蒼雷冠の書記と逆風皇帝

蒼雷冠の書記と逆風皇帝 第14話「第一部幕間」

風はまだ、避難キャンプのテント群を撫でていた。骨の折れたランタンが一つ、ゆらりと青い影を床に落とす。雫原燐は木の机に肘をつき、名簿の端を指先でなぞっていた。指先に残るのは、昨夜の蒼い残滓──蒼雷の粒子で、冷たくて、微かに振動するような質感だった。呼吸をすると、それがほのかに鼻腔の奥で錆と硫黄の混じった匂いを立てる。

風はまだ、避難キャンプのテント群を撫でていた。骨の折れたランタンが一つ、ゆらりと青い影を床に落とす。雫原燐は木の机に肘をつき、名簿の端を指先でなぞっていた。指先に残るのは、昨夜の蒼い残滓──蒼雷の粒子で、冷たくて、微かに振動するような質感だった。呼吸をすると、それがほのかに鼻腔の奥で錆と硫黄の混じった匂いを立てる。

「燐、お前、また顔色悪いぞ」
ユウが大きな手のひらで肩を叩く。補給係らしい無骨さと、止めようのない真剣さが混じっている。ユウの手は温かく、燐は一瞬それで現実に引き戻された。

「大丈夫。ちょっと——聴こえが悪いだけ」
燐は左耳を押さえた。鈍い蝉のような耳鳴りが絶えず鳴っている。使った代償が身体に残っているのを、今日も確かめるように。

ミラは背を丸め、携帯端末の破片をテントの明かりで照らしている。画面には断片的なログと偽装されたシグネチャがちらつく。情報屋の彼女は眉を寄せ、文字列を指でなぞると、やがて顔を上げた。

「逆風院のログを追ってみた。『合意』のタイムスタンプが二重に打たれてる。端末の発信元は外部機関からだ。つまり——」
彼女は言葉を切った。指先は震えないが、手のひらに細かい汗が浮かんでいる。

「つまり、合意が偽装されてるってことか」
カナが、包帯の端をそっとつまみながら言った。看護師の彼女の声は低かった。負傷者の寝息がテントの向こうで重なっている。

燐は地図を広げる。地図の上に小さな石や木片で導線を描き、避難動線を示す。彼の脳裏には、蒼雷冠を媒介した視線のラインがまだ残像として残っている。蒼の線は、決して単純な光ではない。仲間の意思が通じた時だけ、そこを通って「ある未来」が実現する。だがその「合意」は、重く、具体的で、他人の声と視線と体温が重なる瞬間でなければ結ばれない。

「ここを通せば、夜明けまでに三班分は安全圏に出せる」
燐は指で線をなぞった。彼の視野は瞬間的に滲み、右側の端が霞んだ。先日の単独使用の代償は、左耳を奪っただけでは終わらなかった。感覚の一部は不可逆に揺らぎ、次に何を失うかは予測できない。

「合意、取れるか?」ミラが静かに訊く。彼女の目は、燐の顔からテントの外に向いた。夜の向こうに、逆風院の巡回灯がひかり、冷たい直線がいくらかのテントを横切っていた。

ユウが首を振る。「現状じゃ無理だ。補給を待ってる一部がまだ到着してない。あの通路を選べるのは、到着次第だろう」

「もし今動かないと、夜明けの検査で選別列に入る人が出る」カナの声が割れた。目頭を押さえ、目にはまだ眠れない疲労の影がある。

燐は手を握りしめた。蒼雷の微振動が掌の肉を揺らすように感じられる。使えば、確実に道はできる。けれど合意がなければ、それは敵にも作用する可能性がある。その「可能性」を去年の夜に見た人は少ない。彼は一度、仲間の同意を得られないまま動いた。助けたつもりが、見えない何かを扇動し、ある人の名前を逆風院の選別欄に刻んでしまった。燐はそれを今も夢に見る。耳鳴りが強くなると、あの夜の叫びが呼び起こされる。

テントの外、砂利を踏む足音が近づいた。鉄の装甲靴の響き。巡回ではなく、直接的な足取りだ。ユウが顔を一変させ、外へ出る。ミラも端末をポケットに仕舞い、カナは負傷者の脈をもう一度確かめてから立ち上がる。

入口のフラップをめくると、月明かりの下に逆風院の私服工作員が立っていた。作務衣のような薄手の外套を羽織り、手には黒い端末を持っている。彼は名を名乗らず、ただ一枚の紙を燐に差し出した。そこには数行の羅列と、見慣れた紋章が印刷されている。

「登録の最終確認に来た。移動の意思表示をしていない者は、今日の午後に指定収容へ移される」
その声は合理的で、かつ冷たい。話し方は機械的だ。燐は紙を受け取る。名簿の上に自分の指先を滑らせると、文字が手の震えでにじむように見えた。

「この人たちは、自分で選べるって話じゃなかったのか」燐は言った。言葉が低く、夜風がそれを持っていく。

工作員は眉一つ動かさない。「選択には秩序が必要だ。無秩序は混乱を産む。秩序は保護のためだ。合意が不確実な場合、我々の基準で決定する」

カナが前に出て、「あなたたちは、人の命を線分で測るのね」と吐き捨てるように言う。手にした包帯がかすかに震えた。

それでも工作員は眼差しを外さず、紙に黒いスタンプを押して示す。スタンプの真ん中には小さな蒼い紋があるように見えた。燐はそれを見て、背筋が冷たくなるのを感じた。蒼雷冠に似た紋だ。彼がそれを使ったときに現れる紋とも、遠からず似ていた。

「ここで決めよう。合意を取る時間はもう残されていない」彼はセリフの最後に、端末の画面をちらつかせる。そこには、キャンプの地図と点が一つずつ表示され、点は順に赤く染まって行く。

ミラの指先が端末の画面を強く叩く。何かを検出したのだろう。彼女の声は急に鋭くなった。「この端末、遠隔で同期している。ログの改竄はここで行われている。逆風院の中央じゃない、もっと近いところからだ」

その言葉は風に流されず、テントの隅々まで落ちる。工作員が一瞬だけ目を細める。だがその瞬間を燐は見逃さなかった。工作員のポケットの縁に、薄く蒼く光る粒子が付着している。それは彼の掌の中の感触と同じ、蒼雷の残滓だ。

「そこで答えろ。合意を取るのか」工作員の声は再び冷たく、だがどこか不安を含んでいた。彼自身もその蒼に触れたらしい。監視の対象だけではなく、監視する側も巻き込まれているのだと、燐は察した。

誰も動かない。夜の気配が一瞬鋭くなる。ユウが歯を食いしばり、テントの角に設置された古い無線を手に取った。応答が来ると信じている。風がそのまま答えを持って行ってしまいそうで、燐は口を噤む。

「もういい」燐は、予想もしない言葉を口にした。彼の指が、胸の内側にある小さな布袋に触れた。そこには、昨夜拾った蒼雷の小片が入っている。いつか、必要だときに、と自分に誓ったものだ。合意が取れないなら、彼は単独で動くつもりだった。目は半分閉じられ、声は静かだが決然としていた。

「一回だけ……」燐はそう呟き、掌の中の粒子を取り出した。蒼い光が彼の指の間で震え、冷たさが血管を伝う。だが、その瞬間、ミラの手が燐の腕を掴んだ。力の入れ方は柔らかいが確かだ。

「燐、駄目よ。合意がないままにやったら——」ミラの目が剣のように光る。彼女は端末を見せ、偽装ログの一部を指差す。「逆風院がそれを利用する。お前の蒼が、彼らの判定基準を上書きする。人を助けるはずの線が、逆に選別の道筋になる。あんた、あの夜のこと忘れたの?」

燐の指先が痙攣した。耳鳴りが鋭くなる。彼はミラの目を見返す。彼女の言葉は正確だ。だがテントの向こうで、負傷者の呼吸は浅くなっている。時間は殆どない。

「じゃあどうする?」ユウの声が割れる。ユウはいつでも答えを求める。彼は武器をとるでもなく、ただ正面からの行動を望んでいる。

燐は蒼雷の破片をぎゅっと握った。手の中で粒子が小さく震える。彼には分かっていた。もし自分が今、合意を得ないまま力を発動させれば、その軌跡は一定の「規則」を生む。規則は透明であり、逆風院のデ