虚数弓の測候士と砂時計軍 第15話「第13章」
砂の匂いが、つめたい金属のにおいと混じり合っていた。崩れた高架の向こう、刻印された砂時計の旗が風に揺れる。蓮は片膝をついて、虚数弓の弦代わりの細い光の帯を指先で確かめるように撫でた。視界の右端が、いつものように微かに揺れる。そこに慣れるしかない、と頭のなかで繰り返す声は、昨日よりも声が薄くなっている。
砂の匂いが、つめたい金属のにおいと混じり合っていた。崩れた高架の向こう、刻印された砂時計の旗が風に揺れる。蓮は片膝をついて、虚数弓の弦代わりの細い光の帯を指先で確かめるように撫でた。視界の右端が、いつものように微かに揺れる。そこに慣れるしかない、と頭のなかで繰り返す声は、昨日よりも声が薄くなっている。
「時間がない」ミナトが低く言った。隣でカエデが担架を押し、汗で滲んだ額をぬぐう。住民の列は裂け目のように固まっており、子どもが二人、母の腕のなかで震えている。遠くに、砂時計軍の歩哨が鋭い金属音を立てて近づいてくる。単独で突破しようにも、高架の砂の罠があちこちに仕掛けられている。蓮が見ているのは、ただの地形ではなく、風と人の動き、砕けたコンクリートの影のつき方——測候士時代に身につけた「気配の地図」だった。
「案はあるのか?」サハルが訊く。元砂時計軍の彼は、不自然なほど冷静だった。片目に淡い虹色の痕があり、それが蓮の揺れる視界とぶつかるたびに精神がきしむ。
蓮は目を閉じた。虚数弓を触ると、弦の光が皮膚の下を走るように感じられる。彼らがここで必要なのは、ただ物理の壁を壊すことではない。人の流れを、一瞬だけ別の「可能世界」に押し込むことだ。虚数弓は、その道具だ。だが条件はいつも、冷たい輪郭で立ち現れる——共有された作戦だけを、その場で一度だけ実現する。合意がなければ、その矢は誰にも届かない。合意を無視して引けば、効果は均等に広がり、敵にもその作用が及ぶ。代償は容赦なく蓄積する。単独で使えば、感覚の一部を失う。
「住民全員の承諾を取る時間はない」カエデが言う。彼女は手早く傷の手当と同時に、列の年長者へ向けて声を張る。「来るかどうかはあなたたちの選択です。私たちは押し付けはしません」
選択。砂時計軍が奪うのは、いつだって「選ぶ余地」だった。蓮はその言葉を噛みしめる。彼女は前世で、危険な現場の指揮を執り、多くの命を数字と確率に変えた。今は違う。守るべきは数字ではなく、選ぶ人々そのものだ。
歩哨の機械が近づき、金属の脚が礫を踏む音がはっきりとした。子どもの泣き声が途切れる。母の手が震え、誰かがうつむいた。ミナトが蓮の肩に手を置く。「無理をするな。全員の合意を取るべきだ」
だが蓮は目を開けた。右の視界がふっと消えかかる。矢のイメージが、勝手に立ち上がる——薄い、透けた弧。作戦を描く。通路になるはずの光の帯、捨て駒になるように見える影、敵の視界を撒くための虚像。誰がその計画をここの住民と共有すると決めるのか。目を閉じれば、母と子の顔が揺れる。彼らに選択の時間を与えられないほど迫っているのは確かだ。
「俺はやめさせる」ミナトが言葉を続ける。「一度それをやれば、次はもっと大きな代償になる。お前ひとりで背負うことを、俺たちは許さない」
合意。合意、合意、合意。蓮の鼓動が耳鳴りと混ざる。合意がないなら、弓は敵にも作用する。――敵に作用するというのは、どういうことだろう。思考が分厚い布に捕らわれるように、答えが掴めない。だが目の前の時間は容赦しない。
砂時計軍の一隊が角を曲がった。機械の先端に取り付けられた砂の筒が、置かれた輪のように回転している。隊列の先頭に黒い制服の将校が立っていて、彼の視線がまっすぐ蓮たちを捉えた。将校の顔は布マスクで隠れていたが、眼鏡越しに蓮は意思の冷たさを感じた。
「これ以上時間を稼ぐなら、ここで全員が危険に晒される」サハルが言った。彼はゆっくりとポケットから古い金属片を出す。砂のようにきめ細かな刻印が彫られている。彼の声が、低く終わる。「俺には、やれることが一つある。だがそれを使えば、お前の弓の機構に変化が起きるかもしれない」
蓮はその金属片を見ると、胸の奥が締め付けられるような予感を覚えた。サハルは砂時計軍で何を見ていたかを隠さない。彼の手の中の刻印は、軍の選択を縛る道具の一部だという噂があった。その断片が今、彼の掌の中で微かな振動を返している。
「お前は、俺たちの合意なく引けるのか?」ミナトが蓮を睨む。責めるというより、問いかける目だ。蓮は視界の端で、母が子をぎゅっと抱き締めるのを見た。自分が立ち上げた矢は、もはや単なる戦術の道具ではない。だが彼女は口を結ばなかった。
「もしあの子が――」言葉は頓挫した。誰かを守るということは、誰かの選択を制限することでもある。蓮は立ちあがり、虚数弓の光の弦を引いた。合意を得る時間はなかった。弦の引かれる感触が、神経の奥を電撃のように駆け抜ける。右の世界の輪郭が、ぐにゃりと流れた。
弓を放る瞬間、空気が裂けるような高い音がした。矢は真っ直ぐではなく、幅を持った光の帯となって地面に落ちた。その帯は、亀裂の上に薄い橋を描く。橋を渡る者は、渡るときだけ別の可能性の中に足を置く。蓮が構想した通りだ。住民たちは躊躇いなく走り出す。カエデが先導を取り、ミナトが後方の見張りを引き受ける。
だが同時に、周囲の空気がざわついた。砂時計軍の兵士たちの動きが、瞬間的にぎこちなくなった。将校が頭を抱えるようにして足を止め、錆びたような音を立てる。蓮の胸に冷たい味が広がった。合意を取らずに弓を放ったため、その作用は住民を守るだけでなく、敵の行動そのものにも触れていた。動きが腐り、小さな誤差が次々に連鎖して、彼らは一斉に倒れ込むわけでもなかったが、選択の一部を奪われたように、目が遠ざかった。
と同時に、蓮の身体が裏返るように痛んだ。視界の右側が、まるで薄いベールが降りたように欠ける。深度感覚がぼやけ、足元の感覚がぶつかる。風の音が二重に聞こえ、地平線が小刻みに跳ねた。透けた光の帯を渡るカエデの背中が、揺らめいて見える。蓮は崩れかけの塀に手をついて、自分の身体を支えた。
「蓮!」ミナトが叫ぶ。彼はすぐに駆け寄り、蓮の肩を叩くが、その指先がぶれるのが見える。ミナトの顔に怒りと恐怖が交錯した。カエデは住民を導き終え、振り返って蓮を見た。表情は安堵の色が混じるが、その目は許しを求めるようでもあった。
「大丈夫か?」サハルが言う。彼は地面に座り込み、手の金属片をぎゅっと握りしめた。蓮は手の中で、虚数弓の弦がまだ微かな余力を震わせているのを感じ取った。代償は現実になった。右側の視界欠損に加え、頭から伝わる微かな酩酊感。もしこれが累積すれば、視野全体が失われるかもしれない。そのとき、誰が合意を取り、誰が選ぶのか——自分以外の人に託す術を持たなくなる。
住民たちは逃げ切った。だが勝利の味は、甘くはなかった。ミナトは蓮の顔をのぞき込み、低く言った。「これは……一人で引いたからだ。あの効果、敵にも影響を与えた。成功はしたが、代価は増えた」
カエデが口を開く。「これからは、住民たち自身にも選択権を作り出さないと。私たちが決めるのではなく、彼らが自分で選べるように、段取りを分けよう。蓮、あなたは旗を上げる役に回って。実際の導線は私がまとめる」
サハルは黙っていたが、やがて立ち上がり、ポケットから取り出した金属片を差し出した。「これを使うと、合意の“認証”に影響を与えられる可能性がある。砂時計軍の記録と同期したものだ。もし俺がそれを弓に接続すれば、合意の範囲を広