戸惑いに似たものだった。だがそれは意思の欠如ではなく、操作の入り口だった。ミラは素早く口を噤む。
「彼らに直接作用した。さっきのは試しだったはずなのに……」ミラは低く言う。「完全に意図していない状況で作用してしまったら、彼らの”選ぶ”行為が歪む。これは、武器だ」
ユウの顔に怒りが浮かんだが、それ以上に不安が広がっている。カナは燐の手を取って、暖かさを探すようにさすった。指先は冷たいままだった。
燐の胸に、あの決意が再び降りてきた。力は与えられたが、同時に重石を置かれた。守るために使う力は、守るべき者の選択を奪ってはならない。だがいま行われようとしている手続きは、表向きは投票を装い